いつもの日々が続く中で、ふとした瞬間に日常が崩れ去り、非日常に巻き込まれる日が来るなんて、その時はまだ思わなかった。
「ん……んん~っ」
いつものように窓から朝日が差し込み、ベッドに横になり眠っている彼が眩しさで目を覚ます。
擦れるシーツの音を残して半身を起こすと、未だに眠気が残る頭を覚ますために、あくびをしながら眼をこする。
軽く伸びをした後、サイドテーブルに置いてあるメガネをと手に取り顔に掛けようとして……
「……っ!」
耳掛けの先端部分を眼に当ててしまい、反射的に目を押さえてうずくまる。
これに関しては、確認せずにそのまま眼鏡を付けようとしたぼくが悪いとは思う。
それでも、この眼に当たった時の感覚は、言葉にできないものがある。
そう思いながらは暫く目に残る不快感に悶えた後、やっとのことで起き上がり寝室からキッチンへと向かう。
「今日は朝食に目玉焼きを作って……、後はハムを焼いてパンと一緒に食べようかな」
そう呟きながら、寝間着のままキッチンに立ち、今ある食材を確認するとかまどに火をつける。
「今日の予定は……」
頭の中で今日一日の予定を思い出しながら、小さいフライパンでハムを焼きつつ、隣の空いた場所に、大きめのフライパンを置いて軽く油を敷いていく。
中に卵を割って落とし、白身の色が変わったのを見てから水を入れて蓋をする。
色が付き始めたハムと、黄身が半熟の状態で固まり出した目玉焼きをパンの上に乗せ、塩コショウを振り掛けるとお皿に乗せてテーブルに置く。
(患者さんが来る予定は無いし、裏山に行って薬草の採取に行こうかな……)
そう頭の中で呟きつつ、食べ終えた食器を片付けながら、不足気味になっている薬草の種類を思い出す。
足りなかったのは確か、解毒作用と傷に効く薬草が足りなくなってきているから、それらをメインに採取しに行った方が良さげだと考えながら、部屋を移動して薬品棚の前に向かい、自身の記憶とあっているのか確認をする。
自身の記憶と相違が無い事に安心しつつ、ハンガーに掛けてある白いローブを羽織り外に出る為の準備を進めていく。
「うん、準備が出来たし、じゃあ……いってきます」
誰もいない一人だけの家で、そう一人呟き、玄関の扉を開けて外に出る。
小高い丘という立地から見える美しい景色、周りに邪魔になるものがないおかげで、空には雲一つない美しい青空が広がり、いつも通り……代わり映えのないのない日常が始まったという感覚が、吹き抜ける朝の風と共にやってくる。
朝の陽ざしを浴びながらゆっくりと身体を動かし、寝起きでまだ固まっている身体をほぐすと、全身で草木の匂いを胸いっぱいに吸って目的の場所へと向かう。
「……今日は良い天気だから、順調にいけば昼頃には帰れるかな」
家から出て裏手にある森の中で、薬の材料になる植物を探して行く。
これと言って面白みがあるのかと言われたら、最初は自分で薬草を集める事に関して、とても新鮮で楽しかったけれど、慣れてしまった今ではそんな事は無い。
でも、苦では無い、むしろ、必要な時に薬が無いという事は、助かる命を救う事が出来なくなってしまうわけで、こうやって定期的に採取を行いストックを作っておくことで、救われる命が増えるかもしれない、そう思うだけで頑張ろうって言う気持ちが湧いて来る。
「ん……?あぁ、これは止血に使えるし、これも──」
不足している薬の元になる薬草とは種類が違うけど、気になった薬草を持って来た本を見ながら採取していく。
何も知らない人からしたら、何で一々見る何て手間な事をしているのかと思うかもしれないけど、こういう本は一年ごとに情報が更新される。
今までは問題無かった物も、突然何らかの環境変化によって人体に悪影響を及ぼす、毒性の成分が生成されるようになってしまう事がある。
だから、その度に高価であれど定期的に購入しなければならない大事なものだ。
例えばキノコ等が分かりやすい例で、今まで食用として問題無かった物でさえ、ちょっとして環境の変化で唐突にぼくたちに牙を向いて命を奪ってしまう。
これに関しては彼らも必死に生きているからこそ、野性を生きる為には必要な変化で、僕たちはその変化とうまく付き合っていかなければならない。
「これは根と花は乾燥させて煎じて合わせれば、解毒薬になる」
もちろん、そんな高価な本を買って、治癒術師なのに何で薬師のような事をしているのかと言われる事もある。
けれど、これに関してはぼくたち治癒術師にとっては必要な事だ。
軽い怪我なら治癒術でそのまま治しても良いけれど、骨折や手足の切断等の重傷をそのまま治してしまうと、骨が歪な形で再生し、関節が曲がった状態になってしまったり、体内の骨の欠片が残ってしまう。
まずは患部を確認し、骨折の場合必要とあれば砕けた骨を取り除いたり、患部を固定する。
切断の場合は、傷口を清潔に保ち、切断部位を適切な処置で保存する事で細胞の損傷を防ぎ、身体に縫い合わせた後、治療術で神経と血管を繋げるという工程が必要になる。
人によっては治癒術はそれだけで無くなった手足が再生する、瀕死の状態でも即座に回復する奇跡の技だと思っている人もいるけれど、そんな万能な術じゃない。
「……ふぅ、少しだけ疲れてきた」
毒などの外部から入ってくるものに対しては、致死性が高い物だったら、体内の血液ごと摘出する等の例外があるけれど、この近辺でそんな危険性のある物はないし、毒を持つモンスターが出たという話も聞いたことがない。
仮にいたとしても「異常種」と呼ばれる、過酷な環境下で生きるために突然変異を起こし、生き延びる力を得ることができた個体くらいだろうけれど、僕がここに住み着いてから、出会ったことはないし、大丈夫なはず……だと思う。
「……ちょっとどこかで休もうかな」
一人で採取していると、暇なせいで余計な事ばかり考えてしまう。
この調子だと良くない気がして、休める場所を探そうとした時だった……唐突に目の前の草木からざわめき、何かが近づいてくる気配がする。
もしかして、本当にモンスターが出たのかも知れないと思い、護身用の短剣を取り出そうとした時だった。
「助け……て……」
ぼくしかいないはずの山で、青褪めた顔をした少女が現れたかと思うと、掠れた声で助けを求めながら、力なく倒れ込む。
その姿を見て、いつもの退屈な日常が崩れる音がしたような気がした。