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第6章「銀の罪、漆の闇」

 夜の工房は、世界の端にあるように静かだった。

 格子窓から差し込む月の光は、乾ききった銀粉の上でわずかに跳ね、まるで埃のように空中で揺れていた。

 机の上には、再度組み直された器の破片たち。仮接着が終わり、いよいよ“継ぎ”の段階に入る。

 綾芽は、黒漆の蓋をそっと開けた。

 あの夜と同じ匂いがする。土の匂い。水の匂い。木の皮を煮詰めたような、苦く、そして懐かしい匂い。

 筆をとる手が、震えていた。

 けれどそれは、不安ではなかった。

 ——これは贖罪じゃない。選ぶという行為そのものだ。

 金ではなく、銀を使う。

 輝かせるためではなく、記憶を刻むために。

 筆先に、漆を含ませ、接合面に細く均一に塗っていく。

 綾芽の手は職人のそれだった。迷いのない所作。指先で破片を添え、圧をかける。

 湿度と温度を読み、漆の乾き加減を計る。早すぎても遅すぎても、駄目になる。

「……こんなことして、意味あるのかな」

 ぽつりと呟いた声が、工房の梁に反響する。

 蒼のこと。玲奈のこと。器のこと。

 この手で“直す”ことで、何が得られる? 失ったものが戻るわけじゃない。

 ただ、傷が目に見える形になるだけだ。

「……でも、いいの。私は、それでいい」

 綺麗じゃないままで、いい。

 自分が誰かの恋人でも、姉でも、正しい人間でもなくても。

 この罪と、この愛を、漆で繋げるのなら、それでいい。

 漆が乾き始めるのを待ち、銀粉をまぶしていく。

 銀は、金よりも沈黙を好む。

 光を返すのではなく、吸い込むように、静かに、ただそこにある。

 綾芽の目に、継ぎ目がはっきりと浮かんでいく。

 黒と銀。夜と月。嘘と真実。背徳と、——それでも抗えない想い。

 ふと、机の端に置いた心臓形の破片に目が留まった。

 まだ、継いでいないその欠片は、まるで「お前自身だ」と言っているようだった。

 彼女は、そのかけらを手に取ると、ひときわ丁寧に筆を入れた。

 銀粉を少し多めに混ぜて、月明かりのような鈍い輝きを与える。

 ——たとえ、綺麗じゃなくても。

 ——たとえ、赦されなくても。

 ——これが私たちの形だと、ちゃんと残したい。

 工房の隅で、柱時計がひとつ、低く鳴った。

 午前二時。

 罪と銀と漆の夜が、静かに、確かに、結ばれていく。

(第6章 完)


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