公爵家に戻ったルシアナは、湯浴みを終えると、ドレスに着替えて、侍従によって化粧を施される。
夕食まで時間があるため、侍従がスコーンと紅茶を用意してくれた。
いつも以上に甘味が体に染み渡る。
魔力を回復するとき、体内のエネルギーを消費するので、食事が多めに必要になる。
ただ、いくらエネルギーが必要になっているとしても、胃の大きさが変わるわけではないので、夕食の分を空けておかないといけないので注意が必要だ。
エネルギーを必要とするのに、食べてはいけないというジレンマに苦しくなる。
もっとも、修道院にいたときはエネルギーも必要でさらに空腹だったのに、お腹いっぱいになるだけの食糧がなかったので、遥かにマシだが。
「バルシファル……ファル様」
あの人が金の貴公子かどうかは、ルシアナには今はわからない。
ただ、あの人の近くで、冒険者についてもっと知りたいと思った。
アーノルに頼んで、明日も街に出るつもりだった。
「お嬢様、夕食の準備ができました。旦那様も間もなく食堂にいらっしゃいます」
「そうですか」
ルシアナはそう言われて、食堂に向かった。
アーノルはまだ来ていなかったが、ルシアナが席に座るのとほぼ同時に現れた。
「お父様、お時間いただきありがとうございます。お仕事は大丈夫なのですか?」
「もちろん、娘との語らいより優先する仕事などないよ」
アーノルは笑顔でそう答えた。
優しいその言葉に、ルシアナから笑みが零れる。
「君も本邸に連れて帰りたいくらいだ」
そう言われて、ルシアナは困った。
ここで公爵領に連れていかれたら、バルシファルに会えなくなってしまう。
「お父様、それは――」
「もちろん、それは許されない。本当に申し訳なく思っている」
「いえ……」
ルシアナは首を横に振った。
このまま王都に残っていられるというのは嬉しかったが、アーノルの言葉に寂しさも感じた。
「ところで、今日のことは、既に話を聞いている。なんでも、王都の外で人々の治療の手伝いをしたそうだね。あまり軽率なことをしないように叱るべきか、それとも民のために働いたことを褒めるべきか、判断に迷う。ただ、海の民を助けられたのはよかったと思う」
「やはり、陛下からの手紙というのは――」
「ああ、私が陛下に伝えた。ここで海の民を見殺しにしたら、かならず遺恨が生まれる。それは国にとって大きな損失になるとね」
それが、ルシアナの正体を白日の下に晒さずに済む結果になった。
「海の民は被差別民族なのですよね? お父様は海の民を助けたいと思われるのですか?」
「確かに被差別民族だが、しかし、彼らはその航海術を用いて、オーシャに組み込まれてから貿易会社を築き、財を成している。たとえば、この料理に使われているスパイスも、紅茶の茶葉も、海の民の力がなかったら中々手に入らなくなってしまうんだ。そのため、完全に蔑ろにすることはできない」
そう言って、アーノルは目の前の香辛料がたっぷり使われた焼き魚を切り分けて口に運ぶ。
ルシアナは知らなかった。
海の民が元々海賊であったことや、そのために差別されていることは知っていたが、彼らがどれだけ重要な人物なのか、知ろうとしなかった。
「お父様、私は何も知らないのですね」
「これから知っていけばいい」
ルシアナは何も知らない。
前世の自分は、今日、この時、一体何を思って何を行動していたのだろうか?
アーノルが死んだことを悲しんでいただろうか?
それとも、食事がまずいと喚き散らしていただろうか?
少なくとも、前世のルシアナは、海の民がレッドリザードマンに襲われたことも、町の中に入れて貰えずに門の外で治療を受けていたことも知らなかった――いや、知ろうとしなかった。
知ろうとしないことは、知らないことよりも恐ろしいとルシアナは思った。
「お父様、明日も街に行ってもいいでしょうか?」
「明日はダメだ。今日の勉強を休んだのだから、明日、明後日はしっかり学びなさい。そうだね、明日で今日の分と明日の分の二日分、明後日にさらに翌日の二日分、課題を終えることができれば、四日後は出かけることを許可しよう」
「なら、明日一日で四日分の課題を終わらせれば、明後日とその翌日も街に行ってもよろしいのですか?」
ルシアナがそう尋ねると、一瞬アーノルは目を丸くし、そして笑って言った。
「確かにそうなるね。でも、ただ終わらせるだけじゃダメだよ。しっかり理解をすること。それは勉強の内容だけではない。何のために勉強をしているのか? そこまで理解して、初めて勉強を終えたということになるんだ。わかるかい?」
「恐らく、私はお父様の仰っていることの百を知ることはできていないと思います。ですが、それを九十九理解できるように勉学に努めます」
「そうだね。それがいい心がけだ」
人が人である限り、たとえ親子であっても完全に相手を理解することはできないのだから、とアーノルは言ったのだった。
そして、アーノルは最後に言う。
「そうだ。ルシアナがとても立派な淑女に成長していたことに驚き、とても大切な話を言い忘れるところだった。決まったよ」
「決まったとは何がですか?」
「ルシアナの婚約相手。相手は、なんとシャルド殿下だ」
それをアーノルが伝えると、周囲の侍従たちが拍手をして祝福する。
『おめでとうございます、お嬢様』
『きっとお似合いですよ』
だが、ルシアナはアーノルが何故笑顔なのかも、何故周りが祝福しているのかも、九十九パーセントどころか、ほとんど理解できなかった。
部屋に戻ったルシアナは考える。
ルシアナの前世、今日、この日、ルシアナが何を思って何を行動していたのか、ようやく思い出した。
アーノルの死を悲しむでもなく、夕食のメニューに怒りをぶつけるでもなく、シャルド殿下との婚約が決まって、喜び回っていたのだった。
しかし、ルシアナは知っている。
シャルド殿下はルシアナのことをこれっぽっちも愛していない。それどころか、まともに婚約者として接してくれない。
ルシアナが会いに行きたいと手紙を送っても断られ、彼女が出席したパーティでは決まって欠席。そっけがないどころか嫌われているとしか思えない。
それに対して八つ当たりするかのようにルシアナは周囲に暴言や暴力を振るうようになり、それが悪評となって、結局一度も会うことがなく、彼女はシャルド殿下から婚約破棄されたのだから。
それに、なにより、今のルシアナはシャルド殿下になんの興味もない。
むしろ、殿下に余計な時間を費やしたくないと思っているほどだ。
「あ、そうか。どうせ会えないのなら、余計な時間を費やさなくていいのね」
ルシアナは考え方を変えた。
むしろ、自分が冒険者になるには、公爵家を追放されないといけない。
そのために、シャルド殿下から婚約破棄をされないといけない。
だとするなら、シャルド殿下との婚約は、むしろありがたい話だ。
彼が婚約者である限り、他の余計な縁談話も舞い込んでこないだろうし、いい防波堤になる。
そう思うことにした。
だが、この時、ルシアナはまだ気付いていなかった。
自分が婚約破棄されるには、悪評が王子の耳に届くように立ち振る舞わなければいけないことに。
そして、それが今のルシアナにはどれだけ難しいかということに。