「……絶対に、離れませんから」
彼の胸に顔をうずめ、私は固く誓った。
独占欲に濡れた甘い囁き。私を包む、骨張っているけど驚くほど優しい腕。耳元で響く、少しだけ早い彼の鼓動。背中に回された手の、ためらいがちな温もり。
Kさんの悲しみ、後悔、そして私への執着――その全てが、熱波のように流れ込んでくる。
無理だ。思考回路が完全に焼き切れた。
私の全細胞が幸福と羞恥と愛しさで飽和し、キャパシティという概念ごと宇宙の彼方へ吹き飛んでいく。
もう、何も考えられない。このまま彼の腕の中で溶けて、光の粒子になってしまってもいい。
そんな多幸感のピークで、私の意識はぷつり、とブラックアウトした。
◇
ふわり、と意識が浮上する。
最初に感じたのは、柔らかなブランケットの感触と、澄んだ空気の静かな流れ。次に、どこか落ち着く、古い紙とインクが混じった甘い香り。
……あれ? 私、Kさんに抱きしめられて……。
「ん……」
ゆっくりと目を開くと、そこは見慣れた自室の天井ではなかった。
高い天井、壁一面に積まれた無数の本、窓の外には現実と非現実が溶け合うホログラムの夜景が広がる。
――Kさんのプライベートルーム。彼のソファの上だ。
「はっ!?」
ガバッと体を起こす。
いつの間にソファに? ブランケットまでかかっている! しかも私、自分の部屋にログアウトしていない! ネオページアに、アバターのまま一晩……!?
混乱でショート寸前の頭で状況を整理しようとした、その時だった。
「……起きたか」
声のした方へ顔を向けると、そこには衝撃的な光景が広がっていた。
デスクチェアに深く身を沈め、こちらに片肘をついて見ていた、私の神様。
いつも完璧に整えられた月光の銀髪は、あちこちが無防備に跳ね、柔らかそうな寝癖が妙に色っぽい。漆黒のローブではなく、シンプルな黒のVネックシャツにゆるいパンツという、極めてプライベートな装い。少し開いた首元からは、昨日まで気づかなかった華奢な鎖骨のラインと、銀の鍵のネックレスが覗いていた。
そして何より、その瞳。
いつもの夜空を閉じ込めた深い藍色ではなく、寝起きのせいか少し潤んでとろんとしている。知性と神秘性がログアウトした代わりに、庇護欲を無限に掻き立てる子犬のような無垢さがログインしていた。
あまりの破壊力に、私の心臓が「ぎゅんっ!」と悲鳴を上げる。
ギャップ! ギャップ萌えという名の戦略兵器! なにこの生き物! 可愛すぎでは!?
「あ、あの、おはよう……ございます? 私、なんでここに……」
「僕が、君をリアルに帰さなかった」
「ええっ!?」
「強制ログアウトさせることはできた。でも、できなかったんだ。目が覚めたら君がいないかもしれないと思ったら、怖くて」
とんでもなく重いセリフを、彼は寝ぼけ眼のままぽつりと呟いた。
その無自覚な一撃に、私のHPは再びゼロになる。
ああもう! 昨日の今日で、そんな捨てられた子犬みたいな顔でそんなこと言うの、反則! 大大大反則! レッドカードで一発退場! 私の心の審判が荒れ狂っている!
「だ、だからって、ここに泊めるなんて……! 女子の扱いがなってません!」
「女子……」
Kさんは不思議そうに瞬きしたあと、ふっと悪戯っぽく笑った。その瞬間、いつものミステリアスな神様のオーラが戻ってくる。
「だってもう、君は僕のものだろう? 僕だけの騎士(ナイト)を、僕の領域(テリトリー)に置いておくことに、何か問題でも?」
「おおありです! 大問題です! いろいろと!」
そう、いろいろと! 私の心臓が持たないとか、男女が一つ屋根の下で夜を明かすのはコンプライアンス的にどうなんだとか、そういう世俗的な問題が山積みなんです!
私が一人でわたわたしていると、ふらりと立ち上がったKさんはキッチンカウンターの方へ向かい、戸棚から銀色のチューブを取り出すと、中身を直接、ちゅーっと吸い始めた。
……なに、それ。宇宙食? それとも魔力回復ポーション?
「Kさん、それ、朝食……ですか?」
「ああ。高純度魔力圧縮ゲル。味はないが、これ一本で半日は活動できる優れものだ」
「…………」
絶句した。
この人、こんな生活をしてるの? これほど美しいのに、食生活が絶望的に終わってる……! 恋愛以前に、生活習慣病が心配になるレベルだ。
私の視線に気づいたのか、Kさんは少しバツが悪そうに視線を逸らした。
「……昔から、食事という行為に時間を割くのが、どうも苦手でね」
その一言で、私の内なる何かが覚醒した。
27年間、日本の競争社会で培ってきたお節介スキルと母性本能、OLとして鍛え上げられたタスク管理能力とホスピタリティ。それらが融合して生まれた、新たなる力――『推しをダメ人間にしたくないし健康に生きてほしいと願うガチ勢の魂(ソウル)』!
私はソファから勢いよく立ち上がると、Kさんの前に仁王立ちした。
「Kさん! 私、決めました!」
「……なにを?」
「私がここにいる間……いえ、あなたの『専属探訪者』である限り! あなたの生活改善プログラムを、私が勝手に実行します!」
「せいかつかいぜん……ぷろぐらむ……?」
きょとんとする神様を前に、私は高らかに宣言する。
「まずは食事から! 栄養も彩りも皆無な生活なんて、物語を生み出す繊細な感性を鈍らせます! 私が、あなたの胃袋を、そして健康を、お守りします!」
「……詩織、君は僕の騎士であって、家政婦ではないんだが……」
「いいえ! 生活の安定は精神の安定に繋がり、精神の安定は創作意欲に繋がります! これは立派な『騎士』の任務です! 任せてください!」
我ながら無茶苦茶な理屈だとは思う。でも、もう止まれなかった。
この人を、この美しくて強くて、なのにどこか壊れそうで危うい人を、放っておけない。守りたい。公私混同? 上等だ。むしろ公私混同させてください!
「……ふっ、あははははっ!」
突然、Kさんが堪えきれないといったように笑い出した。今まで聞いたこともない、心からの朗らかな笑い声だった。
「はは、最高だ、君は……! まさかガーディアンの僕が、探訪者(トラベラー)に生活態度を説教される日が来るとは……!」
ひとしきり笑った後、彼は涙の浮かんだ瞳で優しく私を見つめる。
「……わかったよ、詩織。君の好きにしていい。僕の生活も、胃袋も……なんなら、心臓だって、君に預ける」
しんぞう。
Heart。
いま、とんでもなく殺傷能力の高い単語が、さらりと放たれた気がする。
微かに蕩けるような、甘い響きを伴って。
思考が停止した私の頬に、彼の指先がそっと触れた。
「だから……試してみるといい。君のその『プログラム』とやらをね」
――まんまと、乗せられた。
私の暴走気味の提案を、彼は一瞬で、甘くて危険な『恋人ごっこ』の領域に引きずり込んだのだ。
この神様は、どこまで私を翻弄すれば気が済むのだろう。
◇
こうして、私の奇妙な『半同棲生活』が始まった。
とはいえここは神聖領域、現実世界の食材があるわけではない。
「キッチンの『錬成魔法陣』を使えば、君のイメージしたものを具現化できる。ただし、術者の魔力を消費するが」とKさんに教えられ、私は恐る恐る魔法陣に手をかざした。
イメージしたのは、日本の朝食のド定番。
ふっくら炊き立ての白いごはん。豆腐とわかめが浮かぶ味噌汁。ふんわり甘い卵焼き。
するとどうだろう。魔法陣からまばゆい光が溢れ、MPゲージが少し減ると同時に、目の前に湯気の立つ理想的な和朝食セットが出現した。
「す、すごい! 世界創造魔法ってこんなことにも使えるんだ!」
「……これは……」
一方のKさんは、目の前の光景に目を丸くして固まっている。
「なんだ、この……彩りと……生命力に満ちた食べ物は……。特にこの黄金色の塊は、一体……」
「卵焼きです! 私の得意料理!」
おずおずと、フォーク(なぜか箸は錬成できなかった)で卵焼きを口に運ぶKさん。その夜空色の瞳が、驚きでさらに大きく見開かれた。
「…………おいしい」
ぽつりと、魂の底から漏れたような一言だった。
「……温かい。なんだろう、この……胸がじんわりする感覚は……。僕の世界にあった『色』とは、また違う……」
食べ始めると、彼は夢中で、無言で、一心不乱だった。
その姿を見ているだけで、私のMP(メンタルポイント)もHP(ハッピーポイント)も、全回復していくのを感じる。ああ、推しが私の作ったご飯を美味しそうに食べている。これ以上の幸せがこの世にあるだろうか。いや、ない。
「ごちそうさまでした」
綺麗に空になったお皿を前に、Kさんは深々と息をつく。その表情は、今まで見たことのないほど満足と安堵に満ちていた。
「……詩織。君は、とんでもない魔法使いだな」
「え?」
「僕の凍てついた心を、いともたやすく溶かしていく」
そう言って微笑む顔は、あまりにも優しく、甘い。
もうやめて! 私のライフはゼロよ!
顔を真っ赤にして俯く私に、彼は追い打ちをかけた。
「その『プログラム』、明日も頼む。君の錬成するものは、何でも食べるよ。……君が、僕のそばにいてくれるなら」
間接的、かつ最高にロマンチックなプロポーズですかそれは!?
もう心臓がもたない! Kさん、お願いだからその天然(あるいは計算)の口説きスキルを少しは自重してください!
◇
甘く穏やかな朝食の時間が終わり、私たちは本来の議題に向き合うことにした。
昨日中断された、紫苑との対決についてだ。
コーヒー(もちろん私が錬成した。Kさんは「苦いのに香りが良くて落ち着く」と気に入ってくれた)を飲みながら、私は決意を伝える。
「Kさん。私、紫苑さんのゲームに挑戦しようと思います」
途端に、穏やかだった空気が凍りついた。
Kさんの顔から、ふっと表情が消える。
「……駄目だ。絶対に許さない」
静かだが、鋼のように固い拒絶。
「彼の言う『ゲーム』は、遊びじゃない。彼の創り出す物語(ワールド)は、訪れた者の精神を汚染し、最も脆い部分を的確に破壊する『呪い』そのものだ。君を行かせるわけにはいかない」
「でも!」
私は食い下がる。
「このままじゃ何も解決しません! 姫宮麗子に狙われ、紫苑さんにも目をつけられて……。彼らが何を企んでいるのか、その力を知らないままでは、あなたの盾になることなんてできない! 私は、あなたを守るための力が欲しいんです!」
それは本心だった。
もう、ただ守られるだけのか弱いファン(わたし)ではない。
彼の騎士として隣に立つために、強くならなければ。
私の必死の訴えに、Kさんは深く、深く、目を閉じた。
その沈黙が、彼の葛藤の深さを物語る。
やがて彼はゆっくりと目を開き、おもむろに自らの胸元――銀の鍵のネックレスに手をかけた。
カチャリ、と小さな音がして、彼はそのネックレスを首から外す。
「……え?」
「これは『ガーディアンの鍵』。僕の失われた力と、紫苑の魔力を封じている楔だ」
彼はその鍵を、私の前にそっと差し出した。
「これを君に預ける。僕の命であり、心臓そのものだ」
「そ、そんな大事なもの、受け取れません!」
「受け取れ。僕を信じると言うのなら」
彼の瞳は、冗談を言っている色ではなかった。
夜空のように深い藍色が、まっすぐに私を射抜く。
その視線に抗えず、私は震える手で、冷たくて重い銀の鍵を受け取った。
「もし、紫苑の呪い(ポイズン)で君の心が折れそうになったら、この鍵を強く握るんだ。僕の魂の全てが、君を守る盾になる」
「Kさん……」
「ただし、条件がある」
彼の指が、鍵を持つ私の手にそっと重ねられた。ひんやりとした彼の指先と、私の体温が混じり合う。
「君の探訪者ステータスと、この鍵をリンクさせる。君のMPがゼロになるか、生命(アバター)に危険が及んだ瞬間、鍵が発動して君は強制的に僕の元へ転移させられる。……いいね?」
それは究極の過保護であり、最強の束縛だった。
まるで、私の命にGPSと緊急脱出装置を埋め込むようなものだ。
けれど、その重すぎるほどの気遣いが、愛しさが、私の心をどうしようもなく満たしていく。
「……わかりました。約束します」
私が頷くと、彼はほっとしたように息をつき、重ねた手にぎゅっと力を込めた。
「詩織。絶対に、無理はするな。そして、必ず、生きて僕の元へ帰ってこい」
「……はい」
「君がいない世界で、物語を紡ぐ意味など、僕にはないのだから」
それはもう、愛の告白と同じだった。
少なくとも、私にはそう聞こえた。
◇
決意を固めた私に、もはや迷いはない。
さらにKさんは、彼が持つ魔力の一部を込めたという『抗毒の護符(アンチドーテ・チャーム)』まで渡してくれた。常に彼の温もりを感じる、大切なお守りだ。
完全武装(物理的にも精神的にも)を終え、私は彼のプライベートルームにある転移魔法陣の前に立つ。
見送るKさんの顔は、心配と不安、そしてわずかな信頼の色が混じった、複雑な表情をしていた。
「……行ってきます」
「ああ。……待っている」
その言葉を胸に、私は光の中に身を投じた。
次に目を開いた時、私はあの妖しい『ブルーローズ宮殿』の前にいた。
背後でKさんが見守ってくれている。胸には彼の『心臓』である鍵が、確かな重みを持って輝いている。
もう、怖くはない。
「さて……」
宮殿の扉を見据え、私は深呼吸する。
「お手並み拝見といきましょうか、紫苑さん」
どこからともなく、チェロのように滑らかな声が空間に響いた。
『――待っていたよ、僕の可愛い小鳥ちゃん。その度胸、気に入った』
『さあ、ゲームを始めよう。君が信じる光の王子様(K)が隠した、残酷で美しい『真実』を……その身に刻みつけてあげよう』
ギィィ……ン。
重い扉が、再び、私を誘うように開かれる。
その向こうに広がるのは、甘美なる毒に満ちた、BLの神が創り出した試練の世界。
私の恋と戦いの第二幕が、今、本当に幕を開けた。
これから一体どうなっちゃうの!? なんて悠長なことを言っている場合じゃない。
私は、私のやり方で、私の神様(推し)を、守り抜いてみせる。
たとえ、その先にどんな残酷な『真実』が待っていたとしても。