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第11話_私の神様は、絶望(わたし)に溺れて壊れそう

ブツン、と意識の電源が落ちる感覚。

次に目を開けた瞬間、私の視界に飛び込んできたのは、見たこともないほどに激情に駆られた、私の神様の顔だった。


「詩織ッ!」


地の底から響くような声。それはもう、私の知っている彼の声ではなかった。安堵も、喜びも、優しさも、すべてを焼き尽くした後の、純粋な絶望と怒りの塊。

夜空を閉じ込めた彼の瞳はもはや静かな星の輝きを失い、星々が超新星爆発を繰り返す終末の宇宙そのものだった。


「……Kさん……?」

掠れた声を出すと、私は自分が彼のプライベートルームのソファに横たえられていることに気づいた。そして、左腕に走る、おぞましいまでの激痛に。


「っ……!」

恐る恐る視線を落とす。私の左腕――その白い肌は、まるで悪質なデジタルタトゥーのように、どす黒いインクの文様に侵食されていた。インクは生き物のように脈打ち、チカチカと不吉な聖句(タグ)を明滅させている。


《#救いのないBAD_END》《#打ち切り》《#NTR》


ひぃっ……! なにこの呪いの煮こごりみたいなラインナップ!

あまりの邪悪さに気を失いかけた私に、Kさんは歯を食いしばり、血が滲むほど強く唇を噛みながら言った。


「僕が、守ると言っただろう」

「……ごめんなさ、」

「謝るなッ!!」


彼の怒声が、部屋の空気をビリビリと震わせる。

「なぜだ!? なぜ僕の言葉を信じられない!? 君が傷つくくらいなら、『忘却の書庫』の真実など、永遠に闇に葬られたままでよかったんだ!」


怒鳴りながらも、彼の指先は、私の呪われた左腕に触れるのをひどく恐れるかのように、空中で迷い、震えている。

ああ、違う。彼は私に怒っているんじゃない。

私のために無茶をした私自身よりも、私を危険な目に遭わせてしまった、自分自身に――。


「君を……また、僕が……僕のせいで……!」

彼の顔が、苦痛に歪む。

かつて愛する聖女(リディア)を絶望の淵に追いやった『希望』の力が、時を超え、また私を同じ呪いに引きずり込んだのだ。彼にとって、これ以上の地獄はないだろう。

心に渦巻く途方もない罪悪感と後悔が、黒い奔流となって流れ込んでくるようだった。


もう、見ていられない。

私は痛む身体を起こすと、彼が触れるのをためらう私の左腕を、自ら彼の前に差し出した。


「Kさん。後悔も、自己嫌悪も、後です。まずはこれを、あなたの力で……!」

「……っ!」


彼は息を飲み、ようやく覚悟を決めたように、震える両手で私の呪われた腕を取った。

ひんやりとした彼の手が触れた瞬間、心臓が跳ね上がる。

「浄化魔法をかける。少し熱くなるが、我慢しろ」


Kさんは私の腕に顔を近づけると、瞳を閉じ、精神を集中させる。彼の身体から、純粋な『希望』の力――温かく、清浄な銀色の魔力が溢れ出し、私の腕へと注ぎ込まれていった。

長い銀髪が私の頬をかすめ、必死な彼の吐息がかかる。

ち、近い! 近いです、神様! 浄化っていうか別の何かが始まりそうな距離感なんですけど!


だが、次の瞬間、そんな邪な思考は絶叫にかき消された。


「――ぎゃああああああああっ!!!」


浄化どころではなかった。

Kさんの銀色の魔力(=希望)が注がれた途端、黒いインクの呪いは歓喜の声を上げるように活性化し、彼の魔力を『エサ』にして、さらに深く、私の魂の奥底へと根を張っていく。

まるでガソリンを火の中に注ぐようなものだ!


《#更なる絶望》《#作者は鬼》《#読者の心、ここに死す》


次々と浮かび上がる、より凶悪になった聖句(タグ)。

焼けるような激痛と、魂を直接削られるような悪寒。MPゲージとHPゲージが、警報を鳴らしながら猛スピードでレッドゾーンへと突っ込んでいく。


「なっ……なぜだ!? 僕の魔力が……喰われる……!?」

彼の表情から驚愕の色が抜け落ち、絶望がその空白を塗りつぶしていく。

この呪いは、希望の力を糧とするのだ。彼が私を救おうとすればするほど、私の絶望は深まっていく。

リディアの悲劇が、今、私たちの目の前で、完璧に再演されていた。


「あ……ぁ……」

もう、声も出ない。

意識が遠のいていく。これが、本当の『絶望』の味。


薄れゆく視界の中で、私は見た。

私の神様が、静かに、壊れていく瞬間を。


「……ははっ」

乾いた笑いが、彼の唇から漏れた。

「そうか……。そう、なんだな……。この世界は、僕から……また、奪うのか……」


彼は私の腕をそっとソファに戻すと、力なくその場に膝から崩れ落ちた。祈るように私の手を取り、縋るように自らの額へと押し当てた。


「……詩織」


「僕を、見捨てないでくれ」


それは、神の言葉ではなかった。

孤独の闇の底で、たった一つの光も見失いかけている、傷ついた一人の男の、悲痛な叫びだった。


「君までいなくなったら、僕はもう、本当に……独りだ……」

額に当てられた私の指先に、ぽつり、と温かい雫が落ちる。

涙だ。

私の神様が、泣いていた。


その瞬間、私の身体の奥深くで、何かがカチリと音を立てて繋がった。

『忘却の書庫』で吸収した、リディアの魂の残滓。

彼女の想い、彼女の見たKさんの魂の構造が、私の意識と完全に融合する。


ああ、そうか。

だから、あなたは――。


「Kさん」

私は、震える唇で、彼の名前を呼ぶ。

「あなたは、間違ってない」


彼の肩が、びくりと跳ねた。


「あなたは、『希望』を紡ぎ続ければいいんです。それが、あなたの物語の根幹だから。あなたの光を、あなた自身が否定しちゃダメ」

「だが、その光が君を……!」

「ええ、傷つけますね」


私は、微笑んだ。

腕の痛みも、呪いも、どうでもよくなった。

「でも、いいんです。私は、リディアさんとは違うから」


「私は、あなたの『絶望』になるために、ここにいるんじゃない」


「あなたの希望も、あなたの絶望も、あなたの弱さも、あなたの罪も、全部まとめて抱きしめるために、ここにいるんですから」


私は空いている右手で、彼の涙に濡れた頬をそっと包み込む。

「あなたは一人じゃない。私がいます。私が、あなたの半分になります。あなたの光が強すぎて影が生まれるなら、私がその影を受け止める。あなたの絶望が溢れて世界を壊しそうなら、私がその絶望を愛してみせる」

「だから、泣かないで、私の神様」


私の言葉に、Kさんは子供のように、ただ嗚咽を漏らし続けた。

それは、リディアの自己犠牲とは全く違う、対等な魂のパートナーからの、絶対的な『赦し』だった。

彼が何十年も、たった一人で背負い続けてきた罪の重荷を、ようやく半分、下ろすことができた瞬間だったのかもしれない。



その後、どうやって眠ったのか覚えていない。

気づけば私は、Kさんのベッドの中にいた。もちろん一人で。

左腕の呪いは鎮まっているものの、時折ズキリと痛み、悪夢となって私の精神を蝕んだ。うなされる私に、Kさんは椅子に座ったまま、一晩中、私の手を握ってくれていたらしい。

朝、目を覚ました時、疲れ果てて椅子に座ったまま眠る彼の、神々しいまでの寝顔を見た私の心臓が、どれだけオーバーヒートしたかは言うまでもない。


「……やはり、呪いを解くには、それ相応の『代償』が必要か」

私が錬成した(もちろん呪われた腕ではなく右手で!)お粥を、彼は力なく啜りながら呟いた。

その夜空色の瞳には、もう涙はなく、何かを覚悟した鋼のような光が宿っていた。


「僕の『希望』の力で浄化できないのなら、方法は二つ」

「二つ……?」

「一つは、この呪いよりもさらに強力な『絶望』で、上書きすることだ。だが、そんなことをすれば君の魂が持たない」


その時、プライベートルームの静寂を破り、私たちの脳内に直接、チェロのように滑らかな思念(メッセージ)が響き渡った。


『――その通りだよ、K。彼女の魂は、僕の『茨の王座』クラスの悲劇には、まだ耐えられないだろうね』


紫苑さん!

Kさんの纏う空気が一瞬で凍てつくが、紫苑さんは構わず続ける。


『だが、君が忘れていることがあるんじゃないか? ガーディアン。お前がその身に封印し、そして最も恐れている、お前自身の『絶望』の力を解放すれば、話は別だ』


「黙れッ!」

Kさんの怒声が響く。


『ふふ、図星か。……まあいい。ヒントをやろう、K。詩織を救いたくば、北の凍てつく『嘆きの氷原』へ行ってみることだ。かつて、お前と僕が、物語の『禁断の力』に初めて触れた、あの場所へ。そこにお前の忘れた『鍵』がある。彼女の呪いを解くための、もう一つの『絶望』の鍵がね』


そう言い残し、紫苑さんの気配は消えた。


「嘆きの氷原……」

Kさんは、唇から血が滲むほど、強く噛み締めていた。

それは、彼が何よりも思い出したくない、過去の聖域の名なのだろう。


私が彼の決意を促すより先に、彼は立ち上がった。


「詩織。しばらく、ここに一人でいろ。絶対に、僕の神殿(ここ)から出るな」

「えっ!? 私も行きます!」

「ダメだ」


拒絶の言葉は、氷のように冷たい。

彼は私のそばに膝をつくと、まるでガラス細工に触れるように、呪われた私の左腕にそっと触れた。

「君をこれ以上、危険に晒すことはできない」

彼の指先が、私の頬を優しく撫でる。

「君の痛みは、僕の痛みだ。これ以上、君を痛めつける僕自身が、許せない」


その声は、とろけるように甘く、それでいて、狂おしいまでの愛に満ちていた。

「だから、待っていてくれ。必ず、君を救う『鍵』を、僕が持ち帰る」

彼は私の頬を両手で包むと、祈るように、誓うように、私の額に自らの唇をそっと押し当てた。


「君を救うためなら」


それは、聖者のような顔をした、悪魔の囁きだった。


「僕は喜んで、僕自身の魂(ものがたり)を、壊してみせよう」


彼はそう言い残し、漆黒のマントを翻して部屋を飛び出していく。転移魔法陣がまばゆい光を放ち、やがてその残照も闇に吸い込まれた。


残されたのは、私一人。そして、左腕で不気味に脈打つ、『絶望』の呪い。

Kさんは、一人で、一体何をしようとしているの……?


彼が去ったデスクの上には、手付かずのまま冷めてしまったコーヒーが、ぽつんと置かれていた。


遠く離れたKさんの神聖領域(マイページ)。

『灰色のアルカディア』の編集画面を、彼が開いていたことなど、この時の私には知る由もなかった。

彼の震える指先が、これまでの作風とはまるで違う、暗く、重く、救いのない『聖句(タグ)』を、一つ、また一つと打ち込み始めていることも。


《#主人公の裏切り》《#ヒロインの死》《#世界の崩壊》


私の神様(おし)を、止めなければ。

彼の物語を、守らなければ。

私は残されたMPを振り絞り、右手で、黄金のシールドを錬成する。


「Kさん……!」


絶望が、始まる。

私たちの本当の物語が、今、始まってしまう。

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