昨夜のキスは、罪の味がした。
彼の焦燥と後悔、そして私を絶対に手放さないという烈しい独占欲が渦巻く、苦くて甘い初めての口づけ。その感触は一晩経っても生々しく唇に残り、私の心臓を事あるごとにギュンッと締め付ける。
おかげで、今日のKさんのプライベートルームは、史上最高に気まずい空気に満ちていた。
「…………」
「…………」
沈黙が痛い。
ソファに座る私と、デスクに向かうKさん。私たちの間には、目に見えないけれど極厚の『意識しすぎの壁』がそびえ立っている。チラリと彼を盗み見れば、完璧な横顔はいつも通り涼やかなのに、耳だけはリンゴみたいに真っ赤だ。うん、神様(あなた)も相当意識してますね!?
昨夜、あれからどうなったかというと。
Kさんは私に衝動的にキスをした後、まるで電池が切れたみたいに私の肩へ突っ伏し、そのまま意識を失ってしまったのだ。結局、彼の身体をなんとかソファまで運び、甲斐甲斐しくブランケットをかけて差し上げたわけですが。……乙女の唇を奪っておいて、まさかの寝落ちとは! いい度胸してますよ、私の神様!
けれど、その無防備な寝顔は、息をのむほど綺麗で、どうしようもなく愛おしかった。
悪夢にうなされ、私の名を呼びながら眉根を寄せる彼を見ていると、決意はさらに固くなる。
――『忘却の書庫』へ行こう。
彼を蝕む、過去という名の呪いを解くために。
私が、彼の本当の『希望』になってみせる。
「詩織」
「は、はいぃっ!?」
不意に名前を呼ばれ、心臓が喉からまろび出そうだ。
Kさんはこちらを振り返ると、どこか意を決した面持ちで、私に歩み寄ってきた。
ひぃっ! な、なに!? キスの続き!? い、心の準備が……!
彼は私の目の前で跪くと、懺悔でもするかのように、私の手を取った。
「昨日は……すまなかった。君を、怖がらせただろう」
「い、いえ、そんなことは……」
「嘘だ。君の瞳が、僕を恐れていた」
「っ……!」
違う。私が恐れていたのは、彼の隠す秘密。その深淵に触れることへの恐怖だ。
「僕から離れるな、と言ったな。あれは本心だ」
Kさんは私の手を、自身の頬へとそっと導く。彼の肌は少しひんやりとしていて、私の手のひらの熱が吸い取られていくようだった。
「でも、君を籠の中の鳥にするつもりはない。君は僕の騎士だ。だから……信じる。君が僕を裏切らないことだけを」
その夜空色の瞳が、切なげに揺らめく。
ああ、もう! そんな捨てられた子犬みたいな瞳で見つめないで! 嘘をつく私の罪悪感がマッハで天元突破しちゃうじゃないですか!
「……はい。私も、Kさんを信じています」
「うん……」
彼は安堵したように目を伏せ、私の手のひらに、すり、と頬を寄せた。
……なにこの可愛い生き物! あざとすぎでは!?
軽めのエロスどころじゃない! 私の理性が今まさにメルトダウン寸前なんですけど!
私は燃え上がりそうな顔を隠すように、とっさに立ち上がった。
「きょ、今日は一日、ここにいます! あなたの物語がもっともっと輝くように、私がそばで全力で応援しますから!」
我ながら完璧な笑顔。完璧な嘘。
どうか、この純粋すぎる神様が、私の企みに気づきませんように。
心の中で十字を切り、私は騎士としての、たった一つの裏切り行為を開始した。
◇
『忘却の書庫』への道筋は、謎に包まれている。
頼みの綱の情報屋も「どこかにある」なんていう、Googleマップなら星一つレベルの曖昧な情報しかくれなかった。
Kさんが『灰色のアルカディア』の執筆という名の『聖域(サンクチュアリ)』に籠もり、神殿全体の魔力(マナ)が創作の熱で満ち始めたのを確かめ、私は動き出した。
これは潜入ミッション。コードネームは『推しの心の闇、私が暴いて救済します大作戦』だ!
彼のプライベートルームは、本の海だ。
Kさんを起こさないよう、抜き足差し足、猫のようなステップで、本棚を一つ一つ改めて調べていく。
表向きは創作資料や古典文学が並ぶなか、私の『ガチ勢の勘』が告げている。この中に絶対、何かある、と。
「……あった!」
本棚の一番奥、最も目立たない場所に、それはあった。
他の本とは明らかに違う、禍々しいオーラを放つ黒い装丁。タイトルはどこにも書かれていない。
手を伸ばすと、ズシリとした重みと共に、無数の魂の怨念のような冷気が伝わってきた。間違いない、禁書だ。
恐る恐るページをめくると、おどろおどろしい文字で、ネオページアの暗黒史が記されていた。
《#打ち切り》《#炎上》《#規約違反によるBAN》――。
ページをめくっていくと、その記述は最後にあった。
『忘却の書庫(ライブラリ・オブ・オブリビオン):この世界のあらゆる「死んだデータ」が流れ着く魂の墓場。削除された作品、引退した創造主の残留思念、行き場を失った感想、その全てが混じり合う混沌の渦。セントラル・ハブの座標X-999、Y-999、Z-9S。物理領域とデータ領域の狭間、次元の裂け目にその入り口は存在する』
場所が、わかった。しかし、添えられた一文に背筋が凍る。
『――警告:訪れし者に祝福はなく、帰還せし者に平穏はなし。己が「忘れたい過去」を糧に、書庫の亡霊は無限に増殖する――』
こ、怖すぎ……!
私は自分の胸元――『ガーディアンの鍵』をぎゅっと握りしめる。
Kさんの寝顔を、もう一度だけ目に焼き付けた。
「……待っていてください、Kさん」
書き置きは残さない。彼を心配させたくないからだ。
その代わり、キッチンの錬成魔法陣で、とびきり香りの良い、最高級の豆を使ったコーヒーを錬成した。それを彼のデスクの隅にそっと置いていく。
これが私の覚悟。私が戻らなかったら、あなたの心を少しでも温めてくれますように、という儚い祈りを込めて。
◇
次元の裂け目は、セントラル・ハブのきらびやかなメインストリートから想像もつかない、寂れたデータの裏路地の、さらに奥にあった。
削除されたタグの残骸や、エラーコードの礫が、宇宙ゴミのように漂っている。
スキル『簡易隠密魔法』を最大出力で展開し、MPゲージがみるみる減っていく中、私はついにその入り口にたどり着く。
「うわ……」
そこは、空間そのものがバグって引き裂かれたような、巨大な黒の亀裂だった。
中からは、ヒュゥゥゥ、と亡霊の溜息のような不気味な風が吹き付けてくる。
情報屋の言っていた通りだ。
「なんでこんな結末なんだ……」「あの伏線はどうなった……」「作者は読者を裏切った……」
無数の後悔と怨嗟の声が、風に乗って脳に直接流れ込み、激しい頭痛を引き起こす。MPゲージがごっそりと削られた。
怖い。
帰りたい。
Kさんの腕の中に戻って、何もかも忘れてしまいたい。
そんな弱気が心をよぎった瞬間、胸の鍵が『カッ』と熱を持った。
(……詩織。君がいない世界で、物語を紡ぐ意味など、僕にはないのだから)
彼の声が、私に力をくれる。
「……私は、あなたの騎士(ナイト)だから!」
己を鼓舞し、私は暗黒の渦巻く裂け目へと、身を投げた。
◇
『忘却の書庫』は、私の貧相な想像力を遥かに凌駕する、絶望の具現だった。
天を突くほどに高い本棚には、すべてタイトルも背表紙もない、石板のような灰色の本が並ぶ。それに触れようとすると、込められた作者の断末魔――『もう書けない』『アイデアが尽きた』『誰か助けて』――といった負の感情がダイレクトに流れ込み、魂ごと引きずり込まれそうになる。
うつろな目でさまようのは、かつて創造主や探訪者だった、自我を失ったアバターの亡霊たち。果たされなかった物語の続きを求め、彼らは永遠にこの書庫をさまようのだ。
「更新は……まだ……?」「推しカプが……幸せになるまで……私はここに……」
「くそっ、なぜ俺の作品は評価されないんだ……!」
怨念の渦にMPを削られながら、私は亡霊たちの間をすり抜ける。
お守りとしてKさんから渡された『抗毒の護符』が淡い光を放ち、怨念が直接私に触れるのを防いでくれていた。
こんな地獄で、どうやって『最初の聖女』の記録を探せばいいの?
その時だった。
チリッ、と胸のコンパスが微かな音を立てた。
姫宮麗子や紫苑の時のような敵意を示す警告音ではない。何か、懐かしいものを見つけたような、切ない響き。
コンパスの針は、書庫の最深部――ひときわ強く怨念が渦巻く、暗闇の中心を指し示している。
「あっちに、何か……?」
導かれるまま、私は進む。
怨念の嵐を黄金のシールドで弾き、亡霊たちの嘆きを振り切り、MPが尽きかける瀬戸際で、ついに最深部にたどり着いた。
そこにあったのは、他のどの本とも違う、一冊だけがぽつんと置かれた大理石の書見台。
その本は、古びてはいるものの、今もなお儚く、それでいて気高い、純白のオーラを放っていた。
「……これ、だ」
私は吸い寄せられるように書見台に近づき、本に手を伸ばす。
表紙には、流麗な筆記体で、こう記されていた。
『My Dearest Guardian(我が愛しき守護者へ)』
聖女リディアの日記。間違いない!
ゴクリと唾を飲み、私はその重いページを開いた。
綴られていたのは、私が想像していたより遥かに甘く、そして遥かに残酷な、愛の記録だった。
―――
《我が愛しきKへ。あなたが初めて物語を紡いだ日を、私は忘れません。あなたの言葉は、灰色だった私の世界に、鮮やかな『色』を与えてくれました》
《あなたの『希望』の物語は、多くの人々を救っています。でも、私だけは知っています。あなたが希望を紡げば紡ぐほど、その反動で、あなたの心の内側に、暗く、重い『絶望』が澱のように溜まっていくことを……。あなたの魂は、希望と絶望の二律背反でしか、存在できないのですね》
《あなたの隣にいた紫苑は、正しいことを言いました。その絶望を、物語として吐き出すべきだと。でも、あなたはそれを拒んだ。人々に希望を与えることこそが、あなたのすべてだから》
《だから、私がなります》
《私が、あなたのための『悲劇』に》
―――
衝撃だった。
涙で、文字が滲む。
聖女リディアはKを救うために、彼の溜め込んだ絶望を解放する『生贄』になることを、自ら選んだのだ。
日記の最後のページには、震える文字で、彼女の最後の祈りが綴られていた。
《私は、このネオページアに生まれつつあった、プロトタイプの最凶の『運命の聖句(タグ)』を、我が身に受け入れます。《#鬱展開》《#NTR》《#救いのないBAD_END》……これらの呪いが、あなたの物語ではなく、私の魂を喰らい尽くしますように》
《愛しています、私のガーディアン》
《あなたの物語が、永遠に希望で満ち溢れるように》
《私が、あなたの物語の、最後の絶望(ページ)になります》
「そんな……! そんなの、あんまりだよ……!」
涙が、止まらない。
Kさんが力を失ったのは、彼女を封印したショックではない。彼女の自己犠牲という、あまりに巨大で歪んだ愛を、彼の心が受け止めきれなかったからだ。彼の『希望』が、最も愛した人を『絶望』の淵に追いやった。それが、彼の背負い続けてきた罪の正体。
同時に、恐ろしい真実に思い至る。
私がKさんを応援し、『希望』を願えば願うほど、それはかつてリディアがしたことと同じように、彼の心を絶望で満たしていく……?
じゃあ、私は……どうすれば……。
呆然とする私の前で、リディアの日記がまばゆい光を放ち始めた。
その光は私の身体に流れ込み、一つの魂へと溶け合うように、吸収されていく。
胸元の『ガーディアンの鍵』が、リディアの思念に共鳴し、熱く、激しく脈打った。
その、瞬間だった。
『ククク……見つけたぞ……』
地獄の底から響くような、邪悪な声。
書庫全体の空気が凍りつき、亡霊たちの悲鳴がピタリと止んだ。
私が振り向くと、巨大な影があった。
無数の灰色の本が融合し、後悔と怨念をインクのように滴らせながら形作った、巨大な怪物。忘れ去られた物語たちの怨念の集合体。
――『忘却の書庫』の主(キーパー)。
『聖女の魂を受け継ぎし、新たな『贄』よ……』
『その純粋すぎる『希望』の魂、我が糧食とするに相応しい』
怪物が、無数のインクの触手を伸ばし、私に襲い掛かってくる。
MPはもう残っていない。シールドも張れない!
ダメだ、喰われる……!
『詩織ィィィィィッ!!!』
Kさんの、魂からの絶叫が、空間を超えて響き渡った。
『ガーディアンの鍵』が閃光を放ち、私の身体を強制転移の光が包み込む。
間に合って!
――だが。
怪物の触手は、光よりも速かった。
光に包まれ、意識がホワイトアウトする寸前。
インクの鋭い先端が、私の左腕を深く、深く、貫いた。
「―――きゃぁっ!!!!」
激痛と、魂に直接流し込まれる冷たい『絶望』の感覚。
それが、私の最後の記憶だった。
これから私、一体どうなっちゃうの!?
……ううん、それより、私の神様(おし)は、これから一体どうなっちゃうのよ!?