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第12話_私の神様(推し)は、私を救うために壊れたがる

私の神様(おし)が、去ってしまった。

たった一人で、私の呪いを解くための『鍵』を探しに。

たった一人で、彼が何よりも恐れる『過去』と向き合うために。


がらんとしたプライベートルーム。Kさんの魔力(マナ)の残香だけが、主を失った空間を満たしている。デスクには、私が最後に錬成したコーヒーがすっかり冷え切り、黒い水面を悲しく揺らしていた。

それを眺めているだけで、胸が張り裂けそうだ。

ズキリ、と呪われた左腕が悲鳴を上げる。黒いインクの文様が脈打ち、私の中に流れ込んだリディアの魂が共鳴する。《#BAD_END》の文字が、勝利宣言のように禍々しく明滅した。


「……私のための絶望なんて、いらないのに」


ぽつりと呟いた言葉は、誰にも届かずに静寂へ溶けていく。

彼が私を救おうとすればするほど、彼の心は『希望』とは真逆の『絶望』に侵されていく。私の呪いは、彼にとってそういう仕組みの、悪魔的なジレンマなのだ。

リディアの二の舞だけは避けたい。彼を苦しめるだけの『悲劇のヒロイン』で終わるなんて、絶対に嫌だ。


私の神様が、私のために壊れていく。

そんなバッドエンド、認めるわけにはいかない。


「私が、あなたの物語の、最高のハッピーエンドになってみせる……!」


決意を固めた私の足は、おのずと彼のデスクへ向かっていた。

遺された冷たいコーヒーカップを、両手でそっと包み込む。彼の唇が触れた場所を指でなぞると、なけなしのMPを振り絞り、カップにほんのりと温もりを灯した。

気休めかもしれない。それでも、これが私の覚悟。私がここからいなくなっても、あなたの心が少しでも冷えないように、という祈りだ。


私は振り返る。

Kさんを追わなければ。

このままでは、彼は本当に帰ってこない人になってしまう。

けれど、どうやって? 『嘆きの氷原』の場所など、見当もつかない。


その、瞬間だった。


『――おや、僕の可愛い小鳥ちゃん。その顔、まるで王子のために毒リンゴを食べに行く、健気なお姫様みたいだね』


チェロのように、脳内に直接響く滑らかな声。

びくりと振り返ると、いつの間にか部屋の隅の影がぐにゃりと歪み、そこからゆっくりと、あの男が姿を現していた。

長い黒髪、アメジストの瞳、妖艶な色香を纏う『BL』ジャンルの王――紫苑さん!


「し、紫苑さん……! なぜここに!?」

「結界が甘いよ、K。最愛の騎士様がこれほど心を乱しているというのに、気づかないとはね。あるいは、気づかぬふりをしているか」

彼は私の混乱など意にも介さず、優雅な足取りで近づいてくる。蠱惑的な薔薇とインクの香りが、私の理性を揺さぶった。

「それで? ここでメソメソと、悲劇の舞台の幕が上がるのを待っているつもりかい?」


「……Kさんを、追いたいんです。でも、方法が……」

「嘆きの氷原か。懐かしい場所だ」


紫苑さんはどこか遠い目をして、窓の外に広がるホログラムの夜景を眺める。

「あそこはKの心象風景そのものだよ。彼の内なる絶望と罪悪感が具現化した、永久凍土の世界だ。普通の転移魔法では辿り着けない」

「……それでも、あなたは方法を知っているんですね?」

私のまっすぐな問いに、彼は面白そうにアメジストの瞳を細めた。

「もちろん。あの場所は、元々僕と彼、二人のための聖域(サンクチュアリ)だったからね」


「お願いです! 私を、そこに連れて行ってください!」

私は彼の前に進み出て、深く頭を下げた。

プライドなんて投げ捨てていい。今は一秒でも早く、Kさんの元へ行かなければ。


紫苑さんは私の必死の形相を値踏みするように眺めていたが、やがて「ふぅ」と一つ溜息をついた。

「まあ、いいだろう。Kが勝手に自滅して、僕とのゲームがお流れになるのは面白くない。君に免じて、特別に協力してあげよう」

「! ほんとですか!?」

「ただし」


彼の細い指先が、私の顎にそっと触れ、上を向かせる。

至近距離で目が合った。アメジストの瞳の奥で、抗いがたい妖しい光が揺らめいている。


「タダ、というわけにはいかない。対価は……そうだな、君が紡ぐ『愛の言葉』を、特等席で観劇させてもらう権利、かな」

「あ、愛の言葉……?」

「そう。君がこれからKに向かって捧げるであろう、甘く切実な魂の叫びだ。それはきっと、僕の次の物語(ワールド)の、最高のインスピレーションになるだろうからね」


なんて悪趣味な対価!

もはや私に選択肢はなかった。


「……わかりました。その条件、飲みます」

「話が早くて助かるよ」

紫苑さんは満足げに微笑むと、今度は私の胸元――Kさんとの絆である黄金の糸が伸びるあたりに、そっと手のひらを当てた。

ひゃっ!?

そこは心臓の真上! Kさんの想いと私の想いが交差する、一番敏感な場所!


「……うん、いい音だ」

彼は目を閉じ、うっとりとした表情で呟く。

「恐怖、焦燥、そして純粋な愛……。素晴らしい不協和音(ディソナンス)だ。Kの心音も、随分と乱れているね」

「なっ……!?」

「前金として、少しだけ君たちの『関係性』の響きを味見させてもらったよ」

悪びれもせず言い放つ彼に、私の顔はカッと熱くなる。なんなのこの人! セクハラです! 訴えますよ!?


「さあ、おいで、僕の可愛い小鳥ちゃん」

紫苑さんがパチンと指を鳴らすと、部屋の空間が裂け、禍々しい紫色の光を放つ転移ゲートが出現した。ゲートの向こうから、肌を刺すような極寒の空気が吹き付けてくる。


「その悲劇の舞台まで、僕がエスコートしてあげよう」


もう後戻りはできない。

私は覚悟を決め、紫苑さんが開いた、絶望へと続く扉へと足を踏み入れた。



『嘆きの氷原』は、地獄そのものだった。

空は鉛色の雲に閉ざされ、光はどこにもない。しんしんと降り積もる雪は、触れると『どうせ僕なんて』『僕が間違っていたんだ』というKさんの自己嫌悪が流れ込んでくる、『後悔』の灰なのだ。

ゴウゴウと吹き荒れる吹雪は、骨身に凍みるだけではない。『リディア、すまない』『詩織、ごめん』という、彼の悲痛な謝罪の声が混じり、耳を塞いでも脳内に直接響いてくる。


「うっ……頭が……」


この場所にいるだけで、MPもHPもみるみる削られていく。

左腕の呪いが世界の絶望と共鳴し、焼けるように痛んだ。Kさんにもらった『抗毒の護符』が必死に私を守ろうと淡い光を放っているが、それもいつまで持つか。

胸に隠した『ガーディアンの鍵』だけがかすかな温もりを放ち、この極寒の世界で唯一、Kさんの居場所を示してくれていた。針は、氷原の遥か彼方に見える巨大な氷の塔を指している。


私は、吹雪に身をよじらせながら、一歩、また一歩と進む。


その時、ネオページアのSYSTEMウィンドウが目の前に次々と強制表示された。

差出人は、『灰色のアルカディア』を応援する名もなき探訪者たちだ。


【SYSTEM ALERT: あなたが支援する創造主『K』の作品に異常を検知】

『おい、Kどうした!? 最新話のタグが《#BAD_END》になってるぞ!』

『嘘でしょ……主人公が……死んだ……? こんなの私の知ってるアルカディアじゃない!』

『待ってたのに……ずっと信じてたのに……裏切られた気分だ……』

『#作者は病んでる #鬱展開注意 #これまでの応援チケット返せ』


阿鼻叫喚。

現実世界のネオページで、『灰色のアルカディア』が大炎上を起こしていた。

これまで地道に築き上げてきた『献身序列(サポートランク)』の順位が、リアルタイムで急降下していく。

Kさんの物語を支えてきた熱心なファンたちが、彼の突然の『裏切り』に絶望し、次々と離れていっているのだ。


「そんな……Kさん……!」


ファンを、読者を何よりも大切にしていた彼が、自らの手でその繋がりを断ち切っている。

すべては、私を救うため。

私が彼の『希望』を信じている限り呪いは解けないから、彼は自ら『絶望』に堕ちてファンからの信頼さえも捨て、私と同じ場所まで降りてこようとしているのだ。


馬鹿。

本当に、どうしようもないくらい、不器用で優しすぎる、大馬鹿。


「待ってて……! 今、行くから……!」


私は最後の力を振り絞り、氷の塔へと駆け出した。

涙が凍りつく痛みさえ、もはやどうでもよかった。

彼が本当に独りになってしまう前に。



氷の塔の内部は、静寂に満ちていた。

壁も床も天井も、すべてが磨き上げられた黒氷でできており、そこには無数の『もしも』の光景が映し出されている。


『もしも、僕がリディアを止められていたら』

『もしも、僕が紫苑の言うことを聞いていたら』

『もしも、僕が、詩織に出会わなければ――』


Kさんが抱える無数の後悔の記憶。

それらを見ないように駆け抜け、私はついに最上階へとたどり着く。


そこに、彼はいた。


がらんとした円形の広間の中央で、彼は静かに佇んでいた。

月光を思わせた銀色の髪は色を失い、まるで抜け殻のようにくすんでいる。夜空色の瞳から光は消え、何も映さない虚無の淵が広がっていた。纏うオーラは、氷原の吹雪よりも冷たく、鋭い。

その手には黒い氷でできた万年筆のようなものが握られようとしていた。周囲の光を全て吸い込む、純粋な『絶望』の塊。

あれが『虚無の筆(ペン・オブ・ナッシング)』。紫苑さんの言っていた、もう一つの鍵!


「Kさん……!」


私が叫ぶと、彼はゆっくりとこちらを振り返った。

その顔には、何の感情も浮かんでいない。


「……来るな、と言ったはずだ」

氷のように冷たい声。

「これは君のためだ。僕という存在が君を苦しめるのなら、僕が君を解放する」


「私のための絶望なんて、いらない!」

私は涙ながらに叫んだ。

「私が好きなのは、あなたの物語なんです! あなたが、あなたが紡ぐあの温かい希望の物語が、大好きなんです! あなたが、好きなんです!」


言ってしまった。

ずっと胸の奥にしまい込んでいた、たった一つの、本当の気持ち。


「……愚かなことを」


Kさんの瞳がほんのわずかに揺らぐ。しかし彼は首を振り、その揺らぎを無理やり消し去った。

「もう遅い。僕はもう、希望の物語など書けない。僕の心は、絶望で満たされた」


彼は『虚無の筆』を完全に握りしめ、その切っ先を自らの胸に向けた。

自身の魂に、絶望の物語を刻み込もうとしている!

それをすれば私の呪いは解けるかもしれないが、彼の心は二度と元には戻らない!


「やめてッ!!」


満身創痍の身体を引きずり、彼に向かって走る。

彼はそれを拒絶するように左手を向けた。彼の足元から鋭い黒氷の槍が何本もせり上がり、私に襲いかかる。

もはや、私に恐怖はなかった。

残されたMPの全てを注ぎ込み、黄金のシールドを展開する。


ガキンッ! ガキンッ!


シールドは氷の槍を受け止め、砕け散る。

その反動でMPゲージは完全にゼロになり、私はよろめいてその場に膝をついた。


「無駄だ、詩織。もう僕を止めることはできない」


Kさんが冷たく言い放つ。

『虚無の筆』が彼の胸に触れる寸前。

もう、間に合わない――。


「……ううん」

私は、笑った。

「止める方法なら、まだ一つだけ残ってる」


私は最後の力を振り絞って立ち上がると、無防備なまま彼の胸に飛び込んだ。

驚きで見開かれる、彼の虚無の瞳。

私は彼の首に呪われていない右腕を必死に回し、その身体を強く、強く抱きしめた。


「私のせいで苦しむあなたじゃなくて、私のために笑ってくれるあなたが好きなんです!」

「あなたの希望も絶望も、弱さも罪も、全部! 全部ひっくるめて、あなたがどうしようもなく大好きだから……!」

「だからお願い、独りにならないで……!」


私の体温、私の魂、ありったけの想いを伝えるように、背伸びをして彼の冷たい唇に自らのそれを重ねた。

昨夜の彼のように衝動的で不器用でも、私の全ての愛を込めた、初めてのキスだった。


Kさんの身体が大きく硬直する。

握りしめていた『虚無の筆』が、カラン、と音を立てて床に落ちた。

彼の凍てついた心に、私の温もりがほんのわずかだけ届いた。

そう、確信した瞬間だった。


グズリ、と。

私の左腕の呪いが、最後の抵抗とばかりに暴走を始める。

Kさんの心に芽生えかけた『希望』と私の魂に宿る『希望』が、左腕に根付いた純粋な『絶望』と、激しく衝突し、反発しあう。


「ぐっ……あぁあああああああっ!!!」


私の身体が、まばゆい黄金の光と禍々しい漆黒の闇のまだら模様に包まれる。

魂が、希望と絶望の間で引き裂かれそうだ!

意識が焼けるように熱い!

痛い! 苦しい! けれど、彼の腕は絶対に離さない……!


「詩織ィィィィィィィッ!!!!」


我に返ったKさんが、私の名を絶叫する。

その瞳には虚無ではなく、私を失うことへの原初的な恐怖が再び宿っていた。

もうダメだ。私の魂がもたない――!


絶体絶命。

私の意識が完全にブラックアウトしかけた、その時だった。


『――ちょっとちょっとぉ~! なにアンタたち、アタシを差し置いて、そんな地味で陰気くさ~い悲劇のヒロインごっこやってんじゃないわよッ!!』


どこからともなく、甲高くて超絶ハイテンションで、とびきり場違いな声が響き渡った。

次の瞬間、氷の塔の天井が凄まじい爆音と共に粉々に砕け散る。


そして、私たちの頭上から、極大で極彩色の、ありとあらゆる幸福な概念をミキサーにかけブチまけたような、巨大なピンクゴールドの光線が降り注いだ。


その光線は、タグの形をしている。


#


「へ……?」


私とKさんが呆気にとられる中、その暴力的なまでの幸福の光が、希望と絶望で暴走する私たちの身体をまとめて飲み込んでいった。

え、え、えええええええええええええええ!?!?!?


これから私、本当に一体どうなっちゃうのよーーーーッ!?

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