その日は、蒼が仕事の合間に立ち寄ると言っていた。
綾芽は、工房の掃き出し窓を開け放ち、湿気を逃がしていた。
器の一部は、仮接着のまま慎重に布に包まれ、乾燥中だった。手元には、銀粉と黒漆、そして布手袋。静かな職人の時間。
そこへ、不意に戸が開いた。
「こんにちは」
その声を聞いて、綾芽は筆を止めた。
玲奈だった。
前回と違い、笑っていた。完璧な口角と、整えられた前髪。
けれど、その笑みには熱がなかった。——まるで氷でつくった仮面のように、冷たく、崩れそうだった。
「今日も、器の修復中?」
「……ええ」
綾芽は警戒を隠さなかった。
けれど、玲奈は無遠慮に土間を上がり、器に目を向けた。
「そう。……まだ、割れたままなのね」
その手が、器の包みに向かう。
綾芽が咄嗟に止めた。
「触らないで。今、乾燥中なの」
「ごめんなさい。でも、あの器、どうしてそんなに時間がかかるの?」
淡々とした口調。その内側に、何かがある。
綾芽は黙った。
玲奈は、机の端の器の一部に手を伸ばした。
そして——
「彼、今もここにいるのよね?」
その声と同時に、
パァァァァァァン!!!!
破裂音のような衝撃。
乾ききっていない器が、玲奈の掌から落ち、作業机の角に叩きつけられた。
破片が飛んだ。
鋭い音が、空間を裂いた。紙を裂くのではなく、記憶を裂き、関係を裂き、沈黙を裂いた。
銀粉の瓶が倒れ、粉が宙に舞った。雨粒のように、光を散らしながら、工房の空中を漂った。
「玲奈さん……!」
綾芽の叫びが割れた音を追いかける。
けれどもう、遅い。
粉々になった陶片。
その中に、ひとつだけ、異様な形の欠片が混じっていた。
——心臓の形。
真ん中にくびれ、上部が二つに割れた、血が通っていたかのようなその破片は、まるで器の“感情”そのものだった。
「あなた、知ってたのよね。蒼がまだ、あんたを見てるって」
玲奈の声が震えた。
怒りとも、悲しみとも、諦めともつかない、混ざり合った感情が、彼女を突き動かしていた。
「私ね……あの器、壊したとき、本当は謝るつもりだった。でも今は違う。これは“あんたたち”の器よ。蒼が、あなたと一緒に壊した器なの」
そして、言い放った。
「なら、もう一度くらい、壊れて当然でしょ」
綾芽は声を返せなかった。
ただ、銀粉が空中を舞い続けていた。まるで罪の証明のように。
玲奈が去ったあとの工房には、沈黙が降りていた。
銀粉の粒子が、まだ空中をさまよっている。
さきほどまでの動乱が幻だったかのように、雨戸の隙間から陽が差し込んでいた。けれど、光は器を照らさなかった。割れた欠片たちは、まるで雨に打たれた花のように、冷たく、黙って横たわっていた。
綾芽は、ゆっくりと腰を下ろした。
細かい破片があちこちに散っている。指先で触れると、断面が皮膚を押し返してくる。鋭く、そして、震えていた。
その中に、ひとつだけ異質なかけらがあった。
——心臓のかたち。
上部が左右にわずかに割れ、下部がとがっている。
中心にうっすらと走る傷が、まるで過去の“痛み”のようだった。
それを拾い上げた瞬間、綾芽の胸に何かが響いた。
「これは……もう、“金”じゃない」
金継ぎは、たしかに美しい。
けれど、それは「傷を誇る美」だ。あたかも、過去の過ちが美談に昇華されるような、そんな傲慢さがあった。
綾芽の手が、黒漆の瓶に伸びた。
蓋を開けると、ねっとりとした黒が、工房の空気に匂いを放った。どこか土のような、森のような、深くて重い匂い。
彼女は、その黒を筆に含ませ、割れた破片の一部に塗布していく。
金を使うならば、このあたりに。けれど、今回は使わない。
銀だ。
輝きすぎない、むしろ夜の光のように鈍く、ひかえめな光。
でも確かにそこにある。
「金じゃ、この傷は飾りすぎる。……私たちの関係に、金は似合わない」
過去を肯定するための光ではなく、
それでも“継がねばならない”という覚悟の重さを刻むために。
筆先が震えた。けれど、その震えは迷いではなかった。
指先に宿るのは、罪と向き合う決意だった。
心臓形の破片は、作業台の中央に置かれた。
まるで、自らを再生させてくれと願っているように。
綾芽は、黒漆の匂いに包まれながら、静かに目を閉じた。
——これは贖罪じゃない。これは、選択だ。
綺麗じゃない。けれど、繋ぐ。
(第5章 完)