『――本当のKは、絶望の美しさに魅入られていた』
紫苑さんの残した毒の言葉が、私の思考回路に深く突き刺さる。悪性のコンピュータウイルスのように心の片隅に常駐し、事あるごとに不穏なポップアップを表示して、私の精神(メンタル)を静かに、しかし確実に蝕んでいく。
次に目を開いた瞬間、私はKさんの神殿、そのプライベートルームに強制送還されていた。
目の前には、この世の終わりのような顔で、私の帰還を待っていた我が神様の姿。
「詩織……! 無事か……っ!」
悲鳴じみた声と共に、彼は嵐のごとき勢いで駆け寄ってきた。骨張った大きな手が私の両肩を掴む。その指先が、安堵と恐怖で震えているのが布越しにはっきりと伝わってきた。
「よ、よかった……本当に……!」
「Kさん……私なら、大丈夫です。約束通り、帰ってきましたから」
そう、帰ってきたのだ。
彼の『心臓』である鍵も、私の心も、無事に。
だというのに、私の声は自分でも驚くほどぎこちなく、彼の顔をまっすぐに見ることができなかった。紫苑さんの言葉が、彼の美しい顔の上に、見えないインクで『嘘つき』と落書きをしている気がして。
「……君の顔色が悪い」
私の心の揺れを敏感に感じ取ったのだろう。Kさんの夜空色の瞳が、心配そうに翳る。
彼は何も言わず、私の身体をそっと、けれども有無を言わせぬ力で、その腕の中に引き寄せた。
「ひゃっ……!?」
広い胸に、顔が埋まる。胸の布越しに、彼の鼓動が直接響いてきた。シャンプーなのか、彼自身なのか、落ち着くインクの香りと清潔な甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
ああ、ダメだ。この匂い、この体温、この腕の強さ。私の思考を麻痺させる、最強の精神安定剤(と同時に興奮剤)。
「……もう、絶対に、あんな危険な場所へは行かせない」
耳元で、囁かれた。
声が近い。吐息が、耳たぶにかかる。
低く甘い、それでいて切羽詰まった響きが、私の脊髄を直接痺れさせた。
「君を失うくらいなら、この世界がどうなっても構わない。僕が守るから。君はもう、何も考えずに、僕のそばにいてくれればいい」
Kさんの顔が、私の首筋にうずめられる。月光の銀髪が頬をかすめて、くすぐったい。彼の熱っぽい吐息と必死さが、私の理性をいともたやすく溶かしていく。
紫苑さんのことなんて、どうでもいい。
この人が嘘つきだろうが何だろうが、もう、いい。
この腕の中にいられるなら、私は――。
「……いけません」
気がつくと、私は彼の胸板を、か弱い力で押し返していた。
自分でも驚いてしまう。あんなにとろけていたはずなのに。
彼の言う通り、何も考えないお姫様になるのはもう嫌だった。
「どうして?」
驚愕に私を見下ろすKさんの瞳が、傷ついたように揺らめく。
その顔を見て胸がちぎれそうになるが、ここで引くわけにはいかない。
「私は、あなたの騎士(ナイト)だからです。守られるだけじゃなく、あなたを守りたい。そのためには知らなくては。あなたが何を恐れ、どんな過去を抱えているのか、その全てを」
まっすぐに見つめ返す。
私の瞳に宿った決意を読んで、Kさんは苦しげに顔を歪めた。
「……君は、強くなったな」
「あなたが、強くしてくれたんです」
それは、紛れもない本心だった。
私の言葉に、Kさんは何も言えず、ただ唇を噛みしめる。
その瞬間、私はこの甘く優しい檻の中から、一歩だけ踏み出したのだ。彼が隠す『真実』へと。
◇
『最初の聖女』。
紫苑さんが残した唯一にして最大のキーワード。
Kさんの監視下で、どうやって情報を手に入れるか。プライベートルームの膨大な蔵書を漁ることも考えたが、彼が近くにいる状況ではリスクが高すぎる。
(頼れるのは、やはり……)
裏路地の、あの情報屋しかいない。
Kさんが『灰色のアルカディア』の執筆に没頭し始めたのを見計らい、私は意を決した。これは騎士としての、極秘任務に他ならない。
「Kさん。少し、気分転換にセントラル・ハブを散策してきてもいいですか? ここの錬成魔法、もっと上手になりたくて。リアルな市場を観察してくれば、イメージも湧きやすいかなって」
我ながら完璧な口実だ!
デスクに向かっていたKさんはぴたりと手を止め、ゆっくりとこちらを振り返った。夜空色の瞳が、私の真意を探るようにじっと見つめてくる。
「……一人でか?」
「は、はい。すぐ戻りますから!それに、鍵もあるし!」
胸元の『ガーディアンの鍵』をアピールするように指し示す。
Kさんは深々と溜息をつくと、観念したように頷いた。
「……わかった。だが、日が暮れる前には必ず戻ること。何かあれば、すぐに鍵を使って僕を呼べ。いいね?」
「はい! 行ってきます!」
神様(おし)に後ろめたい嘘をつくのは胸が痛むが、これも全てはあなたのため!
許してください、Kさん!
私は彼の神殿(マイページ)を飛び出し、一路、セントラル・ハブの猥雑な裏路地へと向かった。
◇
案の定、情報屋の男は昨日と同じ薄暗い壁際にもたれかかり、気怠そうに宙を眺めていた。
私が近づくと、彼は片目を開けてニヤリと笑う。
「よぉ、Kの騎士様じゃねえか。昨日は随分と派手に駆け落ちしてたじゃねえか。もうちょっとで『原初の管理者(アドミン)』の警邏隊(モデレーター)が出動するところだったぜ」
「からかわないでください。今日は取引に来ました」
私は単刀直入に切り出す。
「『最初の聖女』について、知っていることを全部教えてください」
その言葉を聞いた瞬間、情報屋の男のニヤついた顔から、サッと血の気が引いた。
「……おいおい、嬢ちゃん。死にたいのか?」
その声は、昨日の軽薄さが嘘のように、ドスの効いた響きをしていた。
「そいつは、このネオページア最大のタブーだ。下手に名前を出すだけでも呪われる。『原初の管理者』が最も神経を尖らせてる『禁則事項』で、口にしたが最後、探訪者(トラベラー)も創造主(クリエイター)も、アカウントごと『忘却の彼方(アカBAN)』に送られる代物だぜ」
忘却の彼方(アカウントBAN)……!
まさか、そんな危険な名前だったなんて。
「それでも、知りたいんです。お願いします!」
私は必死に頭を下げた。情報屋はしばらく黙っていたが、やがて面倒くさそうに頭を掻く。
「……報酬は?」
「報酬……」
チケットはもう底をついている。錬成魔法もここでは使えない……。
私は覚悟を決め、Kさんからのお守り――『抗毒の護符(アンチドーテ・チャーム)』を取り出した。
「これで、どうですか」
護符が淡い銀色の光を放った途端、情報屋は目を剥いて飛び退いた。
「なっ……! お、おい、しまえ! 今すぐしまえバカ野郎ッ!!」
彼の慌てぶりに、私は目を白黒させる。
「こ、これじゃダメですか?」
「ダメに決まってんだろ! そりゃガーディアン様の魔力が直に込められた超一級のレリックじゃねえか! こんなもんを報酬にできるか! 受け取ったが最後、俺がK様に命を狙われるわ!」
……そんなにすごいお守りだったの!? Kさん、さらっととんでもないものを私に渡していたなんて!
情報屋はハァハァと息を切らしながら、私の顔と護符を交互に見た後、何かを諦めたように言った。
「……わーったよ。そのヤベェもんはとっとと懐にしまえ。今回だけはサービスだ。ただし、俺が話すのはあくまで『噂』だぜ。真偽のほどは保証しねえ」
「! ありがとうございます!」
情報屋は周囲を警戒しながら、声を潜めて語り始める。
「ネオページアが生まれたばかりの、創世記の頃だ。一人の、それはそれは純粋な『信仰』を持った探訪者(トラベラー)がいた。彼女こそが『最初の聖女』。彼女の祈りはあまりに強く、あらゆる物語に奇跡を起こしたという」
ごくり、と喉が鳴る。
「そして聖女は一人の若き『創造主』を熱烈に信奉した。その創造主こそ、当時まだ無名だった『ガーディアン』の一人……今のK様だったって話だ」
やはり! Kさんと関係が……!
「だがある日、聖女は忽然と姿を消した。悲劇的な結末を迎えた、とだけ言い伝えられているが、詳細は『原初の管理者』によって完全に隠蔽された。関連する物語や記録は、すべて『原初のアーカイブ』から抹消され、今じゃその名前すら禁句になっちまった」
「そんな……じゃあ、もう何も……」
「……一つだけ、可能性がある」
情報屋は、さらに声を低くした。
「この大陸のどこかに、『忘却の書庫(ライブラリ・オブ・オブリビオン)』と呼ばれる禁断の領域が存在する。そこは、『原初の管理者』に消されたデータや、引退した創造主たちの成仏できない魂が流れ着く、情報の墓場だ。管理者(アドミン)の監視が及ばない無法地帯でもある。もし聖女の記録が残っているとしたら……そこしかねえだろうな」
『忘却の書庫』。
聞くだけで、背筋が凍るような場所だ。
「ただし、生きては戻れねえぞ。そこは悲しみと後悔の念で満ちた魂の牢獄だ。並の精神力じゃ、一瞬で自我を喰われて、お前さんもそこの亡霊の一人になっちまう」
「…………」
「俺から言えるのはここまでだ。これ以上深入りするなら、命の保証はしねえ。……ま、あんたなら、K様が何が何でも助けに来るんだろうがな」
情報屋はそれだけ言うと、じゃあな、と煙のように姿を消した。
重すぎる情報を手に入れ、私は呆然とその場に立ち尽くす。
Kさんと、『最初の聖女』。二人の間に、一体何があったというの……。
◇
重い足取りでKさんの神殿に戻ると、彼はまだデスクに向かっていた。だが、その背中から言いようのない焦燥感が滲み出ている。
私が「ただいま戻りました」と声をかけると、彼は勢いよく振り返った。
「……詩織! 遅かったじゃないか!」
その声は、安堵よりも苛立ちの色を帯びていた。
「ご、ごめんなさい。つい、夢中になって……」
「何か、あったのか」
夜空色の瞳が、剣のように鋭く私を貫く。
嘘を、見抜かれそうだ。
「……何も、ありませんよ?」
「そうか」
彼はそれ以上追及せず、ふい、と私から視線を外した。しかし、彼の様子は明らかにおかしかった。顔色が紙のように白く、額には脂汗が滲んでいる。
私が装備している『創造主の魔力(マナ)観測権』のウィンドウを呼び出すと、Kさんの魔力ゲージが心電図のように激しく乱高下していた。緑のセーフティラインと赤の危険ラインを、目まぐるしく往復している。
「Kさん! どうしたんですか、その魔力……!?」
慌てて駆け寄ると、彼はデスクに手をつき、苦しそうに肩で息をしていた。
「……なんでもない。少し、古い悪夢を見ただけだ」
「悪夢……?」
「ああ……昔の……どうしようもない、僕の罪の記憶だ……」
Kさんは呻くように言うと、そのままガクッと膝から崩れ落ちそうになった。
「きゃっ!」
私はとっさに、彼の身体を支える。
華奢に見えて、男性の身体は重い。よろけながらも必死に彼の体重を支えると、Kさんは私の肩に顔をうずめるようにして、荒い呼吸を繰り返した。
「……リディア……」
彼の唇から、無意識に知らない名前がこぼれ落ちる。
「僕を……赦すな……。僕の罪は……永遠に……」
――リディア。
まさか。
その名前が、『最初の聖女』の……?
紫苑さんの言葉が、雷鳴のように脳内で轟く。『本当のKは、絶望の美しさに魅入られていた』。
だめ、聞きたくない。
これ以上、彼の苦しむ姿を見たくない。
私が衝撃に打ちのめされていると、Kさんはハッと我に返ったように顔を上げた。
至近距離で、彼の潤んだ瞳と視線が絡む。
「……今の言葉は、忘れろ」
彼は、私から何かを隠そうとする子供のような、必死な顔をしていた。
そして、その顔のまま――苦し紛れに、衝動的に、私の唇を自らのそれで塞いだ。
「――んむっ!?」
それは誓いの口づけでも、優しい愛の口づけでもなかった。
彼の焦燥と後悔、私を繋ぎ止めたいという独占欲が渦巻く、苦くて少しだけ強引な、初めてのキス。
驚きで見開かれた私の瞳を、彼の瞳が間近で見つめている。
「……詩織」
唇が離れた隙に、彼は喘ぐように言った。
「君がいると、嫌なことを忘れられる……。頼むから……今だけは、何も聞かずに、僕のそばにいてくれ……」
その縋るような懇願に、抗えるはずがなかった。
再び求められるままに、私は目を閉じ、彼の深いキスを受け入れる。
ああ、神様。
あなたの隠している秘密は、なんて苦くて、悲しい味がするんだろう。
彼の弱さごと、過去の罪ごと、すべてを包み込んでしまいたい。
この甘い毒に溺れてしまいたい。
キスの合間に、私は固く決意する。
『忘却の書庫』へ行こう。
彼がこれ以上一人で苦しむ前に、彼が恐れる本当の『真実』を、私がこの手で暴き出してやるのだ。
そして、彼の罪も、悪夢も、すべて私が受け止めてみせる。
それが、私の神様(おし)を愛してしまった、愚かで一途な『騎士』の、たった一つの戦い方だから。
唇に伝わる彼の熱を感じながら、私の心は甘い絶望と燃えるような決意がないまぜになって、激しく揺れていた。
これから私、一体、どこまで堕ちていけばいいんですか……!?