ブツン、と意識の電源が落ちる感覚。
次に目を開けた瞬間、私の視界に飛び込んできたのは、見たこともないほどに激情に駆られた、私の神様の顔だった。
「詩織ッ!」
地の底から響くような声。それはもう、私の知っている彼の声ではなかった。安堵も、喜びも、優しさも、すべてを焼き尽くした後の、純粋な絶望と怒りの塊。
夜空を閉じ込めた彼の瞳はもはや静かな星の輝きを失い、星々が超新星爆発を繰り返す終末の宇宙そのものだった。
「……Kさん……?」
掠れた声を出すと、私は自分が彼のプライベートルームのソファに横たえられていることに気づいた。そして、左腕に走る、おぞましいまでの激痛に。
「っ……!」
恐る恐る視線を落とす。私の左腕――その白い肌は、まるで悪質なデジタルタトゥーのように、どす黒いインクの文様に侵食されていた。インクは生き物のように脈打ち、チカチカと不吉な聖句(タグ)を明滅させている。
《#救いのないBAD_END》《#打ち切り》《#NTR》
ひぃっ……! なにこの呪いの煮こごりみたいなラインナップ!
あまりの邪悪さに気を失いかけた私に、Kさんは歯を食いしばり、血が滲むほど強く唇を噛みながら言った。
「僕が、守ると言っただろう」
「……ごめんなさ、」
「謝るなッ!!」
彼の怒声が、部屋の空気をビリビリと震わせる。
「なぜだ!? なぜ僕の言葉を信じられない!? 君が傷つくくらいなら、『忘却の書庫』の真実など、永遠に闇に葬られたままでよかったんだ!」
怒鳴りながらも、彼の指先は、私の呪われた左腕に触れるのをひどく恐れるかのように、空中で迷い、震えている。
ああ、違う。彼は私に怒っているんじゃない。
私のために無茶をした私自身よりも、私を危険な目に遭わせてしまった、自分自身に――。
「君を……また、僕が……僕のせいで……!」
彼の顔が、苦痛に歪む。
かつて愛する聖女(リディア)を絶望の淵に追いやった『希望』の力が、時を超え、また私を同じ呪いに引きずり込んだのだ。彼にとって、これ以上の地獄はないだろう。
心に渦巻く途方もない罪悪感と後悔が、黒い奔流となって流れ込んでくるようだった。
もう、見ていられない。
私は痛む身体を起こすと、彼が触れるのをためらう私の左腕を、自ら彼の前に差し出した。
「Kさん。後悔も、自己嫌悪も、後です。まずはこれを、あなたの力で……!」
「……っ!」
彼は息を飲み、ようやく覚悟を決めたように、震える両手で私の呪われた腕を取った。
ひんやりとした彼の手が触れた瞬間、心臓が跳ね上がる。
「浄化魔法をかける。少し熱くなるが、我慢しろ」
Kさんは私の腕に顔を近づけると、瞳を閉じ、精神を集中させる。彼の身体から、純粋な『希望』の力――温かく、清浄な銀色の魔力が溢れ出し、私の腕へと注ぎ込まれていった。
長い銀髪が私の頬をかすめ、必死な彼の吐息がかかる。
ち、近い! 近いです、神様! 浄化っていうか別の何かが始まりそうな距離感なんですけど!
だが、次の瞬間、そんな邪な思考は絶叫にかき消された。
「――ぎゃああああああああっ!!!」
浄化どころではなかった。
Kさんの銀色の魔力(=希望)が注がれた途端、黒いインクの呪いは歓喜の声を上げるように活性化し、彼の魔力を『エサ』にして、さらに深く、私の魂の奥底へと根を張っていく。
まるでガソリンを火の中に注ぐようなものだ!
《#更なる絶望》《#作者は鬼》《#読者の心、ここに死す》
次々と浮かび上がる、より凶悪になった聖句(タグ)。
焼けるような激痛と、魂を直接削られるような悪寒。MPゲージとHPゲージが、警報を鳴らしながら猛スピードでレッドゾーンへと突っ込んでいく。
「なっ……なぜだ!? 僕の魔力が……喰われる……!?」
彼の表情から驚愕の色が抜け落ち、絶望がその空白を塗りつぶしていく。
この呪いは、希望の力を糧とするのだ。彼が私を救おうとすればするほど、私の絶望は深まっていく。
リディアの悲劇が、今、私たちの目の前で、完璧に再演されていた。
「あ……ぁ……」
もう、声も出ない。
意識が遠のいていく。これが、本当の『絶望』の味。
薄れゆく視界の中で、私は見た。
私の神様が、静かに、壊れていく瞬間を。
「……ははっ」
乾いた笑いが、彼の唇から漏れた。
「そうか……。そう、なんだな……。この世界は、僕から……また、奪うのか……」
彼は私の腕をそっとソファに戻すと、力なくその場に膝から崩れ落ちた。祈るように私の手を取り、縋るように自らの額へと押し当てた。
「……詩織」
「僕を、見捨てないでくれ」
それは、神の言葉ではなかった。
孤独の闇の底で、たった一つの光も見失いかけている、傷ついた一人の男の、悲痛な叫びだった。
「君までいなくなったら、僕はもう、本当に……独りだ……」
額に当てられた私の指先に、ぽつり、と温かい雫が落ちる。
涙だ。
私の神様が、泣いていた。
その瞬間、私の身体の奥深くで、何かがカチリと音を立てて繋がった。
『忘却の書庫』で吸収した、リディアの魂の残滓。
彼女の想い、彼女の見たKさんの魂の構造が、私の意識と完全に融合する。
ああ、そうか。
だから、あなたは――。
「Kさん」
私は、震える唇で、彼の名前を呼ぶ。
「あなたは、間違ってない」
彼の肩が、びくりと跳ねた。
「あなたは、『希望』を紡ぎ続ければいいんです。それが、あなたの物語の根幹だから。あなたの光を、あなた自身が否定しちゃダメ」
「だが、その光が君を……!」
「ええ、傷つけますね」
私は、微笑んだ。
腕の痛みも、呪いも、どうでもよくなった。
「でも、いいんです。私は、リディアさんとは違うから」
「私は、あなたの『絶望』になるために、ここにいるんじゃない」
「あなたの希望も、あなたの絶望も、あなたの弱さも、あなたの罪も、全部まとめて抱きしめるために、ここにいるんですから」
私は空いている右手で、彼の涙に濡れた頬をそっと包み込む。
「あなたは一人じゃない。私がいます。私が、あなたの半分になります。あなたの光が強すぎて影が生まれるなら、私がその影を受け止める。あなたの絶望が溢れて世界を壊しそうなら、私がその絶望を愛してみせる」
「だから、泣かないで、私の神様」
私の言葉に、Kさんは子供のように、ただ嗚咽を漏らし続けた。
それは、リディアの自己犠牲とは全く違う、対等な魂のパートナーからの、絶対的な『赦し』だった。
彼が何十年も、たった一人で背負い続けてきた罪の重荷を、ようやく半分、下ろすことができた瞬間だったのかもしれない。
◇
その後、どうやって眠ったのか覚えていない。
気づけば私は、Kさんのベッドの中にいた。もちろん一人で。
左腕の呪いは鎮まっているものの、時折ズキリと痛み、悪夢となって私の精神を蝕んだ。うなされる私に、Kさんは椅子に座ったまま、一晩中、私の手を握ってくれていたらしい。
朝、目を覚ました時、疲れ果てて椅子に座ったまま眠る彼の、神々しいまでの寝顔を見た私の心臓が、どれだけオーバーヒートしたかは言うまでもない。
「……やはり、呪いを解くには、それ相応の『代償』が必要か」
私が錬成した(もちろん呪われた腕ではなく右手で!)お粥を、彼は力なく啜りながら呟いた。
その夜空色の瞳には、もう涙はなく、何かを覚悟した鋼のような光が宿っていた。
「僕の『希望』の力で浄化できないのなら、方法は二つ」
「二つ……?」
「一つは、この呪いよりもさらに強力な『絶望』で、上書きすることだ。だが、そんなことをすれば君の魂が持たない」
その時、プライベートルームの静寂を破り、私たちの脳内に直接、チェロのように滑らかな思念(メッセージ)が響き渡った。
『――その通りだよ、K。彼女の魂は、僕の『茨の王座』クラスの悲劇には、まだ耐えられないだろうね』
紫苑さん!
Kさんの纏う空気が一瞬で凍てつくが、紫苑さんは構わず続ける。
『だが、君が忘れていることがあるんじゃないか? ガーディアン。お前がその身に封印し、そして最も恐れている、お前自身の『絶望』の力を解放すれば、話は別だ』
「黙れッ!」
Kさんの怒声が響く。
『ふふ、図星か。……まあいい。ヒントをやろう、K。詩織を救いたくば、北の凍てつく『嘆きの氷原』へ行ってみることだ。かつて、お前と僕が、物語の『禁断の力』に初めて触れた、あの場所へ。そこにお前の忘れた『鍵』がある。彼女の呪いを解くための、もう一つの『絶望』の鍵がね』
そう言い残し、紫苑さんの気配は消えた。
「嘆きの氷原……」
Kさんは、唇から血が滲むほど、強く噛み締めていた。
それは、彼が何よりも思い出したくない、過去の聖域の名なのだろう。
私が彼の決意を促すより先に、彼は立ち上がった。
「詩織。しばらく、ここに一人でいろ。絶対に、僕の神殿(ここ)から出るな」
「えっ!? 私も行きます!」
「ダメだ」
拒絶の言葉は、氷のように冷たい。
彼は私のそばに膝をつくと、まるでガラス細工に触れるように、呪われた私の左腕にそっと触れた。
「君をこれ以上、危険に晒すことはできない」
彼の指先が、私の頬を優しく撫でる。
「君の痛みは、僕の痛みだ。これ以上、君を痛めつける僕自身が、許せない」
その声は、とろけるように甘く、それでいて、狂おしいまでの愛に満ちていた。
「だから、待っていてくれ。必ず、君を救う『鍵』を、僕が持ち帰る」
彼は私の頬を両手で包むと、祈るように、誓うように、私の額に自らの唇をそっと押し当てた。
「君を救うためなら」
それは、聖者のような顔をした、悪魔の囁きだった。
「僕は喜んで、僕自身の魂(ものがたり)を、壊してみせよう」
彼はそう言い残し、漆黒のマントを翻して部屋を飛び出していく。転移魔法陣がまばゆい光を放ち、やがてその残照も闇に吸い込まれた。
残されたのは、私一人。そして、左腕で不気味に脈打つ、『絶望』の呪い。
Kさんは、一人で、一体何をしようとしているの……?
彼が去ったデスクの上には、手付かずのまま冷めてしまったコーヒーが、ぽつんと置かれていた。
遠く離れたKさんの神聖領域(マイページ)。
『灰色のアルカディア』の編集画面を、彼が開いていたことなど、この時の私には知る由もなかった。
彼の震える指先が、これまでの作風とはまるで違う、暗く、重く、救いのない『聖句(タグ)』を、一つ、また一つと打ち込み始めていることも。
《#主人公の裏切り》《#ヒロインの死》《#世界の崩壊》
私の神様(おし)を、止めなければ。
彼の物語を、守らなければ。
私は残されたMPを振り絞り、右手で、黄金のシールドを錬成する。
「Kさん……!」
絶望が、始まる。
私たちの本当の物語が、今、始まってしまう。