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王都アルカディアの高級街に佇む『銀の薔薇亭』は、貴族たちの重要な会合に使われる格式高いレストランだった。
水晶のシャンデリアが放つ柔らかな魔術光が、磨き上げられた大理石の床に複雑な光の紋様を描いている。
エルンスト・フォン・ヴァイスベルクは、灰色の瞳で向かいの席に座る銀髪の令嬢を見つめていた。
今日この場所に彼女を呼んだのは、二週間前に正式に決まった婚約について、重要な話があったからだ。
「セシリア嬢、改めて我々の婚約について話したい」
セシリア・ド・モンフォールは青い瞳に知的な光を宿したまま、優雅にティーカップを置いた。
「はい、エルンスト様。私も同じことを考えていました」
エルンストと呼ばれた黒髪の青年は、まるで学術会議で発表するかのような真剣な表情で続けた。
「周知の通り、この婚約は両家の魔術研究における相乗効果を期待したものだ」
「ええ。ヴァイスベルク侯爵家とモンフォール伯爵家は共に魔術の階梯を昇らんとする同士」
セシリアは冷静に状況を整理した。
「魔術の発展のために、最適な組み合わせでしょう」
「その通りだ。だが私は考えた」
エルンストは身を乗り出した。
「より大きな──そして、実りある成果を生み出すには、より深い関係性が必要ではないか、と」
「深い関係性、ですか」
「そう。そこで提案がある」
彼は一呼吸置いて、宣言した。
「私は君を愛するつもりでいる」
静寂が二人の間に落ちた。
隣のテーブルから、押し殺したすすり泣きが聞こえてくる。
セシリアは一瞬だけ瞬きをしたが、すぐに冷静さを取り戻した。
「つもり、とおっしゃいましたね。興味深い表現です」
「そう、つもりだ」
エルンストは、いつもの魔術理論を語る時のような熱っぽい口調になった。
「考えてみたまえ、セシリア嬢。歴史上、最も偉大な魔術的発見の多くは、深い信頼関係にある者たちによってなされている」
「第三世紀の『双子の月理論』を確立したレオニードとカタリナ夫妻」
セシリアが例を挙げた。
「空間転移術を完成させたアルベルトとソフィアの師弟」
「そして彼らに共通するのは、単なる協力関係を超えた精神的結合だ」
エルンストの目が輝いた。
「だからこそ、我々も政略結婚という枠組みを、より生産的なものに昇華させるべきではないか」
隣席から、グラスが割れる音がした。
振り返ると、紺色のドレスを着た伯爵令嬢が、震える手でナプキンを口元に当てていた。
「リシャール様……三年間の婚約を、たった一度の舞踏会で破棄なさるのですね」
向かいに座る青年貴族は、居心地悪そうに視線を逸らしている。
「エリーゼ、これは突然のことではない。アンナ嬢と踊った瞬間、私は真実を悟ったのだ」
「一度踊っただけで、私との三年間が」
エリーゼの声は震えていた。
「無意味になるというのですか」
エルンストとセシリアは、同時に眉をひそめた。
「非論理的だ」
エルンストが呟く。
「三年間の蓄積を、数分の接触が上回るとは」
「もし魅了術だとしたら」
セシリアは声を潜めた。
「いや、それはありえない」
エルンストは即座に否定した。
「魅了術は第一級禁呪だ。発覚すれば魔術師資格の永久剥奪どころか、極刑もありうる」
「それに、リシャール子爵は相当な魔力の持ち主のはず」
セシリアも同意した。
「我々貴族は幼少期から対魔術防御を叩き込まれています。生半可な魅了など」
「通じるはずがない」
エルンストは考え込んだ。
「だとすると、これは純粋な感情の変化なのか?」
「しかし、あまりにも急激すぎます」
二人が小声で議論している間に、隣席の伯爵令嬢は立ち上がった。
「お幸せに、リシャール様」
優雅に、しかし悲しみを隠しきれない足取りで、彼女はレストランを後にした。
エルンストはその様子を観察しながら、セシリアに向き直った。
「もし仮に、禁呪を使える者がいるとしたら」
「王国にとって重大な脅威ですね。難易度自体はそうでもないのでしょうが──」
「うむ、倫理観の問題だ」
セシリアの表情が引き締まった。
「でも、今はまず我々の話を」
「そうだな」
エルンストは話題を戻した。
「私の提案は、我々の婚約期間を愛の実証的研究期間とすることだ」
セシリアは少し首を傾げた。
「つまり、感情を意図的に構築し、その過程を学術的に記録すると?」
「正確には、既存の好意的感情を発展させ、それが真の愛と呼べる状態に至るかを検証する」
エルンストは準備していたかのように説明を続けた。
「君も認めるだろう? 我々は既に優れた研究パートナーだ」
「それは事実です」
セシリアは素直に認めた。
「あなたの『十三層構造理論』に対する私の古代文献からの補強は、学会でも高く評価されました」
「君の解読がなければ、理論の実証は不可能だった」
エルンストは真剣な表情で続けた。
「この知的な結びつきを、感情的な結びつきにまで発展させることができれば」
「研究における相乗効果は計り知れない、ということですね」
「その通りだ!」
エルンストは興奮を隠さなかった。
「しかも、これは魔術史上でも稀有な実験となる。愛という感情を、リアルタイムで観測・記録した例はない」
セシリアの瞳に、学者としての興味が宿った。
「確かに、愛に関する研究は回顧的なものばかりです」
「詩人の感傷的な記述や、哲学者の抽象的な考察に留まっている」
「でも、エルンスト様」
セシリアは慎重に言葉を選んだ。
「感情は制御できるものでしょうか」
「完全な制御は不可能だろう。だが、方向付けは可能なはずだ」
エルンストは自信を持って答えた。
「適切な刺激と環境を用意すれば」
「刺激と環境……例えば?」
「定期的なデート、贈り物の交換、共同作業の増加」
彼は指を折りながら数え上げた。
「そして何より重要なのは、互いを深く知ること」
セシリアは、ふと微笑んだ。
「既に私たちは、お互いの研究については誰よりも理解し合っています」
「だが、人間としての側面はどうだろう?」
エルンストは問いかけた。
「君の好きな食べ物、嫌いな天候、子供の頃の思い出.そういったことを、私はほとんど知らない」
「確かに」
セシリアは考え込んだ。
「私も、あなたの研究以外の面については……」
「だからこそ、この実験には意味がある」
エルンストは熱を込めて語った。
「単なる政略結婚で終わらせるには、我々はあまりにも相性が良すぎる」
セシリアは、しばらく黙って考えていた。
やがて、顔を上げた。
「一つ質問があります」
「何だろう?」
「もし実験が失敗したら? 愛が生まれなかったら?」
エルンストは真剣な表情で答えた。
「その時は、少なくとも友情と尊敬に基づいた関係が残る。それは政略結婚としては上等な結果だ」
「なるほど」
「それに」
彼は少し照れたような表情を見せた。
「失敗する気がしない。君といる時の知的な高揚感は、既に特別なものだから」
セシリアの頬が、ほんのりと赤く染まった。
「それは私も同感です」
「では?」
「お受けいたします」
彼女は微笑んだ。
「共同研究者として、そして実験対象として」
「素晴らしい!」
エルンストは、子供のような純粋な喜びを見せた。
「早速、研究計画を立てよう」
「まず必要なのは、初期状態の測定ですね」
セシリアはすでに研究モードに入っていた。
「現在の好意度、親密度、信頼度などを数値化しておく必要があります」
「測定方法も標準化しなければ」
「古代の『心魂計測術』を応用できるかもしれません」
「ああ、第九文書に記載されていたものか」
二人は熱心に議論を始めた。
給仕が新しい料理を運んできても、ほとんど手をつけずに話し続ける。
「ところで、セシリア嬢」
議論の合間に、エルンストが言った。
「先ほどの隣席の一件、気になることがある」
「アンナという女性のことですね」
「もし本当に魅了術が使われているとしたら」
エルンストの表情が真剣になった。
「それも、貴族の防御を突破できるほどの」
「前代未聞の事態です」
セシリアも声を潜めた。
「第七位階以上の術者でなければ不可能でしょう」
「しかも、それを堂々と使うとは」
「いずれ調査が必要かもしれません」
「ああ。だが今は」
エルンストは微笑んだ。
「我々の研究が優先だ」
「もちろんです」
セシリアも微笑み返した。
二人は顔を見合わせて、同時に笑い出した。
レストランの他の客たちは、奇妙な恋人たちだと思っただろう。
料理もそこそこに、難しい理論を語り合う若い男女。
だが二人の間に流れる空気は、確かに温かかった。
やがて日が暮れ、魔術灯が通りを照らし始めた。
「実り多い夕食だった」
エルンストは満足そうに言った。
「ええ。次回は具体的な実験手順を」
「それと、君の好きな食べ物も聞かせてほしい」
セシリアは少し驚いた顔をした。
「実験の一環として?」
「いや」
エルンストは首を振った。
「純粋に知りたいんだ」
セシリアは、優しく微笑んだ。
「甘いものが好きです。特に、蜂蜜菓子」
「覚えておこう」
そうして二人は立ち上がり、レストランを後にした。