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第8章「真夜中の引越し」

 夜の東山を、スーツケースの車輪が滑っていく。

 コロコロ、ゴロゴロ、ときどきつまずくように軋んで、石畳に擦れる音だけが、二人の歩みのリズムだった。

 綾芽は小さなリュックを背負い、片手に荷を引いていた。

 蒼は工具箱と銀継ぎ用の道具一式を詰めた木箱を抱えていた。

 工房を出るとき、鍵はポストに戻した。もう、あの場所に戻る理由はない。

 追い出されたわけではなかった。けれど、誰も止めなかった。

「……重くない?」

 蒼が、かすかに笑う。

「平気。だって、君と一緒だから」

「バカ」

 そのやりとりが、少しだけ、昔に戻ったようで。

 綾芽の口元も緩む。心のどこかが、ようやく呼吸をはじめていた。

 夜行バスの発車時刻は、午前一時四十分。

 滋賀県の山間部、旧校舎の一室を改装した「陶芸家向けの短期貸アトリエ」が、蒼の手配で確保されているという。

 誰にも見られず、誰にも咎められず、ただ「作ること」と「二人でいること」だけに集中できる場所。

 バス停へ向かう途中、雨がぽつりと落ちた。

 細くてやわらかい、春と夏の間を漂うような雨。

「屋根、あっちにある」

 小さな祠のようなバス待合に駆け込む。

 身体が濡れるほどの雨じゃない。でも、この狭い空間にふたりきりという状況が、雨以上に濡れていた。

 明かりの落ちた街。

 窓ガラスの向こうに、街灯が揺れている。

 雨粒がガラスを伝い、それが街の輪郭を曖昧にする。

「こんなふうに一緒に逃げるって、想像してた?」

「……してない。してたら、怖くて踏み出せなかった」

 綾芽が言うと、蒼は肩をすくめる。

「俺は、ずっと想像してた。七年前からずっと。姉ちゃんじゃなかったらって。何回も」

 「姉ちゃん」という言葉が、刺さるように過ぎた。

 でももう、それを拒む声は、どこにもなかった。

 バスのライトが、遠くから近づいてくる。

 ヘッドライトの光が、雨粒を切り裂くように走る。

 綾芽は、静かに言った。

「……蒼」

「うん?」

「私、ずっと逃げてた。あの夜から、ずっと。あなたの気持ちにも、自分の気持ちにも。……でも、もう逃げない。もう、嘘つかない」

 その言葉のあとの沈黙は、決して重くなかった。

 蒼がそっと、彼女の頬に触れる。

 雨の気配。街灯の光。小さな待合所。

 そのすべてが、ふたりを許すように、静かに包み込んでいた。

 唇と唇が触れた。

 やわらかく、でも確かに。

 罪の記憶も、再会の戸惑いも、全部抱いたままの、初めての“本当のキス”。

 バスのドアが、ゆっくりと開いた。

(第8章 完)


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