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教場へ戻る廊下を歩きながら、アンは上機嫌を隠さない。
頬は緩みっぱなしで、まるで恋文を受け取ったばかりの少女のようだ。
「やばーい! 私、レオン・ナイトレイに恋しちゃったかも!?」
他の生徒の視線も意に介さず、回廊の真ん中で小躍りする。
ワンピースの裾をふわりと揺らし、足取りまで軽い。
「ふふ。アンったら、
「ああ、レオン様……! 魔力も座学も学年成績トップ、女生徒の視線を釘付けにする超絶美男子。ふざけてるように見えて、根は真面目な優等生! さっきのだって、ああ見えて私たちをあのジゼルから庇ってくれたでしょ? そんなの、もう惚れるしかないじゃない!」
頬に手を添えてうっとりするアンを横目に、エリアーナは肩を落とした。
「眼鏡、取られちゃったけどね……」
「それは! ジゼルたちにエリーの素顔を見せつけるためよ。みんな知らないんだから……大きな眼鏡の奥に隠された、エリーの真の可愛さを!」
「私には、ただ面白がって揶揄われたとしか」
「エリー、彼はあなたが思うほど嫌な人じゃないわよ。さっき一緒にいた男子二人、ラバースーツ着てたでしょ? あれ、防御魔法の訓練用らしいの。魔術が苦手な子に、昼休みを使って教えてあげてるんだって」
「雷魔法使いのレオンが?」
「そうなの……元素魔法では最強の
《詩人》なアンの恋はいつも突然。
その足取りは、やけに軽やかで──。
「エリー……。恋心はね、空を征くあの雲のように、時を追うごとに形を変えていくものなの……」
胸の前で手を組んで、うっとり窓の外を眺めるアン。
エリアーナはため息をつきながらも、その夢見る横顔に、レオンに絡まれた事などどうでもよくなってしまうのだった。
*
放課後。
ふたりは躊躇いがちに生徒会室の扉を叩く。
「どうぞ」という声とともに扉が開き、室内の香りが漂ってきた。
「……失礼いたします」
名乗って足を踏み入れると、広々とした室内には数名の役員が思い思いに過ごしていた。
本棚から分厚い書物を抜く者、机で書類と格闘する者、銀のトレイでティーセットを運ぶ者……日の光が大きな窓から差し込み、紅茶の香りが漂う。
──生徒会長、ジルベール王弟陛下が……どうして私たちを?
訝しんでいると、中央の円卓の奥から朗らかな声が届いた。
「おっ! 十一年生のエリー・ロワイエと、アン・レオノールだな? 早かったじゃないか」
会長は隣の青年に視線を向け、柔和な笑みを浮かべる。
「……そういう事か。密偵が不在だからとはいえ、君には手間を掛けるね。当事者のレオンには所用を言い渡しておいた。しばらく戻らないだろうから、このまま話を続けてくれ」
視線を向けたその刹那、エリアーナの呼吸が止まった。
会長の隣に立つ、白い騎士服の背高い青年は──。
窓から差し込む光を背に、揺るぎない眼差しをこちらへ向けている。
ブルーグレーの瞳がわずかに見開かれ、互いの瞬きが重なった。
──旦那様……。
沈黙が落ちた。
物音さえも遠ざかり、聞こえるのは自分と彼の鼓動だけ。
視線を逸らしたいのに、それができない。
胸の奥が焼けるように熱くなる。脈打つ鼓動が鼓膜に響き、背中に冷えた汗が伝った。
よりにもよって、どうしてこの瞬間、この場所なのか。
嘘が──露見する。
アレクシスの瞳が、驚きと、明らかな疑念に揺れている。
その視線に捕らえられたまま、身体が硬まった。
「おや、君たちは知り合いか?」
ただならぬ様子に、生徒会長が眉を吊り上げた。
アンはしどろもどろで、エリアーナと青年を交互に見ている。
「……いえ、初対面です」
アレクシスが温度を感じさせぬ声で言い、エリアーナから目を逸らす。
青い瞳が冷たい光を宿すのを見たような気がして、エリアーナの肩が震えた。
昨日の喜びと温もりの名残りが、霞のように消えていく。
──気付かれていない……わけが、ない。
一方で、アレクシスは混乱していた。
思いがけぬエリアーナとの遭遇。
冷静さを欠かさず答えを導き出す彼の胸中で、様々な憶測が渦を巻く。
──なぜ……エリーがここに?
疑問は鋭い棘となって胸に刺さり、呼吸を奪う。
花嫁修行に励んでいるのではないのか──。
押し寄せる動揺を、無理やり抑え込む。
──落ち着け。今は揺らいでいる場合ではない。俺の役目は、魔法省大臣の息子と反乱分子の繋がりを暴くことだ。
「まあ座れ。お茶も入ったことだしね」
「長居はしません。要点は今お話した通りです。学園長には許可を取ってあります」
衣装屋と並行して、魔術学園の生徒レオン・ナイトレイの調査を命じられている。
反乱分子と関わりのある施設に、密かに出入りする彼の姿が目撃されたというのだ。
厄介なのは──レオンが魔法省大臣の息子であり、大臣もまた疑いの渦中にあること。
「……この事は、くれぐれも口外なさいませんように」
「心配は要らないよ、シールドを張っているからね。君との会話も他の者には一切聞こえない」
会長は、ひそめた眉を元に戻し、笑みを浮かべる。
「長居はせぬと言ったが、君も学園に来るのは久しぶりだろう? 校内を歩いて、過去の思い出に浸るといい」
アレクシスも、強力ではないが氷と水魔法の使い手。王城勤め前の二年間、この王立魔術学園で過ごしていた。
当時まだ王太子だった現国王とは、その頃に出会った学友だった。
「はい。そう致します」
一礼して席を立つ。
部屋を出る時、エリアーナと目が合った。
途端、彼女の瞳が怯えて揺らぐ。
「…………っ」
か細い肩が、いじらしいほど強張っている。
また冷たいと思われただろう。それでも──今は仕方がない。
──後ほど、事情を問わねば。
「エリーとアン、待たせたね」
背後から投げられた声に、また新たな疑問が灯る。
なぜ王弟陛下は、エリアーナを生徒会室に呼んだのか。
「さあ、そこに座ってくれ」
エリアーナも役員なのだろうか? それとも別件で……。
愛しい者のこととなれば、脳内の憶測は糸を結び、解けぬまま絡まり続ける。
そして答えの見えぬ苛立ちは、静かに彼の冷静さを、平常心を、削り取っていくのだった。