「そんなこと言われても困るんですよお」
ああ、これだよ。アーリアは内心で頭を抱えた。隣にいる紫苑の顔を見るのが怖い。女神・マーテルが現れて第一声を放った瞬間、見るまでもなく空気が凍りついたからだ。
女神マーテルは、石像同様に非常に露出の高い格好で、くるくると自分の長い髪を弄んでいた。外見年齢で言えば、アーリアと同じ――十八歳とかそこらくらいの年齢であるように見える。実際は永遠に近い時、リア・ユートピアを見守っているはずなので――相当長い時間を生きている、ぶっちゃけ老婆以上の年であるはずなのだけど。
「私はただ、世界が平和になるようにお祈りしただけですー。優しい勇者様が来て、世界を救ってくれますようにって。世界が危機に陥った時、よその世界から勇者様を呼んで助けて貰う権利が私達にはあるんです。だからそうしたし、とっても平和的な力を与えました。それなのに勇者様が全然言うこと聴いてくれなくて、世界の平和のために戦ってくれないなんて……それって私の責任ですかあ?」
「どっからどう見ても君のせいだと思うんだけど?」
女神様だから一応敬語――を使おうと思った時期は一応アーリアにもあったのだ、一応。でも、終始このナメ腐った態度である。無責任もいいところ、女の武器を最大限に発揮してお涙頂戴しようとする意図がスケスケのこの態度。自分は悪くない、の一点張りともくれば――例え異性の見た目である相手であろうと、神様であろうと、まともに会話するのが馬鹿らしくなるのは仕方のないことではなかろうか。
「え、ええ?なんでそんな酷いこと言うんですう……?」
でもって、これである。
彼女はしくしくと、露骨なまでに嘘泣きを始めるのだ。自分は虐められている被害者だ、と言わんばかりに。
「私は、他の女神様とだって本当は仲良くしたいんですよ?でも他の二人の女神様は全然私の言うことを聴いてくれないんです。お前が悪いだの、そんな意見は聞けないなど、そういうことばっかり!だから仕方なく喧嘩するしかなくてえ……でも、私は人が傷つくのは嫌だから、勇者様には平和的に世界を変えてもらおうと思って。だから、与える力は“絶対的にスローライフを実現できる力”にしたんです。戦争とか、そういう怖いことを望むような存在なら、もっと恐ろしい力を与えたと思いませんか?」
ね、私は平和を祈る優しい女神でしょ?とうるうるしながら言うマーテル。何を聴いてもイラつくと思ってしまうのは何故なのか――ああ、そんなこと言うまでもないだろう。
彼女が、本心を語っていないのが透けているからだ。都合のいいことばかり並べて、相手の同情を誘って、責任逃れがしたいだけなのが明白だから。どう足掻いても彼女が召喚した勇者と能力のせいで、西の地域の人々が苦しみ次々と他の地域に逃げ出しているというのに――それを止めるでもなく、勇者を窘めることもせずに放置している。
そもそも、彼女の言葉にはツッコミどころが多すぎるのだ。アーリアは口を開こうとして、すっと手で制された。
「すみませんが、いくつか質問をよろしいですか」
紫苑だ。アーリアが話し始めてから、露骨に空気を凍らせていた当人が――恐ろしいまでの無表情で女神を見つめているではないか。そう、魔王と呼ばれるアーリアが一瞬怯んでしまうほどには。
「貴女と他の女神二人が、どういう経緯で決別したか。実はその会話は目撃者が多かったものでして、一部資料に残ってるんです。貴女は他の女神と本当は仲良くしたかったとおっしゃいましたけど、それは真実ですか?」
「ちょっと、貴女はどこの誰ぇ?ていうか私は本当だって言ってるのに、信じられないっていうんですう?」
「ええ、信じられないです。というより、無理があります。だって、そもそも他の女神との仲が完全に冷え込んだ原因を作ったの、他ならぬ貴女ですよね?」
すい、と彼女はアーリアが渡したデバイスを取り出すと、ホログラムを表示させてみせた。現れたのは、この大陸の地図である。西の地域を指差し、ここが貴女の現在の支配区域ですが、と告げる紫苑。
「この世界の地域は、それぞれの土地によって気候や地質に大きな差があります。西の地域はやや温暖ではありますが、少々空気が乾いていることもあって作ることのできる農作物には限りがあるんですよね。例えば、マーテル教では神聖な果物と位置づけられているチコの実は、西の地域ではあまり栽培に適していません。特に、五年前からは凶作が続いています」
そうだ、とアーリアは思う。大陸は広く、起伏に飛んでいる。当然その環境には大きな差があり、作物も育ちやすいものと育ちにくいものがあるのが当然だ。それはいい。自分の土地で育ちにくい作物ならば、他の土地の住人と取引でもなんでもして手に入れればいいだけの話なのだから。確かに東西南北の地域は宗教上の関係で仲がよろしくないが、交易が全くないわけではない。何も断絶状態で、それぞれの地域の特産物が手に入らないような状況でもないのだ。
ところが、この女神ときたら。
「貴女は他の女神と、自分の一部の土地との交換を申し出た。豊富なチコの実を手に入れるために」
「ええ、そうですけど?それが何かまずいの?何もタダで土地を手に入れたいって言い出したわけじゃないし?」
「大アリです。貴女が欲しいと言い出したのは、東と南の、チコの実が大量に生産できる果樹園及び原生林の一部。その上、貴女が対価として差し出すと言ったのは……一見すると自然豊かな森に見えて、その実非常に面倒な場所でした。東の女神に渡すと言った土地は、近隣の工場から排水の影響で土壌汚染が進んだ場所。南の女神の押し付けようとしたのは、人間の手に負えない凶暴なサイクロプスが縄張りにしている地域です。向こうにはデメリットしかない。……あちらが取引を断るどころか、激怒するのは当然だと思いますが?」
「ほんとそれね……」
ただ話をしたかった、取引をしたかった、平和的な解決をしたかった――そう言うわりに、この女神がやったことは完全に火に油を注ぐ行為である。
「他の女神は言うことを聴いてくれなかった。……貴女のその物言いからして、高慢さが滲み出ていて僕は大変に不快です。言うことを聴いてくれるのが当然、聞かない連中が悪くて自分は悪くないと言わんばかり。加えて、呼び出した勇者のこともそうです。後に勇者マサユキがやった行動を見れば、彼が元々人格的に大きな問題を抱えていたことは明らか。救ってくれる勇者を求めるつもりなら、何故せめてもっと呼び出す人間を厳選しようとしなかったんでしょうか」
どうせ面倒くさかったんでしょ、とアーリアは心の中で不貞腐れる。いざ勇者が思い通りにいあかなければ、あっさり匙を投げた女神様である。その生来の性格が、非常に面倒くさがりやであることは言うまでもなく明白だ。
本当に勇者に適正がある人間、を捜す手間を惜しんだのである――どう見ても。むしろ、たまたま“呼び出しやすそうだった”“目にとまったから”なんて適当すぎる理由で選んでいそうで非常に恐ろしい。
「喧嘩をするしかなかったと言いながら、勇者に持たせた能力も意味がまったくわかりません。スローライフを実現する能力は、そのままではけして戦争の役に立つものではない。何でそんな能力にしたんです?世界を救ってくれる勇者を求めたと言いながら」
「だからあ!それは農業でまったりしてみんなを巻き込んでいけば、みーんな笑顔になって平和な気持ちになってー、西の地域のみんなも幸せになれると思ったし!そんなみんなが笑顔な西の地域を見れば、他の地域のクソ女神とかも羨ましがって地団駄踏むに決まってると思ったからあ!……あ」
「……やっと本音が出ましたねえ」
「う」
あ、これはやばい。隣で、アーリアはだらだらと冷や汗をかいた。なんだろう、この威圧感。華奢な少女であり、女神よりもさらに小柄であるはずの紫苑が――今、とっても怖いと感じるのはどうしてだろう。
それを、マーテルも感じたのだろうか。地を這うような紫苑の声を聴いて、一瞬怯んだように言葉に詰まるマーテル。次の瞬間。
「ざっけんじゃねえぞこのクソ女神があ!」
止める暇も、なかった。紫苑の拳が、もろにマーテルの顔面に食い込んでいた。油断しきっていた可憐な女神様、一瞬にして吹っ飛んで泉の中にドボン!である。
「ちょ、ちょ、ちょっと紫苑んんんん!?」
気持ちはわかる。非常にわかる。ぶっちゃけアーリアも「こいつ一発ブン殴ったろか」と思ったのは事実だ。だからって、どうして本当に実行すると思うだろうか。それも、女神を相手に。ものすごーく大量の信者がいる神様相手に!本人も怖いが信者に知られたら、文字通り拷問火炙りフルコースでは済まないような相手である。さすがに血の気が引き、周囲を見回してしまう。
幸い、この場所に他の人間の気配はない。誰かが見ていた様子はない、が。
「へ……へ!?」
あまりな展開に、どうにか泉の中からびしょ濡れになって這い出してきた女神。泣き真似をする余裕もなく、完全に眼を白黒させている始末である。
その女神の、スケスケになった服の胸元をむんずと掴み、さっきまでの大人しい少女の面影もなくなった紫苑が、完全に青筋を立ててガンつけているこの光景。ああどうしよう、コメディと呼ぶにはあまりにも恐ろしすぎるのだが。
「黙って聴いてりゃ、自分勝手なことばっかり言いやがって。それでも神様か、ああ!?」
「し、し、紫苑!完全にキャラが変わってる!ていうか壊れてるから!!」
「うっせえ外野は黙ってろ!」
「ひい!」
すみません黙ります。アーリアは完全に何も言えなくなってしまう。
「そのクソみたいな虚栄心のせいで、テメエが呼び出した勇者が何やらかしてるか知ってんだろうが。クソ野郎はお前に似て、自分のスローライフを実現させるためなら全然他人を構うってことをしねえ。このままじゃ西の地域の連中は、テメエが呼び出した勇者のせいで住む土地も食べ物も全部奪われて行き場をなくす、国としても機能しなくなる!いつまで放置してる気だ、ああ!?」
「そ、そんなこと言われてもお……!い、一度あげちゃったチート能力は、解除できないからあ!そ、それに……本人が望まない限り、元の世界に帰すこともできないし……っ」
「そもそも、異世界から無理やり人呼び出して、他人の人生滅茶苦茶にしておいて罪悪感もないってのが気に入らねえ。自分の世界だろうが、何で人頼みにするのが大前提なんだよ!他の女神が気に食わねえってなら、テメエの力できっちりタイマン張って正々堂々喧嘩したらどうだ、お前一度でも相手の女神を真正面から殴ろうとしたことがあんのかよ!!」
一気に。それはもう一気に言葉を吐き出すと、ふん、と鼻息荒く紫苑は言い放った。
「もし、勇者をなんとかして西の地域の人間を助けたい気持ちが少しでもあるってなら……最低限の責任を果たせ」
ぽい、と女神の福から手を離す紫苑。再び池ポチャした女神がどうにか浮かんでくるのを見計らって、彼女は冷たく告げるのである。
「勇者、マサユキの前世の情報を教えろ。クソみたいなお前に代わって、僕らが馬鹿を止めてやるっつってんだ」