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モンフォール伯爵家の書斎は、天井まで届く書架に囲まれた知の聖域だった。
古代から現代まで、あらゆる時代の魔術文献が整然と並び、羊皮紙特有の甘い香りが漂っている。
セシリアは愛用の机で、エルンストとの「実験」に使う測定術式の設計図を広げていた。
「心拍数の変動係数と魔力の共振周波数を同時に測定するには」
彼女が複雑な術式を書き込んでいると、扉を叩く音がした。
「セシリア様、マリアンヌ様がお見えです」
使用人の声にセシリアは顔を上げた。
マリアンヌ・ド・ラフォーレは、王立魔術学院時代からの親友だった。
「通してちょうだい」
数分後、薄紫のドレスを着た栗色の髪の令嬢が入ってきた。
いつもは快活な彼女の顔が、今日は曇っている。
「マリアンヌ、どうしたの? 顔色が優れないわ」
セシリアは立ち上がり、友人を迎えた。
「セシリア……相談があって」
マリアンヌは力なく椅子に腰を下ろした。
「アルベルトのことなの」
アルベルト・フォン・ヴィルヌーヴ子爵は、マリアンヌの二年来の婚約者だった。
誠実で優しい青年として知られ、二人の仲は社交界でも評判が良かった。
「彼がどうかしたの?」
セシリアは向かいに座り、紅茶を勧めた。
「最近、様子がおかしいのよ」
マリアンヌはカップを両手で包むように持った。
「アンナ様のことばかり話すの」
「アンナ様?」
セシリアの眉がぴくりと動いた。
昨日のレストランでも、その名前を聞いたばかりだった。
「リーベンシュタイン男爵家の令嬢よ。半年ほど前に社交界にデビューしたの」
「ああ、聞いたことがあるわ」
セシリアは慎重に言葉を選んだ。
「とても魅力的な方だとか」
「そうなの。蜂蜜色の髪に、翡翠のような瞳」
マリアンヌの声が震えた。
「先週の舞踏会で、アルベルトが彼女と一曲踊っただけなのに」
涙が頬を伝い始めた。
「それ以来、私といる時も上の空で、アンナ様の話ばかり」
セシリアは友人の手をそっと握った。
しかし、同時に学者としての興味も湧き上がっていた。
「マリアンヌ、辛いでしょうけど、詳しく聞かせてもらえる?」
「え?」
「アルベルト様がアンナ様について話す時、具体的にどんなことを言うの?」
セシリアは手帳を取り出した。
「例えば、容姿について? 性格について?」
マリアンヌは戸惑いながらも答えた。
「『アンナ様の笑顔は太陽のようだ』とか、『声は銀の鈴のよう』とか」
「ふむ」
セシリアはペンを走らせた。
「他には?」
「『彼女といると心が安らぐ』『話していると時間を忘れる』」
マリアンヌは思い出すのも辛そうだった。
「でも、セシリア、なぜそんなことを?」
「マリアンヌ、一つ聞いてもいい?」
セシリアは顔を上げた。
「アルベルト様は、以前あなたに対して似たような言葉を使ったことはない?」
「え?」
「例えば、『君の笑顔は太陽のようだ』とか」
マリアンヌは考え込んだ。
「そういえば去年の誕生日に、『君の笑顔は僕の太陽だ』って」
「『声は銀の鈴のよう』は?」
「それも初めて会った時に言われたわ」
マリアンヌの表情が変わり始めた。
「まさか」
「興味深いわね」
セシリアは冷静に分析を始めた。
「同じ表現を、別の対象に使っている」
「でも、それって」
「普通、人は特別な相手にしか使わない言葉があるはずよ」
セシリアは立ち上がり、書架から一冊の本を取り出した。
「『感情表現の言語学的分析』ここに書いてあるわ」
ページをめくりながら説明する。
「恋愛感情を表現する際、人は独自の比喩や言い回しを開発する傾向がある」
「つまり?」
「同じ表現を使い回すということは、感情そのものが」
セシリアは言葉を切った。
「テンプレート化している可能性があるということ」
マリアンヌは青ざめた。
「じゃあ、アルベルトの気持ちは本物じゃないの?」
「断言はできないわ。でも」
セシリアは友人の肩に手を置いた。
「不自然な点があるのは確かね」
「不自然」
「マリアンヌ、もう少し教えて」
セシリアは再び椅子に座った。
「アルベルト様がアンナ様に心を奪われたと感じたのは、正確にいつ?」
「舞踏会の翌日よ」
マリアンヌは涙を拭いた。
「朝、いつものように手紙が届いたんだけど」
「内容は?」
「『昨夜は素晴らしい体験をした』『世界が違って見える』」
彼女は震え声で続けた。
「『君には申し訳ないが、心が別の方向を向いてしまった』って」
セシリアはペンを置いた。
「一晩で?」
「そうなの。前日まで、私たちは結婚式の相談をしていたのに」
「結婚式の相談を」
セシリアは眉をひそめた。
「それほど具体的な段階まで進んでいたのね」
「ドレスの生地も選んで、式場の下見も」
マリアンヌの声が途切れた。
セシリアは立ち上がり、窓の外を見つめた。
王都の午後は穏やかで、庭園では薔薇が咲き誇っている。
しかし、その平和な光景の裏で、何か不穏なことが起きている予感がした。
「マリアンヌ」
振り返ると、セシリアの青い瞳には決意が宿っていた。
「アルベルト様と話をしてみない?」
「でも、もう彼は」
「いいえ、諦めるのは早いわ」
セシリアは微笑んだ。
「もし彼の感情が何らかの影響を受けているなら、論理的に解きほぐせるはずよ」
「論理的に?」
「そう。感情も結局は、因果関係の連鎖から成り立っているもの」
セシリアは自信を持って言った。
「その連鎖に矛盾があれば、本人も気づくはずよ」
マリアンヌは半信半疑だったが、友人の確信に満ちた様子に希望を見出した。
「やってみる価値はあるかもしれないわね」
「その意気よ」
セシリアは手を叩いた。
「ところで、アンナ様について他に知っていることは?」
「そうね」
マリアンヌは思い出すように言った。
「不思議な噂があるの」
「噂?」
「彼女と関わった殿方は、皆心を奪われてしまうって」
マリアンヌは声を潜めた。
「でも、それって単に彼女が魅力的だからでしょう?」
「どうかしら」
セシリアは昨日のレストランでの出来事を思い出していた。
三年の婚約を一夜で破棄した子爵のことを。
「他にも似たような話があるの?」
「ええ、いくつも」
マリアンヌは指を折りながら数えた。
「ベルトラン侯爵の御曹司、フィリップ男爵、それにジャック准男爵も」
「全員、既に婚約者や恋人がいた?」
「そうよ。でもアンナ様と出会ってから」
セシリアはメモを取りながら、パターンを分析し始めた。
「共通点があるわね」
「共通点?」
「全員、一度の接触で心変わりしている」
セシリアは顔を上げた。
「通常の恋愛なら、もっと段階的なプロセスを経るはずよ」
「確かに」
マリアンヌも気づき始めた。
「私とアルベルトも、友人から始まって、徐々に」
「そう、それが自然な流れ」
セシリアは立ち上がった。
「だからこそ、この急激な変化には何か理由があるはず」
二人が話し込んでいると、再び扉を叩く音がした。
「セシリア様、ヴァイスベルク侯爵家からお手紙が」
「エルンスト様から?」
セシリアは封を切った。
中には、几帳面な文字で実験計画が記されていた。
「明日の午後、第一回観測を行いたい」という一文に、彼女は微笑んだ。
「良い知らせ?」
マリアンヌが尋ねる。
「ええ、婚約者からよ」
「そういえば、ヴァイスベルク侯爵令息と婚約したのよね」
マリアンヌは少し元気を取り戻した。
「どんな方なの?」
「変わった人よ」
セシリアは苦笑した。
「愛を実証的に研究しようなんて言い出すんだから」
「愛を研究?」
「そう。データを取って、分析して、法則を見つけようって」
マリアンヌは呆れたような顔をした。
「それってロマンチックなの?」
「分からないわ」
セシリアは正直に答えた。
「でも、真剣に向き合おうとしてくれているのは確かよ」
手紙を机に置くと、セシリアは友人に向き直った。
「マリアンヌ、明日アルベルト様に会いに行きましょう」
「でも」
「私も同行するわ。客観的な第三者として」
セシリアの申し出に、マリアンヌは勇気づけられた。
「ありがとう、セシリア」
「友人として当然のことよ」
セシリアは微笑んだが、内心では別のことも考えていた。
もしアンナという女性が、本当に人の心を操る力を持っているなら。
それは王国にとって、いや、人々の幸せにとって大きな脅威となる。
「マリアンヌ、一つ約束して」
「何?」
「明日の会話で、何か不自然なことに気づいたら、すぐに教えて」
セシリアの真剣な表情に、マリアンヌは頷いた。
「分かったわ」
夕暮れが近づき、書斎に橙色の光が差し込んできた。
二人の令嬢はそれぞれの思いを胸に、明日の対面に向けて準備を始めた。