自分が何か、間違いを犯したとは思えなかった。――否、マサユキは思いたくなかった。何故なら前世でも、現世でも。自分はただ与えられた環境の中、必死で最善だと思える選択をしてきただけに過ぎなかったのだから。
『ああ、そういえば休んでたっけ、本村君』
子供の頃からそうだ。顔面偏差値で言えば、中の下。成績も、墜落するほどではないにしても平均より少し下で、運動神経もまるでいいところなし。恐ろしくブサイクという覚えられ方をしなかっただけマシという人もいるかもしれないが、それでも何処に行ってもほとんど人に記憶されない人生というのはどうなのだろう常に思ってきた。
休んですみませんと言えば、そういえば休んでいたんだっけ、という態度。クラスでも部活動でも、同じ。頑張って体を鍛えようと思った野球部ではいつまでもレギュラーになることができず、球拾いさえおぼつかない男が誰かに記憶されることもなく。いてもいなくても役に立たない、いる覚えがない――そんな男がかけられる声はいつだって同じだった。
『え、お前休んでたのか。すまんな、気づかなかった』
何処に行っても、居場所なんかない。働くのも、人並のことをするのも、いつだっていっぱいいっぱいに努力をしているのに――それが、誰かに認められるほどの成果になることが一度もない。
優秀な兄と比較されるのが嫌で、社会人になると同時に一人暮らしをしてみたはいいが、それはそれで虚しいばかりだった。東京に出てきても、コミュニケーション能力が低く、空気も読めない男は恋人どころかまともに友人さえも作ることができなかったのである。飲み会に、義理以外で誘われることもなかった。上司のご機嫌取りにいやいや出席したところで、空気が読めないだのと叱責されるのが精々である。
『頼むから、これくらいのことは出来るようになってくれ本村。もう何年勤めてるんだ』
『自分より若い上司に命令されるのが嫌なのはわかりますけどね。それをあからさまに態度に出すのはどうなんですか、本村さん。こっちだって仕事なんですよ』
『会議の準備は任せたと言ったじゃないか。なんで時間になっても資料の用意ができてないんだ?……プリンターの使い方がわからなかった?それくらい他の同僚に聞いたらどうなんだ、それくらいできないのか本村!』
『昌之はもう、結婚する気はないんでしょう?……まあ、いいじゃないの。お兄さんが結婚してくれたから、それでお母さん達は満足してくれてるでしょうし』
名前を呼ばれるのは、いつだって非難されたり、叱責される時ばかり。
本当の自分を見てくれる人間や、頑張りを褒めてくれる人間はひとりもいなかった。どこもかしこも、面倒な人間関係にがんじがらめにされ、見目が良くコミュニケーション能力の高い人間ばかりが評価され、少しばかり不器用な人間はどんどん埋もれていくばかりである。こんなはずではなかった、本当の自分はもっとできるはずなんだ――そう思いながらも、マサユキが真価を発揮できる場面は四十を過ぎてもついぞ訪れることはなかったのだった。
休日に、部屋に引きこもってゲームをする社会人はきっと少なくないだろう。同時に、ネットでSNSに書き込みをしてストレスを発散する人間も。だが、マサユキの場合は、ただゲームをしたり書き込みをするだけではなかった。自分を認めない人間、上司、社会――独りでこもる部屋の中で、それらのはけ口は全てネットに向けられていったのである。
●●事件の犯人に似た者がいれば、こいつが犯人に違いないと晒し上げを行って拡散し。
ムカつく上司の黒い噂は、散々尾ひれをつけた上で実名をつけてネットに流した。
オンラインゲームをすれば、弱いクラスの連中を相手に課金で作った最強装備で挑んでボコボコにし、その瞬間だけは“誰にも負けない天才的な俺”を演出し悦に浸ることができた。くだらない人間関係なんか全て忘れて、独りだけの世界に永遠に閉じこもっていたい。のんびりと、自分の言うことを聞かない連中がいない世界で生き、好きなだけ自分のためだけに時間を使い潰して生きていたい。前世の昌之は、そんな人間だった。
リアルでもネットでも非難されることは少なくなかったが、己が間違ったことをしたとは一切思っていなかったのである。悪いのはいつだって、一生懸命頑張る自分を認めない世の中の方だ。人と話すのが少し苦手なだけで、やればできるはずの自分の能力を伸ばそうともしなかった社会の方ではないか。自分は頑張った。滅茶苦茶頑張って来たのだ。努力もしないで好き勝手に喚くニートどもとは違う。ただ社会に埋もれてしまっただけの、隠れた才能が己には正しく眠っているはずなのである――。
――信じても、願っても、リアルの世界には都合のいい救世主なんか現れなかった。俺はいつまでも、くたびれて淋しい中年男のまま。このままクソ上司に冷たい目で見られて、ゴミだらけの部屋に埋もれて死んでいくんだって、そう思ってたんだ。だから。
異世界転生をしたと知った時――全身を震わせたのは、歓喜だった。自分が勇者に選ばれ、チート能力を貰えると知った時、どれほど今までの己の苦悩が報われたと感じたことか。
今までクソのような人間達に虐げられてきた分、これからは己のためだけに人生を謳歌していいはずだ。自分はそう認められたのだ、と実感した。これからは、マサユキを認めないような人間達なんぞと関わることなく、言うことを聞いてくれる奴隷だけを選んでまったりスローライフを送ることができる。冷たい部屋に篭る必要もない。太陽の下を、勇者として堂々と歩くことができるのだ。
そう、女神にそんな権利を与えられ、それを好きなように行使しただけのはずである。何故その自分が今、こうして北の国の城で拘束され――魔王の玉座の前に引き出されているのだろうか。自分がせっかく手にしたはずの女奴隷であるユージーンが、手当を受けた上で綺麗なドレスを与えられ、魔王に縋るように佇んでいるのか。お前は俺の女だろうが、とマサユキは歯噛みする。しかし、ユージーンは怯えた眼こそするものの、いくら、マサユキが命じても吠えてもこちらに戻ってくる気配はない。
まるで、マサユキの能力がなくなってしまったかのように。
「クソがっ……クソがあ!話し合いがしたいなんて嘘じゃねえかこの野郎!!」
マサユキが吠えて立ち上がろうとすると、即座に他の兵士達に背中から押さえつけられる。ギリ、と奥歯を噛み締め、拘束されている手枷とロープの痛みに耐えるマサユキ。そもそも、片腕片足が折れているので立てたところでまともに歩けるはずもないのだが。
「嘘つきどもめ!テメエらは全員『俺のスローライフに邪魔』だ!邪魔邪魔邪魔邪魔!全員消えろ、みんなみんな死んじまえってんだ!!」
叫ぶ、叫ぶ。だが、兵士の拘束が強くなる一方で、マサユキの能力が発動する気配はない。何故だ、と混乱する頭で考える。マサユキの力は、西の女神に認められた由緒正しきチートスキルであるはず。スローライフの邪魔をする者は、問答無用で排除できる力であるはずだ。今までだって、家に押しかけてきた連中は自分が叫ぶだけでみんな倒れてきた木の下敷きになり、崩落した土砂にうもれ、不慮の事故が起きてみんなみんな怪我をするなり死ぬなりでいなくなったというのに。
怪我をしたせいで歩くことが難しかったため、ユージーンの空間転移魔法で北の地に直接出向いて――そこからがあまりにも妙だ。北の町に到着した直後に、待っていましたとばかりに魔王の手下達に囲まれた。そして、そのまま拘束され、ユージーンとこうして引き離されてしまったのである。何故女神からもらったチートスキルが発動しないのか。いつもならこんな連中、簡単に消し飛ばすことができているというのに!
「無駄だって。そもそも君は、私の誘いに乗って西の地を離れてしまった時点で詰んでるんだよ、わかんないかなあ」
金髪碧眼の魔王は、どこか幼い口調で苦笑気味にそう告げた。勇者に仇なす魔王・アーリアの話は女神から聞かされていたが、まさかこんな若造であろうとは。まだ二十代――いや、未成年なのはほぼほぼ間違いあるまい。こんな尻の青そうな若造に、この自分が頭を垂れるなんて。前世の屈辱を思いだし、わなわなと拳を震わせるマサユキ。
「君達は、それぞれ三人の女神からそれぞれチートスキルを授かっている。君たちの力は、それぞれの女神の支配地域でのみ有効だ……って、女神様に教わらなかったのかい?」
「なっ……」
「まあ、それに気づいてたら、ノコノコ北の地に来たりしないよねえ。西の地の、マーテルの支配領域を離れた時点で女神の加護はなくなり、君のスローライフを強制的に実現させるチートスキルは失われる。そうなればただのおっさんでしかない君を制圧するのは造作もないことなんだよね。……あとは、君をいかに西の地域から引っ張り出すかってだけだったんだけど……思ってた以上に君の頭が空っぽだったみたいで助かっちゃったよ」
つらつらと告げる男の眼には、少なからぬ怒りの色が滲んでいる。何故だ、とマサユキは思った。自分はこいつに特に何も悪いことなどしていない。何故こんな風にイヤミを言われ、怒りを向けられなければいけないのかさっぱりわからなかった。
この状況下においてもまだ、マサユキは――己が悪いことをしたとは全く思っていなかったのだ。ただ自分の好きな生活をするため、貰ったご褒美チートを使って好きなように生きていただけ。そんなこと、勇者でなくてもみんなが当たり前のようにしていることではないか。何故自分だけが、邪魔をされなければいけない?否定されなければいけない?
農地を広げることも、農地を奪うことも、奴隷を奪ってくることも。特にこの、剣も魔法も科学もある世界なら尚更、誰でもやっていることであるはずなのに。何故、何故自分だけが。
「……俺は勇者だぞ。それも何の罪も犯してないじゃねえか。自分のところの農地にクレームつけてくるアホどもを返り討ちにはしたが、それだって正当防衛だろうが。他の勇者のやつらみたいに、争いを招いたり積極的に人を殺したわけでもねえ……!それなのに、正義面して俺を裁く権利がお前のどこにあるってんだ!!お前になんかしたわけでもねーだろうが!!」
認めない。認められない。
何故、前世でも現世でも、己ばかりが否定されてバッドエンドを押し付けられなければいけないのか。
「俺は変わったんだ……!前世のクソみたいな自分から、新しい自分に!勇者として、認められる人間になれたっていうのに!!お前みたいなやつに、俺の幸せを奪う権利がどこにあるってんだよおおお!!」
女神。ああ女神。いるならなんとかしろ。
自分は勇者だ。お前が選んだ勇者のはずだ。さっさと助けに来たらどうなんだ。勇者がいなくなって困るのは、他ならぬお前であるはずだろうが、それなのに。
「貴方のどこが、変わったっていうんですかね」
その時。その場に似つかわしくない、落ち着いた少女の声が響いた。
誰だ、と思って見れば。制服姿の少女が一人、玉座の間へと踏み込んでくる。ふわり、と少しだけ短いスカートを揺らしながら。
異世界人――それも、自分と同じ現代日本の人間だ、とすぐに分かった。あれは、誰がどう見ても中学か高校の女子の制服に違いないのだから。
「昔から、貴方は何も変わっていない。異世界転生しても、何一つ。だから……世界を変えることも、できなかったんです」
「誰だ、てめえ……」
「ああ、すみません。申し遅れました、勇者マサユキさん」
そして青い髪の彼女は、マサユキの前に立ち。うやうやしくお辞儀をして見せたのだった。
「僕は、貴方と同じ世界から参りました……日高紫苑と申します」