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王立魔術学院の中庭は、秋の陽光に包まれていた。
噴水から流れる水音が学生たちの談笑と混じり合い、穏やかな午後の雰囲気を作り出している。
エルンストはいつものように魔術理論書を片手に、人気のない木陰のベンチへ向かっていた。
そこへ、蜂蜜色の髪をした令嬢が近づいてきた。
「エルンスト様」
アンナだ。
切実そうな声。
エルンストは一瞬だけ視線を上げ、すぐに本に戻した。
「リーベンシュタイン男爵令嬢か。何か用かね」
声色は冷淡でこそないが、明らかに距離を置いたものだった。
「お話があるんです」
その言葉に、エルンストの手が止まった。
しかし顔は上げない。
目も合わせない。
アンナを嫌っているからではなく、警戒しているが故の態度であった。
「残念だが私は急いでいる」
本を閉じ、立ち上がるエルンスト。
「次の講義に遅れるわけにはいかない」
「待ってください!」
アンナは必死に呼び止めた。
「お願いです。あなたならこの異常な状況を理解してくださるはず」
エルンストは足を止めたが、振り返らなかった。
脳裏にはセシリアとの約束が浮かんでいる。
もしアンナと話すなら、セシリア同席のもとで──それが二人の取り決めだ。
「申し訳ないが今は話すべき時ではない」
エルンストは歩き始めた。
「失礼する」
「そんな……お待ちください!」
アンナは声を震わせ、小走りでエルンストの前に回り込んだ。
「お願いです。誰も私の話を真剣に聞いてくれないんです」
翡翠の瞳に涙が浮かんでいる。
──魅了される条件が分からない現状、これ以上彼女と話すのは危険だな
そう思ったエルンストだが──
その様子を見ていた一人の青年が、憤然として立ち上がった。
「待て、ヴァイスベルク!」
レオナルド・フォン・カルディナ伯爵令息の声が、中庭に響いた。
栗色の髪をした長身の青年は、大股でエルンストに近づいてきた。
「レディを泣かせるとは、貴族として恥ずべき行為だ」
エルンストは溜息をついた。
「私は何もしていない。単に時間がないと伝えただけだ」
「言い訳は聞きたくない」
レオナルドは剣の柄に手をかけた。
「アンナ嬢への無礼、私が正す」
周囲の学生たちがざわめき始めた。
決闘の気配を感じ取ったのだ。
「くだらない」
エルンストは冷たく言い放った。
「君は関係ないだろうに」
「関係ならある! 私のアンナ嬢を想う気持ちをも貴様は侮辱したのだ!」
レオナルドの顔が真っ赤になった。
「エルンスト・フォン・ヴァイスベルク、貴様に決闘を申し込む!」
中庭が静まり返った。
決闘──それは貴族社会において、名誉を賭けた戦いだ。
「断る」
エルンストの返答は簡潔だった。
「そのような非生産的な行為に時間を割く価値はない」
レオナルドの表情が侮蔑に変わった。
「腰抜けめ! 侯爵家の名が泣くぞ」
その言葉に、周囲からさまざまな反応が起こった。
令嬢たちからは同情的な囁きが漏れる。
「エルンスト様がお気の毒」
「理不尽な決闘よね」
しかし、アンナに心を奪われた令息たちは違った。
「彼は臆病者だ」
「決闘から逃げるとは、貴族の恥」
エルンストは周囲の声など聞こえていないかのように、踵を返した。
「時間の無駄だ」
彼は何事もなかったかのように歩き去っていく。
残されたレオナルドは、怒りに震えながら叫んだ。
「逃げるのか臆病者!」
アンナは青ざめた顔で、その場に立ち尽くすばかりだった。
◆
数日後、ヴァイスベルク侯爵家の書斎。
この日はセシリアと2人で魔術談義をする予定であった。
いわゆる家デートというやつだ。
エルンストは黙々と書を読んでいたが、ふと顔を上げた。
向かいに座るセシリアの様子がおかしい。
いつもの穏やかな表情の奥に、苛立ちが見え隠れしている。
「セシリア嬢、何か気がかりなことでも?」
エルンストの問いかけに、セシリアは少し驚いた。
「いえ、何も」
彼女は微笑もうとしたが、その笑顔は固い。
「本当に?」
エルンストは本を置いた。
「君の魔力波動が通常より17パーセント乱れている」
セシリアは苦笑した。
「相変わらず鋭いですね」
彼女は息をついた。
「実は、学院で聞いた噂が」
「決闘の件か」
エルンストは淡々と言った。
セシリアは頷いた。
「あなたが『腰抜け』と呼ばれているそうですね」
「事実だ。私は決闘を拒否した」
エルンストの声に動揺はない。
セシリアは立ち上がり、窓辺に歩いた。
「理屈では分かっています。もちろんエルンスト様が腰抜けだなどとは思っていませんが」
「それは嬉しいが。ともかく決闘に応じる意味はない。非合理的で、危険で、何の生産性もない」
「その通りです。ただ──」
セシリアが続ける。
青い瞳に、珍しく感情が渦巻いていた。
「あなたが侮辱されるのは、不快極まりないと思う自分がいるのです」
エルンストは黙って彼女を見つめた。
「私は矛盾しています」
セシリアは自嘲的に笑った。
「決闘を受けてほしくもありません。怪我をする可能性もありますし」
セシリアは小さくため息をつきながら言った。
「私は私が何を望んでいるのか、あなたにどうしてほしいのか、分からないのです」
やがて、エルンストが口を開いた。
「なるほど、理解した」
彼は立ち上がった。
「解決策は簡単だ」
セシリアが顔を上げる。
「決闘を受け、その上で無傷で勝利すればいい」
エルンストは断言した。
「そうすれば、君の理性と感情、両方が満たされる」
セシリアは目を見開いた。
「でも、それは危険で──」
危険なものか、とエルンストは言った。
「決闘で魔術を使う事は禁止されていないのだから」
事実ではあった。
ただ、それでも魔術を使う者は滅多にいない。
というのも、剣の距離で魔術を使っても意味がない。
魔術は精神集中と詠唱を必要とするため、魔術が感性する前に剣で斬られてしまうからだ。
特に攻撃に使うような魔術は
「まあ見ていたまえ。それにひとつ試してみたい実験もある」
「実験……ですか? でもそれなら私が……」
「婚約者を相手にするような実験ではなくてね」
そういってエルンストは笑った。
彼の常の笑みではない。
貴族がしばしば浮かべる冷たい笑みだ。