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第9話_私の神様は、キスで嘘を塗りつぶす

『――本当のKは、絶望の美しさに魅入られていた』


紫苑さんの残した毒の言葉が、私の思考回路に深く突き刺さる。悪性のコンピュータウイルスのように心の片隅に常駐し、事あるごとに不穏なポップアップを表示して、私の精神(メンタル)を静かに、しかし確実に蝕んでいく。


次に目を開いた瞬間、私はKさんの神殿、そのプライベートルームに強制送還されていた。

目の前には、この世の終わりのような顔で、私の帰還を待っていた我が神様の姿。


「詩織……! 無事か……っ!」


悲鳴じみた声と共に、彼は嵐のごとき勢いで駆け寄ってきた。骨張った大きな手が私の両肩を掴む。その指先が、安堵と恐怖で震えているのが布越しにはっきりと伝わってきた。


「よ、よかった……本当に……!」

「Kさん……私なら、大丈夫です。約束通り、帰ってきましたから」


そう、帰ってきたのだ。

彼の『心臓』である鍵も、私の心も、無事に。

だというのに、私の声は自分でも驚くほどぎこちなく、彼の顔をまっすぐに見ることができなかった。紫苑さんの言葉が、彼の美しい顔の上に、見えないインクで『嘘つき』と落書きをしている気がして。


「……君の顔色が悪い」

私の心の揺れを敏感に感じ取ったのだろう。Kさんの夜空色の瞳が、心配そうに翳る。

彼は何も言わず、私の身体をそっと、けれども有無を言わせぬ力で、その腕の中に引き寄せた。


「ひゃっ……!?」


広い胸に、顔が埋まる。胸の布越しに、彼の鼓動が直接響いてきた。シャンプーなのか、彼自身なのか、落ち着くインクの香りと清潔な甘い匂いが鼻腔をくすぐる。

ああ、ダメだ。この匂い、この体温、この腕の強さ。私の思考を麻痺させる、最強の精神安定剤(と同時に興奮剤)。


「……もう、絶対に、あんな危険な場所へは行かせない」


耳元で、囁かれた。

声が近い。吐息が、耳たぶにかかる。

低く甘い、それでいて切羽詰まった響きが、私の脊髄を直接痺れさせた。


「君を失うくらいなら、この世界がどうなっても構わない。僕が守るから。君はもう、何も考えずに、僕のそばにいてくれればいい」


Kさんの顔が、私の首筋にうずめられる。月光の銀髪が頬をかすめて、くすぐったい。彼の熱っぽい吐息と必死さが、私の理性をいともたやすく溶かしていく。


紫苑さんのことなんて、どうでもいい。

この人が嘘つきだろうが何だろうが、もう、いい。

この腕の中にいられるなら、私は――。


「……いけません」

気がつくと、私は彼の胸板を、か弱い力で押し返していた。

自分でも驚いてしまう。あんなにとろけていたはずなのに。

彼の言う通り、何も考えないお姫様になるのはもう嫌だった。


「どうして?」

驚愕に私を見下ろすKさんの瞳が、傷ついたように揺らめく。

その顔を見て胸がちぎれそうになるが、ここで引くわけにはいかない。


「私は、あなたの騎士(ナイト)だからです。守られるだけじゃなく、あなたを守りたい。そのためには知らなくては。あなたが何を恐れ、どんな過去を抱えているのか、その全てを」


まっすぐに見つめ返す。

私の瞳に宿った決意を読んで、Kさんは苦しげに顔を歪めた。


「……君は、強くなったな」

「あなたが、強くしてくれたんです」


それは、紛れもない本心だった。

私の言葉に、Kさんは何も言えず、ただ唇を噛みしめる。

その瞬間、私はこの甘く優しい檻の中から、一歩だけ踏み出したのだ。彼が隠す『真実』へと。



『最初の聖女』。

紫苑さんが残した唯一にして最大のキーワード。

Kさんの監視下で、どうやって情報を手に入れるか。プライベートルームの膨大な蔵書を漁ることも考えたが、彼が近くにいる状況ではリスクが高すぎる。


(頼れるのは、やはり……)


裏路地の、あの情報屋しかいない。

Kさんが『灰色のアルカディア』の執筆に没頭し始めたのを見計らい、私は意を決した。これは騎士としての、極秘任務に他ならない。


「Kさん。少し、気分転換にセントラル・ハブを散策してきてもいいですか? ここの錬成魔法、もっと上手になりたくて。リアルな市場を観察してくれば、イメージも湧きやすいかなって」


我ながら完璧な口実だ!

デスクに向かっていたKさんはぴたりと手を止め、ゆっくりとこちらを振り返った。夜空色の瞳が、私の真意を探るようにじっと見つめてくる。


「……一人でか?」

「は、はい。すぐ戻りますから!それに、鍵もあるし!」

胸元の『ガーディアンの鍵』をアピールするように指し示す。


Kさんは深々と溜息をつくと、観念したように頷いた。

「……わかった。だが、日が暮れる前には必ず戻ること。何かあれば、すぐに鍵を使って僕を呼べ。いいね?」

「はい! 行ってきます!」


神様(おし)に後ろめたい嘘をつくのは胸が痛むが、これも全てはあなたのため!

許してください、Kさん!

私は彼の神殿(マイページ)を飛び出し、一路、セントラル・ハブの猥雑な裏路地へと向かった。



案の定、情報屋の男は昨日と同じ薄暗い壁際にもたれかかり、気怠そうに宙を眺めていた。

私が近づくと、彼は片目を開けてニヤリと笑う。


「よぉ、Kの騎士様じゃねえか。昨日は随分と派手に駆け落ちしてたじゃねえか。もうちょっとで『原初の管理者(アドミン)』の警邏隊(モデレーター)が出動するところだったぜ」

「からかわないでください。今日は取引に来ました」


私は単刀直入に切り出す。

「『最初の聖女』について、知っていることを全部教えてください」


その言葉を聞いた瞬間、情報屋の男のニヤついた顔から、サッと血の気が引いた。


「……おいおい、嬢ちゃん。死にたいのか?」

その声は、昨日の軽薄さが嘘のように、ドスの効いた響きをしていた。

「そいつは、このネオページア最大のタブーだ。下手に名前を出すだけでも呪われる。『原初の管理者』が最も神経を尖らせてる『禁則事項』で、口にしたが最後、探訪者(トラベラー)も創造主(クリエイター)も、アカウントごと『忘却の彼方(アカBAN)』に送られる代物だぜ」


忘却の彼方(アカウントBAN)……!

まさか、そんな危険な名前だったなんて。


「それでも、知りたいんです。お願いします!」

私は必死に頭を下げた。情報屋はしばらく黙っていたが、やがて面倒くさそうに頭を掻く。


「……報酬は?」

「報酬……」

チケットはもう底をついている。錬成魔法もここでは使えない……。

私は覚悟を決め、Kさんからのお守り――『抗毒の護符(アンチドーテ・チャーム)』を取り出した。

「これで、どうですか」


護符が淡い銀色の光を放った途端、情報屋は目を剥いて飛び退いた。

「なっ……! お、おい、しまえ! 今すぐしまえバカ野郎ッ!!」

彼の慌てぶりに、私は目を白黒させる。

「こ、これじゃダメですか?」

「ダメに決まってんだろ! そりゃガーディアン様の魔力が直に込められた超一級のレリックじゃねえか! こんなもんを報酬にできるか! 受け取ったが最後、俺がK様に命を狙われるわ!」


……そんなにすごいお守りだったの!? Kさん、さらっととんでもないものを私に渡していたなんて!

情報屋はハァハァと息を切らしながら、私の顔と護符を交互に見た後、何かを諦めたように言った。


「……わーったよ。そのヤベェもんはとっとと懐にしまえ。今回だけはサービスだ。ただし、俺が話すのはあくまで『噂』だぜ。真偽のほどは保証しねえ」

「! ありがとうございます!」


情報屋は周囲を警戒しながら、声を潜めて語り始める。


「ネオページアが生まれたばかりの、創世記の頃だ。一人の、それはそれは純粋な『信仰』を持った探訪者(トラベラー)がいた。彼女こそが『最初の聖女』。彼女の祈りはあまりに強く、あらゆる物語に奇跡を起こしたという」


ごくり、と喉が鳴る。


「そして聖女は一人の若き『創造主』を熱烈に信奉した。その創造主こそ、当時まだ無名だった『ガーディアン』の一人……今のK様だったって話だ」


やはり! Kさんと関係が……!


「だがある日、聖女は忽然と姿を消した。悲劇的な結末を迎えた、とだけ言い伝えられているが、詳細は『原初の管理者』によって完全に隠蔽された。関連する物語や記録は、すべて『原初のアーカイブ』から抹消され、今じゃその名前すら禁句になっちまった」


「そんな……じゃあ、もう何も……」

「……一つだけ、可能性がある」

情報屋は、さらに声を低くした。


「この大陸のどこかに、『忘却の書庫(ライブラリ・オブ・オブリビオン)』と呼ばれる禁断の領域が存在する。そこは、『原初の管理者』に消されたデータや、引退した創造主たちの成仏できない魂が流れ着く、情報の墓場だ。管理者(アドミン)の監視が及ばない無法地帯でもある。もし聖女の記録が残っているとしたら……そこしかねえだろうな」


『忘却の書庫』。

聞くだけで、背筋が凍るような場所だ。


「ただし、生きては戻れねえぞ。そこは悲しみと後悔の念で満ちた魂の牢獄だ。並の精神力じゃ、一瞬で自我を喰われて、お前さんもそこの亡霊の一人になっちまう」

「…………」

「俺から言えるのはここまでだ。これ以上深入りするなら、命の保証はしねえ。……ま、あんたなら、K様が何が何でも助けに来るんだろうがな」


情報屋はそれだけ言うと、じゃあな、と煙のように姿を消した。

重すぎる情報を手に入れ、私は呆然とその場に立ち尽くす。

Kさんと、『最初の聖女』。二人の間に、一体何があったというの……。



重い足取りでKさんの神殿に戻ると、彼はまだデスクに向かっていた。だが、その背中から言いようのない焦燥感が滲み出ている。

私が「ただいま戻りました」と声をかけると、彼は勢いよく振り返った。


「……詩織! 遅かったじゃないか!」

その声は、安堵よりも苛立ちの色を帯びていた。


「ご、ごめんなさい。つい、夢中になって……」

「何か、あったのか」


夜空色の瞳が、剣のように鋭く私を貫く。

嘘を、見抜かれそうだ。


「……何も、ありませんよ?」

「そうか」


彼はそれ以上追及せず、ふい、と私から視線を外した。しかし、彼の様子は明らかにおかしかった。顔色が紙のように白く、額には脂汗が滲んでいる。

私が装備している『創造主の魔力(マナ)観測権』のウィンドウを呼び出すと、Kさんの魔力ゲージが心電図のように激しく乱高下していた。緑のセーフティラインと赤の危険ラインを、目まぐるしく往復している。


「Kさん! どうしたんですか、その魔力……!?」

慌てて駆け寄ると、彼はデスクに手をつき、苦しそうに肩で息をしていた。


「……なんでもない。少し、古い悪夢を見ただけだ」

「悪夢……?」

「ああ……昔の……どうしようもない、僕の罪の記憶だ……」


Kさんは呻くように言うと、そのままガクッと膝から崩れ落ちそうになった。


「きゃっ!」


私はとっさに、彼の身体を支える。

華奢に見えて、男性の身体は重い。よろけながらも必死に彼の体重を支えると、Kさんは私の肩に顔をうずめるようにして、荒い呼吸を繰り返した。


「……リディア……」


彼の唇から、無意識に知らない名前がこぼれ落ちる。


「僕を……赦すな……。僕の罪は……永遠に……」


――リディア。


まさか。

その名前が、『最初の聖女』の……?

紫苑さんの言葉が、雷鳴のように脳内で轟く。『本当のKは、絶望の美しさに魅入られていた』。


だめ、聞きたくない。

これ以上、彼の苦しむ姿を見たくない。


私が衝撃に打ちのめされていると、Kさんはハッと我に返ったように顔を上げた。

至近距離で、彼の潤んだ瞳と視線が絡む。


「……今の言葉は、忘れろ」


彼は、私から何かを隠そうとする子供のような、必死な顔をしていた。

そして、その顔のまま――苦し紛れに、衝動的に、私の唇を自らのそれで塞いだ。


「――んむっ!?」


それは誓いの口づけでも、優しい愛の口づけでもなかった。

彼の焦燥と後悔、私を繋ぎ止めたいという独占欲が渦巻く、苦くて少しだけ強引な、初めてのキス。


驚きで見開かれた私の瞳を、彼の瞳が間近で見つめている。

「……詩織」


唇が離れた隙に、彼は喘ぐように言った。

「君がいると、嫌なことを忘れられる……。頼むから……今だけは、何も聞かずに、僕のそばにいてくれ……」


その縋るような懇願に、抗えるはずがなかった。

再び求められるままに、私は目を閉じ、彼の深いキスを受け入れる。


ああ、神様。

あなたの隠している秘密は、なんて苦くて、悲しい味がするんだろう。

彼の弱さごと、過去の罪ごと、すべてを包み込んでしまいたい。

この甘い毒に溺れてしまいたい。


キスの合間に、私は固く決意する。

『忘却の書庫』へ行こう。

彼がこれ以上一人で苦しむ前に、彼が恐れる本当の『真実』を、私がこの手で暴き出してやるのだ。

そして、彼の罪も、悪夢も、すべて私が受け止めてみせる。


それが、私の神様(おし)を愛してしまった、愚かで一途な『騎士』の、たった一つの戦い方だから。


唇に伝わる彼の熱を感じながら、私の心は甘い絶望と燃えるような決意がないまぜになって、激しく揺れていた。

これから私、一体、どこまで堕ちていけばいいんですか……!?

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