夜の工房は、世界の端にあるように静かだった。
格子窓から差し込む月の光は、乾ききった銀粉の上でわずかに跳ね、まるで埃のように空中で揺れていた。
机の上には、再度組み直された器の破片たち。仮接着が終わり、いよいよ“継ぎ”の段階に入る。
綾芽は、黒漆の蓋をそっと開けた。
あの夜と同じ匂いがする。土の匂い。水の匂い。木の皮を煮詰めたような、苦く、そして懐かしい匂い。
筆をとる手が、震えていた。
けれどそれは、不安ではなかった。
——これは贖罪じゃない。選ぶという行為そのものだ。
金ではなく、銀を使う。
輝かせるためではなく、記憶を刻むために。
筆先に、漆を含ませ、接合面に細く均一に塗っていく。
綾芽の手は職人のそれだった。迷いのない所作。指先で破片を添え、圧をかける。
湿度と温度を読み、漆の乾き加減を計る。早すぎても遅すぎても、駄目になる。
「……こんなことして、意味あるのかな」
ぽつりと呟いた声が、工房の梁に反響する。
蒼のこと。玲奈のこと。器のこと。
この手で“直す”ことで、何が得られる? 失ったものが戻るわけじゃない。
ただ、傷が目に見える形になるだけだ。
「……でも、いいの。私は、それでいい」
綺麗じゃないままで、いい。
自分が誰かの恋人でも、姉でも、正しい人間でもなくても。
この罪と、この愛を、漆で繋げるのなら、それでいい。
漆が乾き始めるのを待ち、銀粉をまぶしていく。
銀は、金よりも沈黙を好む。
光を返すのではなく、吸い込むように、静かに、ただそこにある。
綾芽の目に、継ぎ目がはっきりと浮かんでいく。
黒と銀。夜と月。嘘と真実。背徳と、——それでも抗えない想い。
ふと、机の端に置いた心臓形の破片に目が留まった。
まだ、継いでいないその欠片は、まるで「お前自身だ」と言っているようだった。
彼女は、そのかけらを手に取ると、ひときわ丁寧に筆を入れた。
銀粉を少し多めに混ぜて、月明かりのような鈍い輝きを与える。
——たとえ、綺麗じゃなくても。
——たとえ、赦されなくても。
——これが私たちの形だと、ちゃんと残したい。
工房の隅で、柱時計がひとつ、低く鳴った。
午前二時。
罪と銀と漆の夜が、静かに、確かに、結ばれていく。
(第6章 完)