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なぜ、私はこんな──
思考がかすむ。
体が重い。
剣を握るのも精一杯だ。
なぜ、こんなにも苦しい。
あの男が何かをした──それは私にも分かっている。
だが何をしたのかが分からない。
魔術を使った様子もなかった。
ただ、話しただけだ。
内容も愚にもつかないようなものだった。
そう、確か──
◆
王立魔術学院の第三訓練場は、決闘のために設けられた特別な空間だった。
石造りの円形闘技場を模した構造で、観客席には既に多くの学生が詰めかけている。
午後の陽光が斜めに差し込み、中央の決闘場を劇的に照らし出していた。
エルンストは黒い学院服に身を包み、腰に帯剣して現れた。
その冷静な表情からは、これから決闘を行うという緊張感は微塵も感じられない。
対するレオナルドは、真紅の上着に身を包み、愛用の剣を手に既に待ち構えていた。
「来たか、臆病者」
レオナルドの声には侮蔑が滲んでいる。
観客席では、アンナが青ざめた顔で成り行きを見守っていた。
その周りには、彼女に心を奪われた令息たちが群がっている。
「ところでレオナルド」
エルンストは決闘場の中央に立ちながら、退屈そうに言った。
「君は私が根っからの魔術師だと知ってそうやって剣を握っているのかい?」
言葉の端々に、奇妙なリズムが混じっている。
「君は確かカルローン流という実践剣術を修めていたと思うのだが」
レオナルドは鼻で笑った。
「挑発は無駄だ。貴様の臆病な本性は既に露呈している」
彼は美しい構えで剣を構えた。
カルローン流の基本型、攻防一体の構えだ。
エルンストも仕方なさそうに剣を抜いた。
しかし、その剣先は明らかにレオナルドからずれている。
まるで素人が見よう見まねで構えたような、不格好な姿勢だった。
「なんだその構えは」
レオナルドが嘲笑した。
「まともに剣も握れないのか」
「まあ、剣は慣れていなくてね」
エルンストは淡々と答えた。
審判役の教官が前に出た。
白髪の老教師は、厳かに宣言する。
「これより、レオナルド・フォン・カルディナとエルンスト・フォン・ヴァイスベルクの決闘を開始する」
手が振り下ろされた。
「始め!」
その瞬間、エルンストは剣を下げた。
「だから魔術を使う」
一言そう告げると、彼は宙空に腰を下ろした。
まるで見えない椅子に座るかのように、足を組んで空中に浮いている。
次の瞬間、レオナルドの顔色が蒼白になった。
膝から崩れ落ち、両手で喉元を押さえる。
「が……はっ……」
呼吸が荒く、苦しそうに地面に這いつくばった。
観客席がざわめく。
「何が起きたの?」
「レオナルド様が苦しんでる!」
「でも、エルンスト様は何もしていないように見えたけど」
セシリアだけが、冷静に事態を見つめていた。
「なるほど」
彼女は小さく呟いた。
隣に座っていたマリアンヌが振り向く。
「セシリア、何が分かったの?」
「決闘が開始された時、既に詠唱は終わっていたのです」
セシリアは感心したような表情で説明を始めた。
マリアンヌは首を傾げた。
「でも、詠唱なんて聞こえなかったわ」
「それもそのはず」
セシリアは身を乗り出した。
「エルンスト様の挑発的な言葉、違和感を覚えませんでしたか?」
「違和感?」
「言葉の端々に、魔術の詠唱が組み込まれていたのです」
セシリアは興奮を隠せない様子で続けた。
「古代の『隠匿詠唱術』。通常の会話の中に詠唱を紛れ込ませる高等技術です」
エルンストが空中から声を上げた。
「その通りだ。私がレオナルドを挑発し、『私』が魔術を詠唱した」
セシリアの青い瞳が輝いた。
「疑似人格を作ったのですね」
「正解だ」
エルンストは満足そうに頷いた。
「レオナルド、剣では君に勝てないからね」
彼は苦しむ青年を見下ろした。
「ところでどうする? そのままだと窒息してしまうが」
レオナルドは息も絶え絶えに顔を上げた。
「ひ……卑怯者め……」
その言葉に、観客席の令嬢たちから罵声が飛んだ。
「どちらが卑怯よ!」
「理不尽な決闘を申し込んだのは誰?」
エルンストは苦笑した。
「まあ、それはいい。で、どうするのだね?」
レオナルドは屈辱に震えながらも、かろうじて言葉を絞り出した。
「ま……負けを……認める……」
しかし、その表情は悔しさに歪んでいる。
アンナに魅了された令息たちも、エルンストの勝利を実力とは認めていない様子だった。
「魔術なんて卑怯だ」
「正々堂々と剣で戦うべきだった」
セシリアが立ち上がりかけた。
しかし、それより早くエルンストが動いた。
彼は人差し指をレオナルドに向ける。
「火」
静かな呟きと共に、赤い閃光が走った。
レオナルドの頬を掠めた光線は、地面に小さな穴を穿つ。
穴は深く、底が見えない。
本来ならば指先に小さい火を灯すだけの魔術である。
しかしエルンストが使えばこうなる。
観客席が静まり返った。
「正々堂々と戦わなくてすまなかった」
エルンストの声は氷のように冷たい。
「ただ、私が害意を以て君を魔術で攻撃すると、どうあがいても君は死ぬよ」
レオナルドは震えていた。
「私は君が死んでも余り悲しくはない」
エルンストは淡々と続けた。
「でも君の婚約者が悲しむのではないかな。そう思ってあえてああいう手を取ったが。さすがに君の周辺のみから大気を奪うというのはそれなりの行程を経なければならなくてね」
彼は肩をすくめた。
「まあでも私の配慮は無駄のようだし、そういった配慮は『卑怯』だとされるようだ」
エルンストの表情が、貴族特有の冷酷さを帯びた。
「だから殺すとしよう」
今度は顔面に指を向ける。
「決闘法では相手を殺しても構わないとされている。──さようなら、レオナルド」
その瞬間、一人の令嬢が観客席から飛び出してきた。
栗色の髪を振り乱しながら、レオナルドの前に立つ。
「エルンスト様、どうか──」
レオナルドは呆然と彼女を見つめた。
「決闘法によれば」
エルンストは感情のない声で言った。
「決闘中にこの様に横入りしてきた者は、どう処分されても文句は言えない事になっている」
それでも令嬢は退かない。
涙を流しながら、両手を広げてレオナルドを庇っていた。
「アイラ……」
レオナルドが震え声で呟いた。
何かがはじけたような表情で、彼は剣を捨てた。
そして、エルンストに向かって深く頭を下げる。
「申し訳ございませんでした」
彼の声は、先ほどまでとは違っていた。
「私の無礼、深くお詫びいたします」
レオナルドは土下座するように跪いた。
「どうか、私の命だけで収めてください」
エルンストは指を下ろした。
「結構! 二度とこのように絡んでくれるなよ」
そう言うと、エルンストは軽やかに空中から降り立った。
レオナルドは婚約者のアイラに支えられながら立ち上がる。
彼の目には、もうアンナへの異常な執着は見られない。
「エルンスト殿」
レオナルドが改めて頭を下げた。
「重ねてお詫び申し上げます。そして……感謝を」
エルンストは頷いた。
「気にすることはない。良い実験材料になった」
アイラがレオナルドの腕にすがりついた。
「もう、こんな馬鹿なことはしないでくださいね」
「ああ、約束する」
レオナルドは愛おしそうに婚約者を見つめた。
その一方、セシリアの元へと歩いていくエルンスト。
「セシリア嬢」
耳元で囁くエルンスト。
その距離感はまさに恋人同士といった感じだ。
「見たかい? 実験は成功だ。生命の危機に直面した時、人工的な感情よりも本来の絆が優先されるという仮説が証明された。彼の心は婚約者へと戻ったようだ」
セシリアは小さく微笑む。
「なるほど、極限状態では魅了の影響よりも、真の感情が表出するということですね」
「その通りだ。アイラ嬢が身を挺して守ろうとした瞬間、彼の中で何かが切り替わった」
エルンストは満足そうに続けた。
「魅了による感情は表層的なものに過ぎない。真の危機においては、より深い部分にある本来の感情が呼び覚まされる。私の思った通りだ!」
そういってたエルンストは、思わずセシリアを抱きしめた。
セシリアもエルンストを抱きしめ返す。
実験が思う様に進んだ時の喜びは何物にも代えがたい事を彼女は知っているからだ。
魔術を探究する者同士の実に健全な姿。
が、近くにいた令嬢は照れたような表情で茶化した。
「まあ、お二人ったら。こんな場所でいちゃいちゃして」
「そうよ、せめて決闘場の外でなさって」
エルンストとセシリアは顔を見合わせた。
「いちゃいちゃ?」
「私たちは実験成功の喜びを共に──ああ、もしかしたら!」
セシリアは何か気づいたような表情になった。
「エルンスト様。今、他者から『いちゃいちゃ』と評価されました。これは恋人同士として、また一つ親密さが増したということではないでしょうか」
エルンストは考え込んだ──セシリアを抱きしめながら。
「なるほど、第三者からの観察による評価か。確かにこの抱擁は予定外の行動だ。しかし」
エルンストは真剣な表情で続けた。
「肉体的接触には明確な意義があると判断できる。心拍数の上昇、体温の変化、そして」
少し照れたように咳払いをするエルンスト。
「言語化できない満足感があった」
セシリアも頷いた。
「私も同じです。理論的には予測していましたが、実際の体験は想定を上回りました」
「では、今後の実験計画に『適度な肉体的接触』も組み込むべきだろうか」
「それが自然な恋人同士の振る舞いなら、必要でしょうね。ちなみにこの満足感は“愛”と言えるのでしょうか?」
エルンストは愁眉を寄せて考え込む。
「愛──ではない気がする。文献によれば愛とは唯一無二の素晴らしいものとされているが、そんなものを感得したならばそれと分かるはずだ」
確かに、とセシリアは同意する。
「今しばらく実験を続ける必要がありそうですね」
「ああ、続けよう。愛を知る事は、愛を育てる手段を知る事でもあるはずだ」
そんな風に二人が真面目に議論を始めると、周囲の令嬢たちは呆れたように首を振った。
処置無し、といった感であろうか。