圭を突き飛ばしていい雰囲気を台無しにしてしまって以来、わたしは彼とギクシャクしたままだった。そんな元気のないわたしを
「香織さんは一緒に行かないの?」
「今日は空を元気づける会だから、きょうだい水入らず」
「でもわたし、お金ないよ」
「大丈夫。映画代ぐらい僕が2人分、払えるよ。ジュースとポップコーンも奢れるよ」
「本当?! やったー!」
海がわたしを元気づけようと分かっていたから、空元気を出してみた。海にもそれは分かっていただろう。でも彼は、何も余計なことを言わずに普段通りの様子で映画に連れて行ってくれた。
シネコンでチケット代を海に払ってもらい、売店に行ってポップコーンの値段を見たら、そこまで海にお金を出してもらうのが申し訳なくなった。
「ポップコーンはやっぱりいい」
「僕が食べたいんだ。でも1人じゃ食べきれないなぁ。空、一緒に食べてくれる?」
「嘘くさいなぁ。無理してない?」
「そんなことないよ。だってポップコーンの匂いがおいしそうでもう我慢できないよ」
海は、躊躇なくポップコーンのLサイズを2つ買った。
「えっ、シェアするんじゃなかったの?」
「うん、最初はそのつもりだったけど、やっぱり丸ごと全部食べたくなった」
「分かった。わたしが食べきれなかったら、残りも食べてね」
以前のわたし達だったら、サイズはどうするか、1個だけにするか、ぐずぐず考えたに違いない。そもそも買わなかった可能性も高い。海は香織さんと交際するようになって明らかに羽振りがよくなった。香織さんの親から学費だけでなく、お小遣いももらっていたのかもしれない。
海と2人で並んで見た映画は、悲恋ものだった。わたしは、いつのまにか泣いていた。鼻をすすると、海の手が私の手に優しく重なった。温かい感触はわたしの心にまで染みていった。
海に元気をもらってからも、わたしは圭と中々仲直りできず、相変わらずギスギスしていた。でもとうとう勇気を出して彼に謝ろうと思い、次の週末、約束なしで彼の家へ向かった。
玄関のチャイムを鳴らすと、彼のお母さんが出てきた。何度か家にお邪魔しているので、既に顔見知りになっていた。
「こんにちは。圭くん、いますか?」
「あ、あら、空ちゃん……今ちょっと、お友達が圭のところに来ているのよ」
圭のお母さんの言葉は、何だか歯切れが悪かった。ふと玄関先を見ると、女物のスニーカーが揃えて置いてあった。ティーンエイジャーに人気のスポーツメーカーのものでお母さんが履くとは思えないし、彼に姉妹はいない。嫌な予感がして彼の部屋に行ってみたかったけど、他の友達が来ていると言うのに部屋まで行くのはやり過ぎではないかと迷った。
仕方なく帰ろうとしたら、2階から圭と女の子が腕を組んで下りて来た。最近、学校でよく圭に話しかけていた女の子だった。圭は、わたしの顔を見て慌てふためき、とても気まずそうだった。
「あ、そ、空ちゃん?! えっと……」
「わたし、お邪魔したみたいだね。もう帰るよ」
一方、圭の隣の女の子は後ろめたいことなど何もないかのように堂々としていた。
「わたしは、これで帰りますから、圭と話してもいいですよ――圭、
彼女がそう言い放って出て行った後、残ったわたしと圭、彼のお母さんはお互い、決まりが悪くて口を開けなかった。
「あ、そろそろ夕ご飯の用意しなきゃ。空ちゃん、ゆっくりしていってね!」
圭のお母さんが突然素っ頓狂な声で言い訳して中に引っ込んでから、わたしは玄関先で圭と2人きりになった。
「わたし、元カノなんだ……」
「い、いや、それは誤解で……」
「じゃあ、さっきのあの子と2人きりで何してたの?」
「話していたんだよ」
「わざわざ部屋まで誘って2人きりで?」
「あ、うん、彼女、相談があって人に聞かれたくないから、僕の部屋に来たいって……」
「そうなんだ……って言うと思った?」
わたしは圭にバチーンと平手打ちをお見舞いしてやった。
「痛っ! 何するんだよ!」
「あの子、いかにもヤった直後の表情だったよ」
「えっ?! な、何を?!」
図星を突かれたのか、圭の声は素っ頓狂に裏返っていた。
「白々しい! 元カレくん、さよなら!」
そのままわたしは、圭の家の玄関を飛び出した。知らないうちに目から涙が滲み出てきた。
まっすぐ家に戻ってベッドの中へ一直線に飛び込み、思いきり泣いた。いつの間にか、部屋を仕切ったカーテンの向こうに海の気配がした。
「泣いてるの?」
「放っておいて」
「放っておけないよ」
「1人にして」
来ないでと言ったのに、海はカーテンを開けてこちらに入って来て、ベッドの梯子を登ってきてわたしを抱き寄せた。
「海、圭くんが女の子を部屋に連れ込んでいたの」
「うん」
「彼女、わたしのことを『元カノ』って呼んでた」
「そんなひどい」
「うん、ひどいよね」
わたしは、しばらく海の胸で泣き続けた。
次の日、圭がわたしに話しかけようとしていたのは分かったけど、わたしは彼と話す気がせず無視を通した。
まもなく、わたしが彼氏の圭を寝取られたと噂が学校で流れた。だけど海が前のように休み時間ごとにわたしのクラスに来て慰めてくれたから、何とかわたしの精神は保たれた。
でも、さすがに海も香織さんをずっと放置してわたしといつも一緒にいるわけにはいかなかった。彼女の我慢の限界がきてしまったようだった。
体育の授業の前にわたしのクラスの女子が着替えをしている最中、突然香織さんが険しい表情をして更衣室に入ってきた。よそのクラスの女子が着替え中にいきなり入ってきて皆は本音では不快そうだったけど、地元で幅を利かせている社長令嬢の香織さんにあからさまに文句を言う人はいなかった。
香織さんはツカツカとわたしのほうに近づいて来てブラジャー姿のわたしの胸をジロジロと見た。その視線が不快でわたしは急いでジャージの上着を着た。
「空、話があるの」
「すぐに体育館に行かなきゃいけないから、放課後でもいいかな?」
「ちょっとぐらい遅れてもいいわよ」
「え、そんなの困る!」
香織さんは、わたしの腕を掴んでグイグイと引っ張って教室の外に出た。細身の身体のどこにそんな力があるのか驚くぐらい強引だった。
「ここなら、誰も来ないわね」
香織さんは、資料室の前までわたしを連れて来た。ここには大型の地図や地球儀など、授業に使う資料がしまってあるが、滅多に使われていないので、ここに来る者はほとんどいない。
「海を返して! 寝取られたぐらいでいい歳して弟に慰めてもらって恥ずかしくないの? ブラコンもいい加減にしてよね!」
「そ、そんなつもりは……」
「あんたが海にすがっているから、優しい海は付き合ってあげてるのよ。弟が大切なら、彼の時間を奪わないでよね。未来の社長としてパパだって目をかけてあげてるのよ。あんたは、パパから勉強する機会を海から奪ってるのよ!」
わたしは、海のお荷物になっている自覚があったから、彼女の文句ひとつひとつが胸にグサグサと突き刺さった。
「わ、分かりました……海には大丈夫だから、香織さんのところに戻ってと言います」
「そう、それでいいのよ。くれぐれもわたしの名前は出さないようにね」
香織さんは、打って変わって機嫌良さそうにさっさと自分の教室に戻っていった。
次の休み時間に海がわたしのところに来た時、わたしは約束通り、香織さんのところに戻ってと頼んだ。
「海、わたしはもう大丈夫だから、香織さんと一緒にいていいよ」
「そんな顔して全然大丈夫そうじゃないよ」
海は、わたしの頬に手を触れて悲しそうに言った。教室の中でそんなことをされたら、香織さんの子飼いの同級生が彼女に告げ口をするかもしれない――わたしはそう思って後ずさったが、海はそんなわたしを悲しそうに見つめた。
「
「そんなわけないよ……」
「ふうん、そうだよね。うん、分かった……調子にのらせちゃったな」
「え、何か言った?」
「ううん、何でもない」
分かったと言った後に海は何か呟いたが、わたしにはよく聞こえなかった。
それから海は休み時間ごとにわたしの教室に来ることはなくなった。そうしたら海がいない隙を見て圭が話しかけてきた。
「空、お願いだから、話を聞いて!」
「何を聞けっていうの? 彼女ともうヤりましたとか?」
「そ、そんなわけ……」
圭があわあわとしている間に、あの女の子がいつの間にか横に来ていた。
「そう、私、圭と初体験したの。初めて同士で素敵な経験だったなぁ。これからも気持ちいいことヤろうね、圭」
「へっ?!」
まずいことがバレて焦っているのか、圭の声は裏返っていた。
「だから空さん、圭のことはもう諦めてね」
「な、何言ってるんだよ?!」
「やだぁ、圭、わたしの処女を奪っておいて白を切るの?」
わたしはもう聞いていられなくなって圭に特大級の平手を見舞い、その場を走り去った。
間の悪いことに、圭はクラスの教室の真ん前でわたしに話しかけたので、この話を聞いていた生徒は多かった。圭がわたし以外の女の子と童貞を卒業したと瞬く間に噂が広まったのも無理はなかった。
それ以降、わたしは同じクラスにいる圭の存在を一切無視した。