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愛の実証的研究 ~侯爵令息と伯爵令嬢の非科学的な結論~
愛の実証的研究 ~侯爵令息と伯爵令嬢の非科学的な結論~
NIWA
異世界恋愛ロマファン
2025年06月06日
公開日
2.6万字
連載中
魔術の申し子エルンストと呪術の天才セシリアは、政略結婚の相手同士。しかし二人は「愛を科学的に証明する」という前代未聞の実験を開始する。手を繋ぐ時間を測定し、心拍数の上昇をデータ化し、親密度を数値で管理する奇妙なカップル。一方、彼らの周囲では「愛される祝福」を持つ令嬢アンナが巻き起こす恋愛騒動が王都を揺るがしていた。理論と感情の狭間で、二人の天才魔術師が辿り着く「愛」の答えとは――

1.「セシリア嬢、改めて我々の婚約について話したい」

 ◆


 王都アルカディアの高級街に佇む『銀の薔薇亭』は、貴族たちの重要な会合に使われる格式高いレストランだった。


 水晶のシャンデリアが放つ柔らかな魔術光が、磨き上げられた大理石の床に複雑な光の紋様を描いている。


 エルンスト・フォン・ヴァイスベルクは、灰色の瞳で向かいの席に座る銀髪の令嬢を見つめていた。


 今日この場所に彼女を呼んだのは、二週間前に正式に決まった婚約について、重要な話があったからだ。


「セシリア嬢、改めて我々の婚約について話したい」


 セシリア・ド・モンフォールは青い瞳に知的な光を宿したまま、優雅にティーカップを置いた。


「はい、エルンスト様。私も同じことを考えていました」


 エルンストと呼ばれた黒髪の青年は、まるで学術会議で発表するかのような真剣な表情で続けた。


「周知の通り、この婚約は両家の魔術研究における相乗効果を期待したものだ」


「ええ。ヴァイスベルク侯爵家とモンフォール伯爵家は共に魔術の階梯を昇らんとする同士」


 セシリアは冷静に状況を整理した。


「魔術の発展のために、最適な組み合わせでしょう」


「その通りだ。だが私は考えた」


 エルンストは身を乗り出した。


「より大きな──そして、実りある成果を生み出すには、より深い関係性が必要ではないか、と」


「深い関係性、ですか」


「そう。そこで提案がある」


 彼は一呼吸置いて、宣言した。


「私は君を愛するつもりでいる」


 静寂が二人の間に落ちた。


 隣のテーブルから、押し殺したすすり泣きが聞こえてくる。


 セシリアは一瞬だけ瞬きをしたが、すぐに冷静さを取り戻した。


「つもり、とおっしゃいましたね。興味深い表現です」


「そう、つもりだ」


 エルンストは、いつもの魔術理論を語る時のような熱っぽい口調になった。


「考えてみたまえ、セシリア嬢。歴史上、最も偉大な魔術的発見の多くは、深い信頼関係にある者たちによってなされている」


「第三世紀の『双子の月理論』を確立したレオニードとカタリナ夫妻」


 セシリアが例を挙げた。


「空間転移術を完成させたアルベルトとソフィアの師弟」


「そして彼らに共通するのは、単なる協力関係を超えた精神的結合だ」


 エルンストの目が輝いた。


「だからこそ、我々も政略結婚という枠組みを、より生産的なものに昇華させるべきではないか」


 隣席から、グラスが割れる音がした。


 振り返ると、紺色のドレスを着た伯爵令嬢が、震える手でナプキンを口元に当てていた。


「リシャール様……三年間の婚約を、たった一度の舞踏会で破棄なさるのですね」


 向かいに座る青年貴族は、居心地悪そうに視線を逸らしている。


「エリーゼ、これは突然のことではない。アンナ嬢と踊った瞬間、私は真実を悟ったのだ」


「一度踊っただけで、私との三年間が」


 エリーゼの声は震えていた。


「無意味になるというのですか」


 エルンストとセシリアは、同時に眉をひそめた。


「非論理的だ」


 エルンストが呟く。


「三年間の蓄積を、数分の接触が上回るとは」


「もし魅了術だとしたら」


 セシリアは声を潜めた。


「いや、それはありえない」


 エルンストは即座に否定した。


「魅了術は第一級禁呪だ。発覚すれば魔術師資格の永久剥奪どころか、極刑もありうる」


「それに、リシャール子爵は相当な魔力の持ち主のはず」


 セシリアも同意した。


「我々貴族は幼少期から対魔術防御を叩き込まれています。生半可な魅了など」


「通じるはずがない」


 エルンストは考え込んだ。


「だとすると、これは純粋な感情の変化なのか?」


「しかし、あまりにも急激すぎます」


 二人が小声で議論している間に、隣席の伯爵令嬢は立ち上がった。


「お幸せに、リシャール様」


 優雅に、しかし悲しみを隠しきれない足取りで、彼女はレストランを後にした。


 エルンストはその様子を観察しながら、セシリアに向き直った。


「もし仮に、禁呪を使える者がいるとしたら」


「王国にとって重大な脅威ですね。難易度自体はそうでもないのでしょうが──」


「うむ、倫理観の問題だ」


 セシリアの表情が引き締まった。


「でも、今はまず我々の話を」


「そうだな」


 エルンストは話題を戻した。


「私の提案は、我々の婚約期間を愛の実証的研究期間とすることだ」


 セシリアは少し首を傾げた。


「つまり、感情を意図的に構築し、その過程を学術的に記録すると?」


「正確には、既存の好意的感情を発展させ、それが真の愛と呼べる状態に至るかを検証する」


 エルンストは準備していたかのように説明を続けた。


「君も認めるだろう? 我々は既に優れた研究パートナーだ」


「それは事実です」


 セシリアは素直に認めた。


「あなたの『十三層構造理論』に対する私の古代文献からの補強は、学会でも高く評価されました」


「君の解読がなければ、理論の実証は不可能だった」


 エルンストは真剣な表情で続けた。


「この知的な結びつきを、感情的な結びつきにまで発展させることができれば」


「研究における相乗効果は計り知れない、ということですね」


「その通りだ!」


 エルンストは興奮を隠さなかった。


「しかも、これは魔術史上でも稀有な実験となる。愛という感情を、リアルタイムで観測・記録した例はない」


 セシリアの瞳に、学者としての興味が宿った。


「確かに、愛に関する研究は回顧的なものばかりです」


「詩人の感傷的な記述や、哲学者の抽象的な考察に留まっている」


「でも、エルンスト様」


 セシリアは慎重に言葉を選んだ。


「感情は制御できるものでしょうか」


「完全な制御は不可能だろう。だが、方向付けは可能なはずだ」


 エルンストは自信を持って答えた。


「適切な刺激と環境を用意すれば」


「刺激と環境……例えば?」


「定期的なデート、贈り物の交換、共同作業の増加」


 彼は指を折りながら数え上げた。


「そして何より重要なのは、互いを深く知ること」


 セシリアは、ふと微笑んだ。


「既に私たちは、お互いの研究については誰よりも理解し合っています」


「だが、人間としての側面はどうだろう?」


 エルンストは問いかけた。


「君の好きな食べ物、嫌いな天候、子供の頃の思い出.そういったことを、私はほとんど知らない」


「確かに」


 セシリアは考え込んだ。


「私も、あなたの研究以外の面については……」


「だからこそ、この実験には意味がある」


 エルンストは熱を込めて語った。


「単なる政略結婚で終わらせるには、我々はあまりにも相性が良すぎる」


 セシリアは、しばらく黙って考えていた。


 やがて、顔を上げた。


「一つ質問があります」


「何だろう?」


「もし実験が失敗したら? 愛が生まれなかったら?」


 エルンストは真剣な表情で答えた。


「その時は、少なくとも友情と尊敬に基づいた関係が残る。それは政略結婚としては上等な結果だ」


「なるほど」


「それに」


 彼は少し照れたような表情を見せた。


「失敗する気がしない。君といる時の知的な高揚感は、既に特別なものだから」


 セシリアの頬が、ほんのりと赤く染まった。


「それは私も同感です」


「では?」


「お受けいたします」


 彼女は微笑んだ。


「共同研究者として、そして実験対象として」


「素晴らしい!」


 エルンストは、子供のような純粋な喜びを見せた。


「早速、研究計画を立てよう」


「まず必要なのは、初期状態の測定ですね」


 セシリアはすでに研究モードに入っていた。


「現在の好意度、親密度、信頼度などを数値化しておく必要があります」


「測定方法も標準化しなければ」


「古代の『心魂計測術』を応用できるかもしれません」


「ああ、第九文書に記載されていたものか」


 二人は熱心に議論を始めた。


 給仕が新しい料理を運んできても、ほとんど手をつけずに話し続ける。


「ところで、セシリア嬢」


 議論の合間に、エルンストが言った。


「先ほどの隣席の一件、気になることがある」


「アンナという女性のことですね」


「もし本当に魅了術が使われているとしたら」


 エルンストの表情が真剣になった。


「それも、貴族の防御を突破できるほどの」


「前代未聞の事態です」


 セシリアも声を潜めた。


「第七位階以上の術者でなければ不可能でしょう」


「しかも、それを堂々と使うとは」


「いずれ調査が必要かもしれません」


「ああ。だが今は」


 エルンストは微笑んだ。


「我々の研究が優先だ」


「もちろんです」


 セシリアも微笑み返した。


 二人は顔を見合わせて、同時に笑い出した。


 レストランの他の客たちは、奇妙な恋人たちだと思っただろう。


 料理もそこそこに、難しい理論を語り合う若い男女。


 だが二人の間に流れる空気は、確かに温かかった。


 やがて日が暮れ、魔術灯が通りを照らし始めた。


「実り多い夕食だった」


 エルンストは満足そうに言った。


「ええ。次回は具体的な実験手順を」


「それと、君の好きな食べ物も聞かせてほしい」


 セシリアは少し驚いた顔をした。


「実験の一環として?」


「いや」


 エルンストは首を振った。


「純粋に知りたいんだ」


 セシリアは、優しく微笑んだ。


「甘いものが好きです。特に、蜂蜜菓子」


「覚えておこう」


 そうして二人は立ち上がり、レストランを後にした。


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