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第8話_私の神様は、絶望の味を知っている

『――待っていたよ、僕の可愛い小鳥ちゃん』


脳内に直接響く、チェロのように低く甘美な声。

目の前に立つ、古びた鉄と薔薇の茨で装飾された『ブルーローズ宮殿』の扉が、ギィィ……と重々しい音を立てて、私を異界へと誘う。

その先は、もう紫苑さんの神殿(マイページ)ではない。彼の創り出した物語(ワールド)――『茨の王座』へと繋がる、試練のゲートだ。


ごくり、と唾を飲む。

怖い。正直に言って、めちゃくちゃ怖い。

姫宮麗子の《#溺愛》ビームが物理攻撃なら、この人の『ゲーム』は魂に直接作用する精神攻撃(ポイズン)だ。私の最も脆い部分を的確に狙い、心をへし折りに来るに違いない。


でも――。

私はそっと、胸元に手をやる。

ブラウスの上からでも分かる、ひんやりとした確かな重み。Kさんが私に託してくれた、『ガーディアンの鍵』。

彼の心臓。彼の魂そのもの。


『詩織。絶対に、無理はするな。そして、必ず、生きて僕の元へ帰ってこい』


Kさんの切なる声が、耳の奥で蘇る。

大丈夫。私は一人じゃない。

最強の神様(推し)が、私の背中を守ってくれている。

それに、昨日の朝食で覚醒した私の『ガチ勢の魂(ソウル)』は、まだ彼の生活改善プログラムの第一歩を記したばかりなのだ。推しに三食きちんと食べさせて、健康的な生活を送らせる。その崇高な目的を達成するまでは、死んでも死にきれない!


「行きます」

私は覚悟を決め、きらびやかな毒に満ちた光のゲートへと、その一歩を踏み出した。



目を開いた瞬間、私は息を呑んだ。

全身を包み込むのは、むせ返るような白薔薇と、熟れた果実が腐敗する寸前の、甘く退廃的な香り。


そこは、すべてが硝子で創られた壮麗な大広間だった。

高い天井から下がるシャンデリア、磨き上げられた床、壁際の彫像、その何もかもが精巧なガラス細工だ。窓の外には永遠の黄昏が広がり、紫とオレンジが混じり合う奇妙な光が宮殿を乱反射させ、幻想的にきらめいていた。


美しかった。

あまりに美しく、同時に――ありとあらゆる生命の温かみを拒絶した、完璧なまでに冷たい世界だった。


「……ここが、『茨の王座』……」


呆然と呟いた私の脳裏に、再び紫苑さんの思念が流れ込む。


『気に入ってくれたかい? これは、これから始まる悲劇のための舞台だ。ガラスの心は、砕け散る時が最も美しいからね』


背筋がゾッとするほど優雅な声。やがて、ゲームのルールが私の意識に直接書き込まれていく。


『君には、この物語の主人公である王子『アレン』の視点に憑依してもらう。彼の喜びも、悲しみも、絶望も、すべて君自身のものとして追体験してもらうよ』

『君への課題は、たった一つ。彼が迎える『最も美しい絶望』の瞬間に立ち会い、その奥に隠された『真実の欠片』を見つけ出すことだ』

『もし、君の心が先に折れてしまったら……あるいは、時間切れになったら……君の負け。その時は約束通り、君とKを繋ぐその美味しそうな黄金の糸、僕がたっぷりと味わわせてもらう』


なんて悪趣味なゲーム。

人の心を玩具みたいに……!


私が憤慨していると、紫苑さんは心底楽しそうに「ふふっ」と笑った。

『さあ、開幕の時間だ。存分に藻掻き、苦しむといい。その姿はきっと、僕の創作意欲を大いに満たしてくれるだろうから』


その言葉を最後に、紫苑さんの気配が消える。

次の瞬間、私の意識はぐにゃりと歪み、強い力で誰かの身体の中へと引きずり込まれた。


「――っ!?」


視界が明滅し、安定する。

さっきまでいたガラスの宮殿の風景は同じ。けれど、視点が少しだけ高くなっている。自分の手を見下ろせば、それは日焼けを知らない、驚くほど白く華奢な指をしていた。

身体が、軽い。纏っているのは、月の光を織り上げたかのような、滑らかな白絹の衣装だ。

私が、王子『アレン』になったのだ。


巨大なガラスの鏡に、今の私の姿が映し出されていた。

プラチナブロンドン柔らかな髪。空の青を溶かし込んだような、憂いを帯びた瞳。儚げで、どこか中性的な美貌。

いけない。これは、いけない。

乙女ゲームなら攻略対象確定の、守ってあげたい系美少年じゃないか。こんな姿でこれから絶望させられるなんて、そんなの、あんまりだ……!


「アレン様」


背後から、鼓膜を蕩かすような低い声がした。

振り向いた私の心臓は、三度、とてつもない衝撃に見舞われる。


そこに立っていたのは、漆黒の騎士服に身を包んだ、この世の『雄』の魅力を煮詰めて凝縮したかのような青年だった。

燃えるような赤い髪を無造作に掻き上げ、覗く瞳は獰猛な獣を思わせる金色。日に焼けた褐色の肌に、鍛え上げられた、騎士服の上からでもわかるしなやかな筋肉のライン。その唇には、何もかもを見透かしたような、不遜でありながら抗いがたい色香を放つ笑みが浮かんでいた。

『茨の王座』のもう一人の主要人物、腹心の騎士『レオニール』だ。


ああ、神様。

いや、悪魔様、紫苑さん。

これは……あまりにも……顔面偏差値が高すぎる悲劇じゃないですか……!?


「どうなさいました、そのような場所でお立ち尽くしになって。今宵は貴方のために、祝宴が開かれるというのに」


レオニールが一歩、また一歩と近づいてくる。

彼の身体から発せられる、麝香と革の匂いが私の理性をじわじわと麻痺させていく。

『アレン』の心臓が、彼を視界に捉えた瞬間から、狂ったように高鳴っているのが分かった。

ああ、そうか。

この王子アレンは、この腹心の騎士レオニールに、恋をしているんだ。


レオニールは私の目の前で歩みを止めると、跪く代わりに、私の手を取って、その甲に唇を寄せた。


チュ。


湿った、熱い感触。

その瞬間、私の頭の中に、この物語の設定(テキスト)が濁流のように流れ込んできた。


――王子アレンは、兄である国王に疎まれ、この冷たいガラスの離宮に追いやられている。

――唯一心を許せるのは、幼い頃からそばに仕える騎士レオニールだけ。

――だが、レオニールは密かに兄王と通じ、アレンを陥れて王座を奪おうと画策する野心家だった。

――アレンはそのことを薄々感づいていながらも、彼への想いを捨てきれずにいる……。


重い! 設定が重すぎる!

救いが一ミリも見当たらないんですけど!


「……レオニール」

アレンの唇から、震える声が漏れた。それは私の意志ではない。物語に設定された、彼の声だ。

「祝宴など……どうでもよい。私は……お前さえ、そばにいてくれれば」

「おや、嬉しいことを仰ってくださる」


レオニールは私の手を取ったまま立ち上がると、その獰猛な金色の瞳で、私の心を射抜くように見つめた。

距離が、近い。吐息が触れ合うほどの、危険な距離。

彼の大きな手が、私の腰をぐっと引き寄せる。


「ひゃっ……!?」

「ならば、祝宴が始まる前に、少しだけ……二人きりの『余興』を楽しみましょうか、アレン様」


囁きながら、彼のもう一方の手が、私の頬をそっと撫でた。指先が、耳朶をなぞり、首筋を滑り落ちていく。その背徳的な愛撫に、アレンの身体がびくんと甘く震えた。


ダメだ。ダメだって分かってる!

この男は嘘つきだ! この甘い仕草も、言葉も、全部、私を――アレンを陥れるための罠なんだ!


頭ではそう叫んでいるのに、アレンの身体は、抗えない。

むしろ、この毒に身を委ねることを、心のどこかで望んでいる。彼の嘘ごと、この身に受け入れてしまいたいと。

その背徳感と官能的なスリルに、MPゲージがじりじりと削られていく。

これが……紫苑さんの創り出す、美しくも残酷な『BL』の世界……!

これが、悲劇に魅入られた神の『言語的破壊力』……!


「……好きに、しろ」

アレンの唇から、諦めと悦びが混じった、かすれた声がこぼれ落ちた。

レオニールは勝ち誇ったように唇の端を吊り上げ、ゆっくりと私の顔に近づいてきて――。


その、瞬間だった。


チリッ、と。

胸の奥で、何かが小さく、けれど確かに熱を持った。

ブラウスの胸元に隠した、『ガーディアンの鍵』だ。

その温もりが、毒に侵されかけていた私の意識に、一筋の光を差し込む。


(……詩織。君がいない世界で、物語を紡ぐ意味など、僕にはないのだから)


Kさんの、悲痛なまでの声。

そうだ。私は、帰らなきゃいけない。こんなところで、甘美な毒に溺れている場合じゃない!

アレンの絶望は、アレンのものだ。私は、私の物語を生きなくちゃ!


ハッと我に返った私は、残った理性で、アレンの身体を通して最後の抵抗を試みる。

レオニールの胸を、ドン、と力一杯突き飛ばした。


「――っ!?」


不意の一撃に、レオニールはたたらを踏む。彼の金色の瞳が、驚きに見開かれた。

「……どういうおつもりです、アレン様」

「もう、やめだ」


アレンの身体を借りて、私は宣言する。私の言葉だ。

「お前の嘘には、もう付き合わない。お前が兄上と通じ、この国をどうしようとしているか、すべて知っている」


言った。

これで、物語の均衡は崩れるはずだ。

悲劇は回避され、レオニールはきっと逆上して、私を――


「……ははっ」

しかし、彼の反応は、私の予想とは全く違った。

レオニールは、一瞬呆気にとられた後、心底おかしそうに笑い出したのだ。

「ははは、あはははは! 知っていた? すべてご存知の上で、貴方は今まで僕の腕の中で、あんなにも甘く喘いでいた、と?」


違う! あれはアレンの反応で、私じゃ……!

そう反論したかったのに、声が出ない。

レオニールはゆっくりと私に近づくと、その指先で、私の涙をそっと拭った。

……涙? いつの間に、私は泣いていたんだろう。


「ああ、アレン様。愛おしい、僕の殿下」

その声は、驚くほど優しく、慈しみに満ちていた。

「だからこそ、僕は貴方を愛しているのです」

「……え?」


「貴方が全てを知り、傷つきながらも、それでも僕を求めてしまうその『弱さ』こそ、この世で最も美しい」

「貴方を裏切り、絶望の淵に突き落とすことでしか、僕のこの歪んだ愛は証明できない」

「さあ、おいでなさい。これから始まる祝宴は、貴方の処刑台だ。僕は貴方の全てを奪い、貴方は僕に全てを奪われる。これ以上の愛の形が、この世にありましょうか?」


理解が、追いつかない。

愛している? 裏切ることが、愛の証明?

めちゃくちゃだ。そんなの、ただの独りよがりな支配欲じゃないか!


だけど。

レオニールの瞳は、嘘を言っていなかった。

そこにあるのは、純粋で、狂気に満ちた、あまりにもまっすぐな『愛』だった。


私のMPゲージが、猛烈な勢いで削られていく。

心が、悲鳴を上げている。

ダメだ、この人のロジックは、私の常識じゃ太刀打ちできない。

紫苑さんの呪い(ポイズン)は、私の想像を遥かに超えていた。


心が折れそうだ。

Kさん、助けて……!


そう願いながら、私は無意識に胸の鍵を強く、強く握りしめた。

その瞬間、鍵はひときわ眩いばかりの銀色の光を放ち、温かい魔力が私の全身に流れ込んでくる。

それは、Kさんの魔力!


『詩織!』

Kさんの声が、脳内に直接響く。

『しっかりしろ! 奴の言葉に惑わされるな! 絶望の定義は、一つじゃない!』


絶望の定義は、一つじゃない……?

どういう意味?


光に包まれながら、私は必死に思考を巡らせた。

紫苑さんの課題は、『最も美しい絶望』の瞬間に立ち会い、『真実の欠片』を見つけること。

普通に考えれば、『最も美しい絶望』とは、愛する者に裏切られ、全てを失う瞬間のことだろう。

でも、もし、それが罠だとしたら?

紫苑さんの言う『美しさ』は、もっと別の場所にあるとしたら?


レオニールにすべてを奪われるアレン。

それは、客観的に見れば、紛れもない『絶望』だ。

けれど――。


もし、アレンが。

この王子が。

その『絶望』すらも、受け入れたとしたら?

自分を裏切ったレオニールを、憎むのではなく、その歪んだ愛ごと、『赦し』てしまったとしたら?


そうだ。

この世界の空気は、ただ悲しいだけじゃない。

どこまでも退廃的で、甘美で、官能的だ。

それはまるで、『悲劇』そのものを、愛おしんでいるかのようじゃないか。


「……見つけた」


私の唇から、確信に満ちた言葉がこぼれ落ちた。

紫苑さんの言う、『最も美しい絶望』。

それは、敗北や喪失じゃない。

絶望的な運命を前にして、それでもなお、相手を愛し、『赦す』という選択をしてしまう、人間の愚かで、気高い、矛盾した魂の輝き! それこそが、この物語の『真実』!


私がその結論に達した、その瞬間だった。


ガラガラガラ……ッ!!!


世界が、音を立てて崩壊を始めた。

ガラスの宮殿に無数の亀裂が走り、天井から、床から、すべてが砕け散っていく。


レオニールも、祝宴に向かう人々も、すべてが光の粒子となって霧散していく。


私の意識がアレンの身体から引き剥がされ、何もない、純白の空間に投げ出された。

ゲームクリア……ってこと?


『――見事だ、詩織』


紫苑さんの声が、どこからともなく響き渡る。

私の目の前に、彼は再びその妖艶な姿を現した。


『まさか、これほど早く僕の『美学』の真髄に辿り着くとはね。大したものだよ、君はKの、最高の『騎士』だ』

「……あなたの勝ち誇った顔は、もう見飽きました」

「ふふ、手厳しいな」


紫苑さんは優雅に微笑むと、約束通り、私にヒントをくれた。

「君が信じる光の王子様、Kが隠している『嘘』……そのヒントをやろう。キーワードは、『最初の聖女』だ」

「さいしょの……せいじょ?」

「ネオページア創世の時に存在したと言われる、伝説の探訪者(トラベラー)さ。その聖女の身に何が起きたか、調べてみるといい。Kがなぜあれほどまでに『希望』の物語に固執するのか、そして『絶望』を恐れるのか……その理由が、分かるかもしれないよ」


そう言い残し、彼は身を翻す。

「待って! あなたの目的はなんなの! Kさんをどうしたいの!?」

私の叫びに、彼は足を止め、ゆっくりと振り返った。

そのアメジストの瞳には、初めて見る、凍てつくような寂しさと、狂おしいまでの執着の色が浮かんでいた。


「目的? 決まっているだろう」


それは、ゲームの時とはまるで違う、彼の魂の奥底からの声だった。


「僕は、ただ……もう一度、彼に会いたいだけだ」

「僕が愛した、あの頃の彼に」

「『希望』という名の偽りの光で心を塗り固める前の、共に『残酷な真実の美しさ』に魂を震わせた、本当のKにね」


彼の言葉が、重い楔となって私の胸に突き刺さる。

Kさんが、絶望の美しさに魂を震わせた……?

嘘だ。そんなはず、ない。

私の神様は、『希望』の光そのものなのに。


私の混乱を置き去りにして、紫苑さんの姿は闇に溶けるように消えていった。



気づけば私は、Kさんの神殿の、プライベートルームに戻っていた。

目の前には、血の気が引いた顔で、私の帰りを待っていたKさんが立っている。


「詩織……! 無事か……!」

彼は私の肩を掴み、その声は安堵で震えていた。

けれど、今の私は、彼の顔をまっすぐに見ることができなかった。


『最初の聖女』

『本当のKは、絶望の美しさに魅入られていた』


紫苑さんの残した、毒のような言葉が、頭から離れない。

私の知らない、Kさんの過去。

私の神様が隠している、本当の秘密。


「……Kさん」


私が知ってしまったのは、ゲームの答えだけではなかった。

この恋と戦いが、私が思うよりずっと、深く、暗く、そして悲しい場所へと繋がっているという、新たな『絶望』の予感だった。


これから私、本当に、どうなっちゃうのよ!?

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