ガラス窓の向こうから、朝の光が差し込みはじめていた。
ここは、かつて理科室だった部屋。
棚にはフラスコやビーカーが残され、黒板にはチョークで書かれたままの周期表。
その中央にある大きなシンクに、綾芽の作業台が据えられていた。
蒼は隅の窓際に腰かけて、黙って綾芽を見守っている。
彼女の指先は今、器の“継ぎ目”に最後の仕上げを施していた。
黒漆と銀の線が、器の輪郭を縫うように走っている。
その線は歪でもなければ、整いすぎてもいない。まるで人の傷跡のように、過去のかたちをなぞるように続いていた。
綾芽は、ゆっくりと息を吸った。
——最終工程。
細筆の先に、淡く溶いた銀粉を含ませる。
継ぎ目に沿って、極薄の銀を重ねる。その動きは、まるで傷に絆創膏を貼るように、優しく、慎重で。
指先の震えは、もうなかった。
すべての継ぎ目に塗り終えた瞬間、彼女は筆を置いた。
そして、器を手に取り、窓辺にそっと置いた。
そのときだった。
差し込んできた朝の陽が、ガラス越しに器を照らした。
銀の継ぎ目が、光を受けて――
虹色に、鈍く、揺れた。
赤、青、黄、緑。
鮮烈ではない、けれど確かな色彩が、銀の表面ににじむように浮かんだ。
まるで、夜を越えた証。
まるで、傷を経てなお“残っている”ことの、美しさ。
「……見て」
綾芽の声が、震えた。
蒼がそばに来て、器を見つめる。
「綺麗……じゃないな。でも」
「……生きてるでしょ、この器」
蒼がそっと手を伸ばし、器の縁に指を触れる。
そして、綾芽の手にも。
ふたりの手が、器を挟んで重なった。
「綺麗じゃない」
その言葉は、この朝の光の中では、褒め言葉だった。
(第9章 完)