創作をする時の
半人前にもなっていない筆者、半半人前、半半半人前の
それは、自分が
※
現代文学研究者や文学評論家だけでなく、あの
それは結果論として、歴史的に見ることも必要だとは思う。
転向=思想の
人間である以上、生まれてから死ぬまでのあいだに
※
とにかく、今、筆者が、「この文学は文学である」と、ここに堂々と胸を張っていえるかどうかというのは一つの
もちろん、「これは、はたして文学なのかなあ・・・」という恥じらいや
だが、根本的に、
そして、
筆者(四森)もまだまだ迷いはあるし、本当に筆者が文学を産み出せているかどうかは
もっとも、
一方で、こんな言葉もある。
米澤穂信『愚者のエンドロール』(角川文庫)より
以下、引用
> とあるスポーツクラブで、補欠がいた。補欠はレギュラーになろうと努力した。きわめて激しい努力だ。なぜそれに耐えられたのか。彼女はまずそのスポーツを愛していたし、またささやかでも名を成したいという野望もあったからよ。
> しかし、数年を経ても、その補欠がレギュラーになることはなかった。そのクラブにはその補欠よりも有能な人材が揃っていたから。単純にね。
> その中でも極めて有能な、天性の才のある人間がいた。彼女は他のメンバーとも一線を画する。無論補欠の技量とは天と地の開きがあった。彼女はある大会で、非常に優れた活躍をした。大会全体を通じてのМVPにも選ばれた。そこでインタビュアーが彼女に訊いた。大活躍でしたね、秘訣は何ですか、と。彼女は答えて言った。
> ただ運がよかっただけです。
> この答えは補欠にはあまりに
米澤穂信さんが『愚者のエンドロール』のこの場面で伝えたかったことと、筆者の主張は
ただ、やはり、読者に対しても、あるいは競合する他の小説家に対しても、筆者は「己こそ文学」であるという
そうでなければ、多方面に失礼だと筆者は思う。
もちろん、各々の理想論があっても良い。
ただ、四森の作品を気に入ってお読みいただいている方々に対して、筆者は読者の皆さんに 「自分は四森の読者である」と誇れる小説家でありたい。
※なお、米澤穂信さんについて補足ですが、2025年上半期の回から直木賞の選考委員をつとめられています。
そして、はじめて選考会にのぞんだ回で、例の話題になった「該当作なし」の選考をされています。
あの直木賞作家でベストセラー作家、ミステリー界におけるレジェンド的作家の米澤穂信さんも、今回の「該当作なし」で「エンタメ小説とは何か?」ということを思い悩んだことだろうと思い、本エピソードの主題と関連させ、米澤さんの作品から引かせていただきました。