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6.「エルンスト・フォン・ヴァイスベルク、貴様に決闘を申し込む!」

 ◆


 王立魔術学院の中庭は、秋の陽光に包まれていた。


 噴水から流れる水音が学生たちの談笑と混じり合い、穏やかな午後の雰囲気を作り出している。


 エルンストはいつものように魔術理論書を片手に、人気のない木陰のベンチへ向かっていた。


 そこへ、蜂蜜色の髪をした令嬢が近づいてきた。


「エルンスト様」


 アンナだ。


 切実そうな声。


 エルンストは一瞬だけ視線を上げ、すぐに本に戻した。


「リーベンシュタイン男爵令嬢か。何か用かね」


 声色は冷淡でこそないが、明らかに距離を置いたものだった。


「お話があるんです」


 その言葉に、エルンストの手が止まった。


 しかし顔は上げない。


 目も合わせない。


 アンナを嫌っているからではなく、警戒しているが故の態度であった。


「残念だが私は急いでいる」


 本を閉じ、立ち上がるエルンスト。


「次の講義に遅れるわけにはいかない」


「待ってください!」


 アンナは必死に呼び止めた。


「お願いです。あなたならこの異常な状況を理解してくださるはず」


 エルンストは足を止めたが、振り返らなかった。


 脳裏にはセシリアとの約束が浮かんでいる。


 もしアンナと話すなら、セシリア同席のもとで──それが二人の取り決めだ。


「申し訳ないが今は話すべき時ではない」


 エルンストは歩き始めた。


「失礼する」


「そんな……お待ちください!」


 アンナは声を震わせ、小走りでエルンストの前に回り込んだ。


「お願いです。誰も私の話を真剣に聞いてくれないんです」


 翡翠の瞳に涙が浮かんでいる。


 ──魅了される条件が分からない現状、これ以上彼女と話すのは危険だな


 そう思ったエルンストだが──


 その様子を見ていた一人の青年が、憤然として立ち上がった。


「待て、ヴァイスベルク!」


 レオナルド・フォン・カルディナ伯爵令息の声が、中庭に響いた。


 栗色の髪をした長身の青年は、大股でエルンストに近づいてきた。


「レディを泣かせるとは、貴族として恥ずべき行為だ」


 エルンストは溜息をついた。


「私は何もしていない。単に時間がないと伝えただけだ」


「言い訳は聞きたくない」


 レオナルドは剣の柄に手をかけた。


「アンナ嬢への無礼、私が正す」


 周囲の学生たちがざわめき始めた。


 決闘の気配を感じ取ったのだ。


「くだらない」


 エルンストは冷たく言い放った。


「君は関係ないだろうに」


「関係ならある! 私のアンナ嬢を想う気持ちをも貴様は侮辱したのだ!」


 レオナルドの顔が真っ赤になった。


「エルンスト・フォン・ヴァイスベルク、貴様に決闘を申し込む!」


 中庭が静まり返った。


 決闘──それは貴族社会において、名誉を賭けた戦いだ。


「断る」


 エルンストの返答は簡潔だった。


「そのような非生産的な行為に時間を割く価値はない」


 レオナルドの表情が侮蔑に変わった。


「腰抜けめ! 侯爵家の名が泣くぞ」


 その言葉に、周囲からさまざまな反応が起こった。


 令嬢たちからは同情的な囁きが漏れる。


「エルンスト様がお気の毒」


「理不尽な決闘よね」


 しかし、アンナに心を奪われた令息たちは違った。


「彼は臆病者だ」


「決闘から逃げるとは、貴族の恥」


 エルンストは周囲の声など聞こえていないかのように、踵を返した。


「時間の無駄だ」


 彼は何事もなかったかのように歩き去っていく。


 残されたレオナルドは、怒りに震えながら叫んだ。


「逃げるのか臆病者!」


 アンナは青ざめた顔で、その場に立ち尽くすばかりだった。


 ◆


 数日後、ヴァイスベルク侯爵家の書斎。


 この日はセシリアと2人で魔術談義をする予定であった。


 いわゆる家デートというやつだ。


 エルンストは黙々と書を読んでいたが、ふと顔を上げた。


 向かいに座るセシリアの様子がおかしい。


 いつもの穏やかな表情の奥に、苛立ちが見え隠れしている。


「セシリア嬢、何か気がかりなことでも?」


 エルンストの問いかけに、セシリアは少し驚いた。


「いえ、何も」


 彼女は微笑もうとしたが、その笑顔は固い。


「本当に?」


 エルンストは本を置いた。


「君の魔力波動が通常より17パーセント乱れている」


 セシリアは苦笑した。


「相変わらず鋭いですね」


 彼女は息をついた。


「実は、学院で聞いた噂が」


「決闘の件か」


 エルンストは淡々と言った。


 セシリアは頷いた。


「あなたが『腰抜け』と呼ばれているそうですね」


「事実だ。私は決闘を拒否した」


 エルンストの声に動揺はない。


 セシリアは立ち上がり、窓辺に歩いた。


「理屈では分かっています。もちろんエルンスト様が腰抜けだなどとは思っていませんが」


「それは嬉しいが。ともかく決闘に応じる意味はない。非合理的で、危険で、何の生産性もない」


「その通りです。ただ──」


 セシリアが続ける。


 青い瞳に、珍しく感情が渦巻いていた。


「あなたが侮辱されるのは、不快極まりないと思う自分がいるのです」


 エルンストは黙って彼女を見つめた。


「私は矛盾しています」


 セシリアは自嘲的に笑った。


「決闘を受けてほしくもありません。怪我をする可能性もありますし」


 セシリアは小さくため息をつきながら言った。


「私は私が何を望んでいるのか、あなたにどうしてほしいのか、分からないのです」


 やがて、エルンストが口を開いた。


「なるほど、理解した」


 彼は立ち上がった。


「解決策は簡単だ」


 セシリアが顔を上げる。


「決闘を受け、その上で無傷で勝利すればいい」


 エルンストは断言した。


「そうすれば、君の理性と感情、両方が満たされる」


 セシリアは目を見開いた。


「でも、それは危険で──」


 危険なものか、とエルンストは言った。


「決闘で魔術を使う事は禁止されていないのだから」


 事実ではあった。


 ただ、それでも魔術を使う者は滅多にいない。


 というのも、剣の距離で魔術を使っても意味がない。


 魔術は精神集中と詠唱を必要とするため、魔術が感性する前に剣で斬られてしまうからだ。


 特に攻撃に使うような魔術はが長い傾向にある。


「まあ見ていたまえ。それにひとつ試してみたい実験もある」


「実験……ですか? でもそれなら私が……」


「婚約者を相手にするような実験ではなくてね」


 そういってエルンストは笑った。


 彼の常の笑みではない。


 貴族がしばしば浮かべる冷たい笑みだ。

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