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第116話

 それはルシアナにとって遠い昔、幼い頃の記憶だった。

 彼女の母が亡くなって一週間、長い葬儀が終わり、疲れが溜まっていたのだろう。

 まだ幼いルシアナは熱が出て倒れた。


「……おかーさま」


 領地持ちの貴族の慣習として、跡取り以外の子供のうち一人は王都の別邸に住むという暗黙の決まりがある

 そのため、ルシアナは物心つく前に、王都の別邸に住むことになった。

 ルシアナの母は、そんな彼女を不憫に思い、一緒に王都に移り住んでくれた。

 アーノルは月に一度しか王都に訪れないため、ルシアナにとって親は、アーノルではなくその亡くなった母であった。


「お嬢様、熱冷ましの薬をお持ちしました。どうかお飲みください」

「いや!」


 熱冷ましの薬を持ってきたステラをそう言って拒絶した。

 何度か熱冷ましの薬を飲んだことがあるけれど、とても苦く、熱が下がるとわかっていても飲みたいものではない。それでもルシアナが飲んできたのは、薬を飲み終えたら母が褒めてくれていたからだった。

 その母が亡くなって、褒めてくれる者はもういない。

 そんな事情もあり、ルシアナは薬を飲まずにいた。

 ステラは無理して薬を飲ませるのを諦めた。

 疲れが出ているだけ、放っておけば数日で治るものであるから。

 ただ、その数日間、ルシアナが辛い思いをするだけ。

 そうしたら、次から熱が出たとき、本当に危ない病気になったとき、薬を飲んでくれる。

 そう思っていたのだろう。

 ステラのそんな思惑通り、ルシアナは熱で眠れぬ夜を過ごしていた。

 誰かを呼んで水を貰おうと思っても、喉がカラカラで大きい声が出せない。

 立ち上がろうにも体を起こす力すらない。

 そんなことはないと、いまならわかるが、この時のルシアナはこのまま死んでしまうのではないかと思っていた。

 そんな時だった。


「喉が渇いたのか? 湯冷ましの水を用意してある」


 そう言ったのはルシアナの兄、カイトだった。

 何度か会ったことがある、血が繋がっているだけの存在。

 ルシアナにとって、カイトはそういう相手であった。

 そんな彼が何故部屋にいるのか――ルシアナはこの時、わからなかった。

 ただ、ルシアナは水を飲みたくて頷く。


「そうか。ゆっくり飲むんだぞ」


 カイトの言葉にルシアナは頷くも、一気に水を飲む。

 当然、咽る。


「だから慌てるなと言っただろ」


 呆れるように言うカイトにムッとしながらも、ルシアナは今度こそゆっくり水を飲む。


「熱冷ましの薬を用意している。これを飲めば苦しみから解放されるぞ」

「イヤ」


 水を飲んで、少し声が出るようになったルシアナはそう言って否定する。


「何故だ?」

「のんでもおかーさまがほめてくれないから」

「そうか……羨ましいな」

「……え?」

「俺は母上がこっちに移り住んでから、数回しか会ったことがないからな」


 そう言って、カイトは一本の薬瓶を取りだした。


「友から貰った薬だ。これを飲むと、苦い薬も甘く感じるようになるらしい。なんでも、魔法とは違う別の力が込められているとか」


 ルシアナはその時、何故か不思議とカイトの言葉を素直に信じることができた。

 そして、そのドロっとした薬を飲んでから熱冷ましの薬を飲むと、強烈な甘みを感じた。


「あまい」

「苦いよりいいだろ?」

「うん」


 ルシアナはそう言って、熱冷ましの薬を飲むと、最後にカイトが持ってきた水で口全体に広がる、不快にもなっている甘味を取り去る。

 すると、魔法の薬だけあって、身体の気だるさが一気にマシになった。


「ゆっくり寝るんだぞ」


 そう言って、カイトはルシアナの頭を優しく撫で、そして部屋を去ろうとするが、ルシアナがカイトの袖を掴んだ。


「――おにーさまもいっしょに」


 母親が亡くなったことで寂しかったのだろう。

 苦い薬を甘くしてくれたことで、ルシアナのカイトへの信頼感は一気に跳ね上がり、そして甘えることができる対象だと思ったらしい。

 ルシアナは涙目で訴えると、カイトは何やら頭を抱えて考え、そして言う。


「……わかった」


 そう言って、小さなベッドにカイトも入り、二人で手を握って眠った。

 そして、ルシアナが目を覚ました時には、カイトは既に部屋にいなかった。

 母の葬儀が終わり、アーノルと一緒に王都に帰ったらしい。

 ベッドからは既にカイトの温もりも消え、あったのは空になった薬瓶二つだけだった。

 そして、その夜の記憶は、ルシアナの頭からも徐々に消えていき、すっかり忘れていった。

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