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第59話 本日の名言 by 米澤穂信


 創作をする時のどころとは何か?


 半人前にもなっていない筆者、半半人前、半半半人前の半端物はんぱものの筆者にも分かっていることが一つだけある。


 それは、自分が信奉しんぽうする文学が盲目もうもく的でも構わないから、「自分が信奉する文学は文学である」と、確信かくしんを持ってるがないことだと思う。



 現代文学研究者や文学評論家だけでなく、あの大江おおえ健三郎けんざぶろうも、「あの作家は転向てんこうした」とか厳しく指摘する作家だった。

 それは結果論として、歴史的に見ることも必要だとは思う。

 転向=思想の変遷へんせん仕方しかたない。


 人間である以上、生まれてから死ぬまでのあいだに初志貫徹しょしかんてつ首尾一貫しゅびいっかんした思想を有することのほうがまれではないか。



 とにかく、今、筆者が、「この文学は文学である」と、ここに堂々と胸を張っていえるかどうかというのは一つの試金石しきんせきになると筆者は思う。


 もちろん、「これは、はたして文学なのかなあ・・・」という恥じらいや謙虚けんきょさを持った者も大いに結構けっこうである。


 だが、根本的に、を世に問いたいという点では変わらない、と筆者は思う。


 そして、 ()


 おのれが信じた道を振り返ってみれば、そこに文学の道筋が続いていた、とそれは誤信ごしんでも過信かしんでも何でも構わない。


 筆者(四森)もまだまだ迷いはあるし、本当に筆者が文学を産み出せているかどうかは判然はんぜんとしないが、おおよそ「四森が書いたことは文学だ、と。小説とは何か?それは四森が書いたもののことだと、自信満々《じしんまんまん》に、あるいは自信過剰じしんかじょうに、あるいは誇大妄想こだいもうそう的に、それくらいの自信を持って世に問わなければ、読者に対して失礼であるような気もする。


 もっとも、謙虚けんきょであることは崇拝すうはいされるべきだ。


 一方で、こんな言葉もある。




 米澤穂信『愚者のエンドロール』(角川文庫)より


以下、引用



> とあるスポーツクラブで、補欠がいた。補欠はレギュラーになろうと努力した。きわめて激しい努力だ。なぜそれに耐えられたのか。彼女はまずそのスポーツを愛していたし、またささやかでも名を成したいという野望もあったからよ。


> しかし、数年を経ても、その補欠がレギュラーになることはなかった。そのクラブにはその補欠よりも有能な人材が揃っていたから。単純にね。


> その中でも極めて有能な、天性の才のある人間がいた。彼女は他のメンバーとも一線を画する。無論補欠の技量とは天と地の開きがあった。彼女はある大会で、非常に優れた活躍をした。大会全体を通じてのМVPにも選ばれた。そこでインタビュアーが彼女に訊いた。大活躍でしたね、秘訣は何ですか、と。彼女は答えて言った。


> ただ運がよかっただけです。


> この答えは補欠にはあまりに辛辣しんらつに響いたと思うけど、どう?





 米澤穂信さんが『愚者のエンドロール』のこの場面で伝えたかったことと、筆者の主張は合致がっちしていないかもしれない。


 ただ、やはり、読者に対しても、あるいは競合する他の小説家に対しても、筆者は「己こそ文学」であるという慢心まんしんとも自信過剰じしんかじょうとも誇大妄想こだいもうそうともいえる気持ちでぶつかりたい。


 そうでなければ、多方面に失礼だと筆者は思う。


 もちろん、各々の理想論があっても良い。


 ただ、四森の作品を気に入ってお読みいただいている方々に対して、筆者は読者の皆さんに 「自分は四森の読者である」と誇れる小説家でありたい。



 ※なお、米澤穂信さんについて補足ですが、2025年上半期の回から直木賞の選考委員をつとめられています。

 そして、はじめて選考会にのぞんだ回で、例の話題になった「該当作なし」の選考をされています。

 あの直木賞作家でベストセラー作家、ミステリー界におけるレジェンド的作家の米澤穂信さんも、今回の「該当作なし」で「エンタメ小説とは何か?」ということを思い悩んだことだろうと思い、本エピソードの主題と関連させ、米澤さんの作品から引かせていただきました。

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