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2.「そう。感情も結局は、因果関係の連鎖から成り立っているもの」

 ◆


 モンフォール伯爵家の書斎は、天井まで届く書架に囲まれた知の聖域だった。


 古代から現代まで、あらゆる時代の魔術文献が整然と並び、羊皮紙特有の甘い香りが漂っている。


 セシリアは愛用の机で、エルンストとの「実験」に使う測定術式の設計図を広げていた。


「心拍数の変動係数と魔力の共振周波数を同時に測定するには」


 彼女が複雑な術式を書き込んでいると、扉を叩く音がした。


「セシリア様、マリアンヌ様がお見えです」


 使用人の声にセシリアは顔を上げた。


 マリアンヌ・ド・ラフォーレは、王立魔術学院時代からの親友だった。


「通してちょうだい」


 数分後、薄紫のドレスを着た栗色の髪の令嬢が入ってきた。


 いつもは快活な彼女の顔が、今日は曇っている。


「マリアンヌ、どうしたの? 顔色が優れないわ」


 セシリアは立ち上がり、友人を迎えた。


「セシリア……相談があって」


 マリアンヌは力なく椅子に腰を下ろした。


「アルベルトのことなの」


 アルベルト・フォン・ヴィルヌーヴ子爵は、マリアンヌの二年来の婚約者だった。


 誠実で優しい青年として知られ、二人の仲は社交界でも評判が良かった。


「彼がどうかしたの?」


 セシリアは向かいに座り、紅茶を勧めた。


「最近、様子がおかしいのよ」


 マリアンヌはカップを両手で包むように持った。


「アンナ様のことばかり話すの」


「アンナ様?」


 セシリアの眉がぴくりと動いた。


 昨日のレストランでも、その名前を聞いたばかりだった。


「リーベンシュタイン男爵家の令嬢よ。半年ほど前に社交界にデビューしたの」


「ああ、聞いたことがあるわ」


 セシリアは慎重に言葉を選んだ。


「とても魅力的な方だとか」


「そうなの。蜂蜜色の髪に、翡翠のような瞳」


 マリアンヌの声が震えた。


「先週の舞踏会で、アルベルトが彼女と一曲踊っただけなのに」


 涙が頬を伝い始めた。


「それ以来、私といる時も上の空で、アンナ様の話ばかり」


 セシリアは友人の手をそっと握った。


 しかし、同時に学者としての興味も湧き上がっていた。


「マリアンヌ、辛いでしょうけど、詳しく聞かせてもらえる?」


「え?」


「アルベルト様がアンナ様について話す時、具体的にどんなことを言うの?」


 セシリアは手帳を取り出した。


「例えば、容姿について? 性格について?」


 マリアンヌは戸惑いながらも答えた。


「『アンナ様の笑顔は太陽のようだ』とか、『声は銀の鈴のよう』とか」


「ふむ」


 セシリアはペンを走らせた。


「他には?」


「『彼女といると心が安らぐ』『話していると時間を忘れる』」


 マリアンヌは思い出すのも辛そうだった。


「でも、セシリア、なぜそんなことを?」


「マリアンヌ、一つ聞いてもいい?」


 セシリアは顔を上げた。


「アルベルト様は、以前あなたに対して似たような言葉を使ったことはない?」


「え?」


「例えば、『君の笑顔は太陽のようだ』とか」


 マリアンヌは考え込んだ。


「そういえば去年の誕生日に、『君の笑顔は僕の太陽だ』って」


「『声は銀の鈴のよう』は?」


「それも初めて会った時に言われたわ」


 マリアンヌの表情が変わり始めた。


「まさか」


「興味深いわね」


 セシリアは冷静に分析を始めた。


「同じ表現を、別の対象に使っている」


「でも、それって」


「普通、人は特別な相手にしか使わない言葉があるはずよ」


 セシリアは立ち上がり、書架から一冊の本を取り出した。


「『感情表現の言語学的分析』ここに書いてあるわ」


 ページをめくりながら説明する。


「恋愛感情を表現する際、人は独自の比喩や言い回しを開発する傾向がある」


「つまり?」


「同じ表現を使い回すということは、感情そのものが」


 セシリアは言葉を切った。


「テンプレート化している可能性があるということ」


 マリアンヌは青ざめた。


「じゃあ、アルベルトの気持ちは本物じゃないの?」


「断言はできないわ。でも」


 セシリアは友人の肩に手を置いた。


「不自然な点があるのは確かね」


「不自然」


「マリアンヌ、もう少し教えて」


 セシリアは再び椅子に座った。


「アルベルト様がアンナ様に心を奪われたと感じたのは、正確にいつ?」


「舞踏会の翌日よ」


 マリアンヌは涙を拭いた。


「朝、いつものように手紙が届いたんだけど」


「内容は?」


「『昨夜は素晴らしい体験をした』『世界が違って見える』」


 彼女は震え声で続けた。


「『君には申し訳ないが、心が別の方向を向いてしまった』って」


 セシリアはペンを置いた。


「一晩で?」


「そうなの。前日まで、私たちは結婚式の相談をしていたのに」


「結婚式の相談を」


 セシリアは眉をひそめた。


「それほど具体的な段階まで進んでいたのね」


「ドレスの生地も選んで、式場の下見も」


 マリアンヌの声が途切れた。


 セシリアは立ち上がり、窓の外を見つめた。


 王都の午後は穏やかで、庭園では薔薇が咲き誇っている。


 しかし、その平和な光景の裏で、何か不穏なことが起きている予感がした。


「マリアンヌ」


 振り返ると、セシリアの青い瞳には決意が宿っていた。


「アルベルト様と話をしてみない?」


「でも、もう彼は」


「いいえ、諦めるのは早いわ」


 セシリアは微笑んだ。


「もし彼の感情が何らかの影響を受けているなら、論理的に解きほぐせるはずよ」


「論理的に?」


「そう。感情も結局は、因果関係の連鎖から成り立っているもの」


 セシリアは自信を持って言った。


「その連鎖に矛盾があれば、本人も気づくはずよ」


 マリアンヌは半信半疑だったが、友人の確信に満ちた様子に希望を見出した。


「やってみる価値はあるかもしれないわね」


「その意気よ」


 セシリアは手を叩いた。


「ところで、アンナ様について他に知っていることは?」


「そうね」


 マリアンヌは思い出すように言った。


「不思議な噂があるの」


「噂?」


「彼女と関わった殿方は、皆心を奪われてしまうって」


 マリアンヌは声を潜めた。


「でも、それって単に彼女が魅力的だからでしょう?」


「どうかしら」


 セシリアは昨日のレストランでの出来事を思い出していた。


 三年の婚約を一夜で破棄した子爵のことを。


「他にも似たような話があるの?」


「ええ、いくつも」


 マリアンヌは指を折りながら数えた。


「ベルトラン侯爵の御曹司、フィリップ男爵、それにジャック准男爵も」


「全員、既に婚約者や恋人がいた?」


「そうよ。でもアンナ様と出会ってから」


 セシリアはメモを取りながら、パターンを分析し始めた。


「共通点があるわね」


「共通点?」


「全員、一度の接触で心変わりしている」


 セシリアは顔を上げた。


「通常の恋愛なら、もっと段階的なプロセスを経るはずよ」


「確かに」


 マリアンヌも気づき始めた。


「私とアルベルトも、友人から始まって、徐々に」


「そう、それが自然な流れ」


 セシリアは立ち上がった。


「だからこそ、この急激な変化には何か理由があるはず」


 二人が話し込んでいると、再び扉を叩く音がした。


「セシリア様、ヴァイスベルク侯爵家からお手紙が」


「エルンスト様から?」


 セシリアは封を切った。


 中には、几帳面な文字で実験計画が記されていた。


「明日の午後、第一回観測を行いたい」という一文に、彼女は微笑んだ。


「良い知らせ?」


 マリアンヌが尋ねる。


「ええ、婚約者からよ」


「そういえば、ヴァイスベルク侯爵令息と婚約したのよね」


 マリアンヌは少し元気を取り戻した。


「どんな方なの?」


「変わった人よ」


 セシリアは苦笑した。


「愛を実証的に研究しようなんて言い出すんだから」


「愛を研究?」


「そう。データを取って、分析して、法則を見つけようって」


 マリアンヌは呆れたような顔をした。


「それってロマンチックなの?」


「分からないわ」


 セシリアは正直に答えた。


「でも、真剣に向き合おうとしてくれているのは確かよ」


 手紙を机に置くと、セシリアは友人に向き直った。


「マリアンヌ、明日アルベルト様に会いに行きましょう」


「でも」


「私も同行するわ。客観的な第三者として」


 セシリアの申し出に、マリアンヌは勇気づけられた。


「ありがとう、セシリア」


「友人として当然のことよ」


 セシリアは微笑んだが、内心では別のことも考えていた。


 もしアンナという女性が、本当に人の心を操る力を持っているなら。


 それは王国にとって、いや、人々の幸せにとって大きな脅威となる。


「マリアンヌ、一つ約束して」


「何?」


「明日の会話で、何か不自然なことに気づいたら、すぐに教えて」


 セシリアの真剣な表情に、マリアンヌは頷いた。


「分かったわ」


 夕暮れが近づき、書斎に橙色の光が差し込んできた。


 二人の令嬢はそれぞれの思いを胸に、明日の対面に向けて準備を始めた。



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