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第26話・甘い誘惑(1)


 *



 生徒会室を出たエリアーナとアンは、書庫室に向かった。

 傾いた太陽が、世界をオレンジ色に染めている。

 広々とした室内も、橙色の水の中にすっぽり浸かるようだ。


 ──魔術学園に通っていること。それを隠していたこと。旦那様は、きっと……物凄く怒っている。


 昨日はアレクシスが初めて笑顔を向けてくれた。

 着飾った自分を初めて「綺麗だった」とほめてくれた。


 そして──初めて、名前を呼んでくれた。


 そのことが嬉しくて。

 嫁入りしてから初めて、幸せな気持ちで目覚められたのに。


 昨日の優しい笑顔とはかけ離れた、冷淡な眼差しを思うと身震いする。

 まるで以前の彼に戻ってしまったかのよう。

 エリアーナの硝子の心は、アレクシスを失望させたことで無惨に砕けた。


「……ねぇ、生徒会室にいた騎士様、素敵だったと思わない?」


 エリアーナの心中を知る由もなく、アンはふにゃりと頬を緩める。


「瞳も髪色も神秘的で……銀色の狼みたいで綺麗だった。稀に見るイケメンよ? 生徒会メンバーもイケメン揃いだし、会長の周りってなんで美形ばかり集まるの? イケメン収集能力? はぁ……一度でいいから、あんな綺麗な男性ひとに愛されてみたいなぁ」


 夢見がちなアンの隣で、エリアーナの足取りは両足に鉄球を繋いだように重い。

 頭の中は黒い霧に覆われ、返事をする気力も沸かなかった。


 ──彼が私の旦那様だなんて、打ち明けられない……。


「でもさ」と、切り返し、アンは宙を睨む。


「私たちに《世話をしてくれ》だなんて、生徒会長も編入生ひとりに過保護すぎない?」


「……色々と生徒さんみたいだし、心配なさったのではないかしら」


「問題って? だったらエリーだって編入生じゃない。性悪なジゼルに絡まれてるのも立派ないじめよ。むしろこっちを心配してもらいたいくらいだわ」


 会長からの依頼は、編入して間もない下級生の面倒を見てほしいというものだった。

 エリアーナと同じ編入生──気が合うかも知れない、と。

 けれど彼女は相当なトラブルメーカーらしい。

 今のエリアーナには、他人の面倒を見る余裕はなかった。


「広い書庫室だけど……、どこにいるのかしら?」


 一階も二階も見渡すかぎり本棚が連なり、自習机に座る男子生徒が数人いるだけ。


「私は二階を探す! エリーは一階ね。長い黒髪にルビーレッドの瞳の女の子よっ」

「ちょっと、アン……?!」


 呼び止める間もなく、アンは階段を駆け上がって行った。

 小さくため息をつき、本棚沿いに歩いていると──


「エリー・ロワイエ?」


 すぐ後ろから、聞き覚えのある声が届く。

 振り返った途端、誰かの鼻をぶつけそうになって! その距離感に思わずのけぞった。


「おっと。倒れるなよ?」


 エリアーナの肩を支えたレオン・ナイトレイが、澄んだあおい瞳で見下ろしている。

 慌てて後退る──けれど、棚が並ぶ狭い空間では距離が取れない。


「本を探しに?」

「いいえ……人を」

「誰を?」

「……あなたこそ、こんな時間まで書庫室で何を?」

「本を二十三冊。会長命令でね。残り三冊が見つからないが……」


 一呼吸置いて、彼の唇が悪戯めいた。


「代わりにおまえを見つけた」


 意味深な微笑みに、エリアーナは息を詰める。

 ──やはり揶揄われているのだろう。


「私の眼鏡を……返して」


 蒼い瞳を見上げ、強く訴える。

 レオンは短く息を吸い、悪戯な表情に戻った。


「嫌だね」 


 次の瞬間、後頭部の髪がふわりとほどけ、宙に舞った。

 長い髪がはらはらと落ちていく。

 彼の手には、花の形を模した髪留めが。


「何するの、返して! それに眼鏡もっ……」

「どっちも返さない、と言ったら?」

「なぜこんなことを……ひどいわ」


 髪留めを取ろうと手を伸ばすが、届く寸前でかわされる。

 レオンは目を細め、形良い唇の端を上げた。


「どうしてって? このほうが似合うから」

「勝手な事ばかり……あなたに私の事情なんてわからない……!」


 アレクシスとの遭遇から引き摺る混乱と悲しみが込み上げ、目頭が熱くなる。だがレオンは構わず続けた。


「ああ。で自分を偽ってる女の事情なんか知らない。だが、ひとつの事実だけは伝えておく」


 長い指先が頬をかすめ、銀糸の髪をひとすじすくい上げた。

 見せつけるように、それを鼻先へと持っていく。


 ──ひとつの、事実……?


 意味深な言葉に小さく息を呑むエリアーナ。

 視線を絡めたまま、レオンは静かに告げた。


「一目でおまえに惚れた」


 エリアーナの丸い両目が見開かれる。

 夕陽を映し取った蒼色が、きらりと揺れた。


「それが、俺の事実」




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