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第9話 婚約者の不満

 海は予定通り、地域1番の私立高校に進学したけど、香織さんは意外なことにわたしと同じ学校になった。、彼女は受験日にお腹を壊して海と同じ高校を受けられなかったらしい。それならどうして海と同じ偏差値2位の公立高校を滑り止めにしなかったのか不思議だった。彼女の成績はわたしよりは良かったはずだ。


 高校進学後も、わたしの男性関係のトラウマは消えず、わたしは一切彼氏を作らなかった。たまに告白されたこともあったけど、いつも速攻で断った。時々、断ってもめげずに何度もアタックしてくる男の子もいたが、大抵いつの間にか彼女を作っていたり、転校したりした。


 わたしとは対照的に、香織さんの周りにはいつも男子生徒がいて華やかな噂が絶えなかった。彼女は時々、わたしや海に見せつけるように彼らとベタベタして時にはキスまでしてみせた。


 海は、そんなことを何も聞いていないかのように平然として香織さんと交際を続けていたが、以前のように道端でキスしたりしなくなり、2人の仲は冷えたように見えた。


 もっとも香織さんのほうは海に恋人らしい触れ合いを望んでいるようだったが、海はいつも一歩引いていた。海は、多分家族のために我慢してあんな尻軽女と婚約を続けていたのだろう。わたしは海に申し訳なくてたまらなくなり、香織さんのことを海に尋ねたことがあった。


「ねえ、海、本当に香織さんとうまくいっている?」

「大丈夫、順調だよ」

「でも……」

「心配してくれてるの?」

「そりゃそうだよ。世界で2人だけのきょうだいだよ。心配に決まってる」

「ありがとう。でもどうしてそんなことを聞くの?」

「だって香織さんたら、学校で……あ、ごめん。何でもない」


 海が香織さんと別れられないのなら、香織さんの浮気癖を知らせないほうがいいと思い、わたしはそれ以上、そのことを話すのをやめた。でも海には全部お見通しだったようだ。


「それって香織が男子生徒を学校ではべらせていること?」

「えっ……」

「心配しなくていいよ。僕はそんなこと気にしない。僕達の仲はそんなことぐらいで壊れる間柄じゃないから」

「え?」

「驚いた?」


 海が尻軽女の行状を許容していたのは彼女を好きでないからだとわたしは思っていたので、驚くと共に胸がズキンと痛んだ。たとえ彼女を好きでも尻軽な行動を許せないなら、別れる選択肢もあったはずだ。なのに別れないのは、やはり家族のためなのだろう。だからわたしはこんなに胸が痛くなるんだ――わたしはそう思うことにした。


「でも、香織さんは海を好きだから、婚約を申し込んできたんでしょ? それなら海を大事にするべきだよ! このままじゃ海が不幸な結婚をすることになっちゃうよ」

「ありがとう。そんなに心配してくれてるんだね。でも大丈夫。僕は不幸になるつもりないよ」


 わたしは、海が不幸な結婚をさせられそうなのが悔しくて泣いてしまった。そんなわたしを海はそっと抱き寄せて頭や背中を撫でてくれた。海の温かな手の感触は、わたしの心まで温めてくれた。


 わたしが海の胸でようやくホッとできた頃、ダイニングキッチンからガッシャーンとガラスが割れる音がし、父の怒鳴り声が聞こえてきた。恐らく酒がなくなってコップか瓶を投げつけたのだろう。わたしは父に対する怒りがムクムクと湧いてきた。


「海がそんな思いしてもらった援助を無駄遣いしているお父さんも許せないよ」


 父は働きもせずに朝から飲んだくれ、相変わらず母が働きに出るのを許していなかった。わたし達が高校に進学した頃には、不健全な生活のせいでかつての父の美貌は見る影もなくなり、やたら痩せて目だけがギョロギョロとしていた。情緒も不安定になっていきなり怒ったり、何の脈絡もなく大笑いしたりして不気味だった。以前、父に媚びていた年上のお金持ち女性達は、そんな父をあっさり見捨ててもっと若くて見目の良い男性に乗り換えたようだった。


「おい、酒がなくなった! 買ってこい!」


 父は、わたし達のいる子供部屋までのドアをバンバン叩いて怒鳴ってきた。わたしがビクッとすると、海はわたしを部屋の奥に行かせて子供部屋を出て行った。耳を塞いでいても父の怒鳴り声は聞こえてきたが、2人はダイニングキッチンへ行ったようで怒鳴り声は次第に小さくなっていった。


 わたしは海が心配でダイニングキッチンに行った。父はもう新しい焼酎の瓶を開けて機嫌を直していた。その姿を見てわたしはムカムカと頭にきた。


「お父さん、それ以上飲まないほうがいいよ」


 父の健康が心配なのではなかった。海の婚約をかたに援助してもらったお金をそんなことに使わせたくなかった。


「うるさいっ!」


 激昂した父の投げた灰皿がわたしの顔のすぐ隣を掠って壁に激突し、安普請の壁に穴があいてしまった。のする父のたばこの灰も灰皿から落ちてもうもうと散らばった。


「空! 大丈夫?!」


 海は、落ちた灰皿からわたしを遠ざけ、わたしの顔をペタペタ触って傷がないか念入りにチェックした。


「怪我はないみたいだね。よかった」

「灰皿はぶつかってないから、大丈夫に決まってるよ」

「ハァ、よかった……ほんとにコイツはクズだな……」

「え?」

「なんでもない――父さん、まだまだお酒は買ってあるから、どんどん飲んでいいよ。いつもこの棚に入ってるからね」


 海が指さしたダイニングキッチンの食器棚には、父が最近好んで飲む焼酎の瓶がズラリと並んでいた。


「そうじゃなきゃな……ヒック」


 父は震える手で食卓の上の焼酎の瓶を取ってラッパ飲みし始めた。


「ちょっと海! こっち来て」


 わたしは海を手招きして小声で話しかけた。


「海がもらっているお金をそんなことに使ったらもったいないよ」

「それ以上にもらっているから大丈夫。焼酎を与えておけば、とりあえず平和でしょ」


 だけどそれはまやかしだった。父はますますアルコールに依存し、変な匂いのするたばこの消費量も格段に増えていった。もっともたばこだけは、海がベランダで吸わないと買ってきてあげないと父に強く言ったので、家の中があの匂いで充満することだけは避けられた。でも父がしょっちゅう吸っているので、父からはあの耐えられない匂いが常にしていた。


 父の様子があまりにもおかしくなったので、さすがに病院に連れて行ったほうがいいのではと海に言ってみたこともあった。


「あいつを病院に連れて行く? お金の無駄だよ」


 海にそう言われてしまえば、わたしは何もできなかった。我が家の家計はもう海に依存しているのだ。海がお金の使い道をわたしが指図できるわけもなかった。


 だが、父をそのまま放置しておくわけにいかない事情がそのうちに起きることになる。


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