ある日の下校途中、わたしは身なりの良い中年のビジネスマンから突然、母の名前で呼ばれた。
「……久美さん?!」
「違います」
「ああ、怪しい者だと思われてしまいましたよね。すみません。ずっと探していた女性にあなたがあまりに似ていたので……わたしはこういう者です」
わたしの胡乱そうな視線に男性は慌てて高橋良二と名乗った。渡された名刺には、わたし達の祖父母の会社の本橋コンツェルンの専務と書いてあった。
「しかし、本当によく似てます。他人とは思えません。もしかして本橋久美さんという女性をご存知ではないですか?」
「本橋久美はわたしの母ですけど」
「えっ?! 久美さんがあなたのお母さんなのですか?!」
「そうですけど、あなたは一体母とどのようなお知り合いなのですか?」
「わたしは久美さんの婚約者だったんです。久美さんはお元気にしていますか? あなたのお父さんのこととか、色々聞きたいんだけど、今、時間あるかな?」
「今ですか? 今はちょっと……」
父と結婚する前、母に別の婚約者がいたと知って驚いた。そんなことを聞いたことはなかったし、あんな状態の父のことを赤の他人には話したくなかった。それに知り合ったばかりの高橋さんと2人きりで会うのも避けたかった。でも母が高橋さんと結婚しなかった経緯は知りたかったので、わたしに双子の弟がいることを話し、今度の週末に
高橋さんとの待ち合わせ場所は、ビジネスマンも商談で使うような個室の高級レストランだった。わたしはそんなレストランに入ったことがなくて気後れしたが、海と一緒だから何とか入る勇気を持てた。
「ご馳走するから気にせず、どんどん頼んで」
「ほんと……」
「結構です。とりあえず飲み物だけ頼みます。話をさっさと進めて下さい」
わたしは目を輝かせたが、残念ながら注文をする間もなく、海が氷点下の温度で高橋さんの申し出を断った。
「そんなに警戒しないで。私は君達のお母さんの味方だよ」
「何をおっしゃるのですか」
海が言う通り、高橋さんはこの短期間で既にわたし達の家庭状況を調べ上げていた。わたしは、父の恥ずかしい状態も知られているのが恥ずかしくて俯いた。
「君達のお母さんとは、結婚する予定だったんだ。なのに突然、行方不明になって社長に言っても探すなと言われてしまってね。諦めきれなかったんだけど、本当に見つかってよかった。早く会いたいよ」
高橋さんは、泣きそうな表情になっていた。
「久美さんが幸せだったら、このまま身を引いて彼女のことを忘れようと思っていたけど、こんなのは許せないよ。だって君達のお父さんは……」
肝心のことを聞けそうになった瞬間、海がココアのカップをひっくり返してテーブルと服が汚れた。
「ああ! 海、服が汚れちゃったよ! テーブルからココアが垂れてる! ティッシュある?」
「うん、でもちょっとしかない。空、おしぼりをもらいに行ってくれる?」
海に頼まれてわたしは個室を出てお店の人を探した。でもそんなことをしなくても、ボタンを押せばお店の人が個室まで来てくれるのを慌てていてすっかり忘れていた。
おしぼりをもらってテーブルと海の服を拭いてから、さっきの話の続きを聞こうと思っていた。でも高橋さんは休日にもかかわらず急に仕事が入ったから行かなくてはいけないと言って帰っていった。
「私が支払うと言ってあるから、何でも好きな物を食べてから帰ってね」
「いいえ、結構です」
「えー、海……」
わたしは後ろ髪を引かれるように海に引っ立てられてレストランを出て行った。
「海、ひどいよ! せっかくタダで美味しい物を食べられそうだったのに……」
「バーガークイーンに行こう。奢ってあげる」
「ほんと?!」
お気に入りのハンバーガー屋の名前が出て、わたしは現金にも機嫌をすぐに直した。お小遣いが潤沢になって以来、海はハンバーガーやアイスなどをたまに奢ってくれた。
わたしは、バーガークイーンでハンバーガーをかじりながら、海に気になっていたことを尋ねた。
「ねえ、高橋さんが何かお父さんのことを言いたそうにしていたけど、何だったんだろう?」
「何だろうね。そのうち教えてくれるんじゃない?」
「そう?」
海も知らないみたいでわたしはモヤモヤしたけど、そのことで高橋さんに個人的に連絡するつもりはなかった。
でも海は高橋さんと連絡を取り続けていたようだった。
父が酒とたばこに溺れてブツブツわけの分からない独り言ばかり言うようになって母の監視が緩んだので、海が母を高橋さんと再会させてあげた。高橋さんは、男泣きして喜んだ。
その後も隙を見て何度か4人で会ったが、初めて3人で会った時言いかけた父に関することを高橋さんが教えてくれることはなかった。