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第9章「廃校アトリエの光」

 ガラス窓の向こうから、朝の光が差し込みはじめていた。

 ここは、かつて理科室だった部屋。

 棚にはフラスコやビーカーが残され、黒板にはチョークで書かれたままの周期表。

 その中央にある大きなシンクに、綾芽の作業台が据えられていた。

 蒼は隅の窓際に腰かけて、黙って綾芽を見守っている。

 彼女の指先は今、器の“継ぎ目”に最後の仕上げを施していた。

 黒漆と銀の線が、器の輪郭を縫うように走っている。

 その線は歪でもなければ、整いすぎてもいない。まるで人の傷跡のように、過去のかたちをなぞるように続いていた。

 綾芽は、ゆっくりと息を吸った。

 ——最終工程。

 細筆の先に、淡く溶いた銀粉を含ませる。

 継ぎ目に沿って、極薄の銀を重ねる。その動きは、まるで傷に絆創膏を貼るように、優しく、慎重で。

 指先の震えは、もうなかった。

 すべての継ぎ目に塗り終えた瞬間、彼女は筆を置いた。

 そして、器を手に取り、窓辺にそっと置いた。

 そのときだった。

 差し込んできた朝の陽が、ガラス越しに器を照らした。

 銀の継ぎ目が、光を受けて――

 虹色に、鈍く、揺れた。

 赤、青、黄、緑。

 鮮烈ではない、けれど確かな色彩が、銀の表面ににじむように浮かんだ。

 まるで、夜を越えた証。

 まるで、傷を経てなお“残っている”ことの、美しさ。

 「……見て」

 綾芽の声が、震えた。

 蒼がそばに来て、器を見つめる。

「綺麗……じゃないな。でも」

「……生きてるでしょ、この器」

 蒼がそっと手を伸ばし、器の縁に指を触れる。

 そして、綾芽の手にも。

 ふたりの手が、器を挟んで重なった。

 「綺麗じゃない」

 その言葉は、この朝の光の中では、褒め言葉だった。

(第9章 完)


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