夜の東山を、スーツケースの車輪が滑っていく。
コロコロ、ゴロゴロ、ときどきつまずくように軋んで、石畳に擦れる音だけが、二人の歩みのリズムだった。
綾芽は小さなリュックを背負い、片手に荷を引いていた。
蒼は工具箱と銀継ぎ用の道具一式を詰めた木箱を抱えていた。
工房を出るとき、鍵はポストに戻した。もう、あの場所に戻る理由はない。
追い出されたわけではなかった。けれど、誰も止めなかった。
「……重くない?」
蒼が、かすかに笑う。
「平気。だって、君と一緒だから」
「バカ」
そのやりとりが、少しだけ、昔に戻ったようで。
綾芽の口元も緩む。心のどこかが、ようやく呼吸をはじめていた。
夜行バスの発車時刻は、午前一時四十分。
滋賀県の山間部、旧校舎の一室を改装した「陶芸家向けの短期貸アトリエ」が、蒼の手配で確保されているという。
誰にも見られず、誰にも咎められず、ただ「作ること」と「二人でいること」だけに集中できる場所。
バス停へ向かう途中、雨がぽつりと落ちた。
細くてやわらかい、春と夏の間を漂うような雨。
「屋根、あっちにある」
小さな祠のようなバス待合に駆け込む。
身体が濡れるほどの雨じゃない。でも、この狭い空間にふたりきりという状況が、雨以上に濡れていた。
明かりの落ちた街。
窓ガラスの向こうに、街灯が揺れている。
雨粒がガラスを伝い、それが街の輪郭を曖昧にする。
「こんなふうに一緒に逃げるって、想像してた?」
「……してない。してたら、怖くて踏み出せなかった」
綾芽が言うと、蒼は肩をすくめる。
「俺は、ずっと想像してた。七年前からずっと。姉ちゃんじゃなかったらって。何回も」
「姉ちゃん」という言葉が、刺さるように過ぎた。
でももう、それを拒む声は、どこにもなかった。
バスのライトが、遠くから近づいてくる。
ヘッドライトの光が、雨粒を切り裂くように走る。
綾芽は、静かに言った。
「……蒼」
「うん?」
「私、ずっと逃げてた。あの夜から、ずっと。あなたの気持ちにも、自分の気持ちにも。……でも、もう逃げない。もう、嘘つかない」
その言葉のあとの沈黙は、決して重くなかった。
蒼がそっと、彼女の頬に触れる。
雨の気配。街灯の光。小さな待合所。
そのすべてが、ふたりを許すように、静かに包み込んでいた。
唇と唇が触れた。
やわらかく、でも確かに。
罪の記憶も、再会の戸惑いも、全部抱いたままの、初めての“本当のキス”。
バスのドアが、ゆっくりと開いた。
(第8章 完)