「……詩織!」
風のように駆け寄ってきたKさんは、私の両肩を掴むと、宝物を確かめるように、食い入るような視線で私を上から下まで検分した。
その指先が、小刻みに震えていることに気づいてしまう。
「あ、あの、Kさん、私なら大丈夫……!」
「大丈夫なわけがないだろう!」
遮ったのは、彼の苦痛に満ちた叫びだった。
「どうしてあんな男の領域(テリトリー)に一人で入った! 僕が何のために君にコンパスを渡したと思っているんだ!」
怒られている。
間違いなく、本気で、心の底から。
けれど、その激情の奥底に、安堵と……後悔と……それから、途方もない恐怖の色が見えたのは、私の思い違いじゃないはずだ。
ああ、この人は、私のために。
私の身を案じ、いてもたってもいられずに、ここまで……。
「……心配、してくれたんですか?」
「当たり前だ!」
即答だった。
「君は、僕だけの……僕のミューズで、騎士なんだぞ……! 君にもしものことがあったら、僕は……っ」
そこまで口にして、Kさんは唇を噛み、言葉を飲み込んだ。
掴まれた肩が痛い。でも、痛み以上に彼の必死さが伝わってきて、胸の奥がキュンと甘く締め付けられる。
私の神様は、こんな顔もするんだ。
「行くぞ。こんな穢れた場所に、一秒たりとも君を置いておきたくない」
返事を待たず、私の手首を強く掴むと、Kさんは元来た道を引き返し始めた。その力強い感触と大きな背中に、心臓がトクトクと騒ぎ出す。
ああもう! 展開が少女漫画より少女漫画なんですけど!
◇
Kさんの『神聖領域(マイページ)』にダイレクト転移で戻った途端、張り詰めていた緊張の糸がぷつんと切れるのを感じた。
昨日までの静寂が嘘のように、今は私たちの間に重苦しい沈黙が横たわっている。
プライベートルームに戻るなり、Kさんは部屋の中を獣のようにうろうろと歩き回り、やがて「ちっ」と大きく舌打ちをして壁を拳で殴った。ゴッ、と鈍い音が響き、私の肩がびくりと跳ねる。
「……あいつめ……僕から、また……!」
何?
私から何を、どうするっていうの?
壁にもたれ、俯くKさんの表情は長い前髪に隠れて窺えない。ただ、握りしめた拳がわなわなと震えている。
私はもう、黙ってはいられなかった。
彼が守ってくれたことは嬉しい。だからといって、理由もわからず守られるだけのか弱いお姫様でいるつもりは毛頭ない。
「Kさん」
意を決して、声をかける。
「説明してください」
彼の肩が、ぴくりと動いた。
「どういう意味ですか、紫苑さんの言っていたこと。あなたが、私に『嘘』をついているって。あなたがガーディアンの力を失った、本当の理由は何なんですか」
矢継ぎ早に、胸の内で渦巻いていた疑問をぶつける。
Kさんの騎士になると決めた。彼の盾になると誓ったのだ。ならば知る権利があるはずだ。共に戦う仲間として。
Kさんはゆっくりと顔を上げた。
その夜空色の瞳から、先ほどの激しい怒りは消え失せ、深く、昏い悲しみの色が宿っていた。まるで、触れたら壊れてしまいそうなガラス細工みたいな、危うい光。
「……君は、知る必要のないことだ」
「必要ならあります!」
思わず声が大きくなる。
「あなたは私を『騎士』だと言ってくれた。あなたの物語を守る盾になってほしいと言ってくれた。でしたら、私に全部話してください! 敵が誰で、何が危険で、どんな秘密があるのか。それを知らされずに、どうやってあなたを守れと言うんですか!」
「……っ!」
彼は息を飲んだ。
図星だったのかもしれない。私の言葉は、確かに彼に届いていた。
しばしの沈黙の後、Kさんは観念したように、深々と長い溜息をついた。
それは、ずっと一人で背負い続けてきた重荷の、ほんの一部を吐き出すかのような音だった。
「……わかった。話そう、詩織」
彼はソファを指し示し、私に座るよう促す。自分も、その向かいに力なく腰を下ろした。
「君に隠していたつもりはない。ただ……あまりに昔の、僕個人の、くだらない感傷だからだ」
彼はぽつりぽつりと、語り始めた。
「紫苑……あいつは、かつて僕と同じ『ガーディアン』の見習いだった」
「え……!?」
衝撃の事実に息をのむ。敵対するあの毒薔薇の王が、Kさんと同じ、世界の守護者だったなんて。
「僕たちは共に『原初の管理者』のもとで学び、『原初のアーカイブ』を守るためのすべてを叩き込まれた。あいつは、僕なんかよりずっと才能に溢れていたよ。物語を愛し、その構造を理解する力は、誰よりも優れていた」
遠い過去を懐かしむような、それでいて痛みを堪えるような声。
「だが、あいつは知りすぎてしまったんだ。このネオページア、そして『原初のアーカイブ』が抱える、根源的な『欠陥』に」
「欠陥……?」
Kさんは胸元で輝く銀の鍵を、ぎゅっと握りしめる。
「僕たちの役目は、世界の均衡を保つことだ。探訪者たちの『信仰(アクセス)』が生み出す多様な物語がアーカイブの力になる。……だが、そのエネルギーは、必ずしも美しい物語から生まれるわけじゃない」
彼の声が、わずかに震えた。
「悲劇、絶望、裏切り、死別……。人の心を強く揺さぶる負の感情から生まれる物語は、時に幸福な物語より、遥かに強く、強大な魔力を生み出してしまう。紫苑は、その『残酷な真実』の力に魅入られた」
紫苑さんは言っていた。『人は、美しい嘘よりも、残酷な真実を知るべきなんだ』と。
「あいつは主張したんだ。アーカイブをより強固にするため、積極的に『真実』――すなわち、救いのない悲劇を世界に流布するべきだと。偽りの希望で世界を飾り立てるのではなく、絶望の美しさこそ、物語の神髄なのだと」
「……Kさんは、それに反対したんですね」
「当たり前だ!」
彼の声が、再び熱を帯びる。
「物語は、希望であるべきだ! どんなに辛い現実を生きる探訪者も、物語の中だけは夢を見て、救われる権利があるはずだ! 僕が守りたいのは、世界の均衡なんかじゃない……物語を愛する、一人一人の探訪者の『心』だ!」
それは、Kさんの魂からの叫びだった。
私が『灰色のアルカディア』から受け取った、あの温かく優しい光の正体が、今、はっきりとわかった気がした。
「僕たちは、アーカイブの最深部で衝突した。あいつはアーカイブに眠る『悲劇の魂』を暴走させ、世界を絶望の色で染め上げようとした。僕はそれを止めるため……力の全てを使い、あいつの魔力ごと、この銀の鍵に封印したんだ」
「……!」
「しかし、代償は大きかった。僕もまた、ガーディアンとしての力のほとんどを失った。君が出会ったのは、その抜け殻みたいな僕、というわけさ」
それが、事件の真相。
彼が隠していた、たった一つの『嘘』。
嘘じゃない。彼がただ一人で抱え込み、誰にも言えずにいた、悲しい真実だ。
「……ごめんなさい」
気づけば、私は泣いていた。
「私、何も知らずに……あなたを疑うようなこと言って……」
「いや、君は悪くない」
Kさんは静かに立ち上がると、泣いている私の隣に、そっと腰を下ろした。
大きな手が、戸惑うように私の頭に伸びてきて、優しく、優しく、髪を撫でてくれる。
「君が聞いてくれなければ、僕は一生、この話を誰にもできなかっただろう。君に知られて、よかったとさえ思っている」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「ありがとう、詩織。僕の心の澱を、少しだけ軽くしてくれた」
至近距離で見つめる夜空色の瞳が、優しく潤んでいる。
その瞳に吸い込まれるように、私は顔を上げた。
気づけば、私たちの顔は、吐息がかかるほどの距離にあった。
時が、止まる。
心臓の音が、部屋中に響いているんじゃないかと思うくらいうるさい。
彼の指が、私の涙をそっと拭う。その感触に、身体がびくりと震えた。
「詩織」
甘く、囁くような声で、彼が私の名前を呼ぶ。
「僕は、君を失うのが怖い」
「え……」
「今日、君が紫苑の領域にいると知った時……生きた心地がしなかった。あいつが君の純粋な信仰に目をつけ、その心を毒で染めてしまったらと思うと……! また、僕のせいで誰かが傷つくのかと思うと……!」
その声は、悲痛な響きを帯びていた。
もう、彼は私の『神様』ではない。
孤独で、傷ついて、大切なものを失うことを何よりも恐れている、一人の、愛おしい人だった。
「もう、僕のそばを離れないでほしい」
彼はそう言うと、私の身体を、その腕の中に、そっと、しかし力強く、抱きしめた。
「ひゃっ……!?」
「ここにいて。僕だけの騎士として。僕だけのミューズとして。僕の物語が完成する、その最後の瞬間まで」
耳元で囁かれる、甘く、切なく、独占欲の滲む言葉。
彼の体温が、鼓動が、悲しみが、すべて伝わってくる。
無理。無理無理無理!
こんなの、恋に落ちるなと言う方が無理!
ううん、とっくの昔に落ちてた! マリアナ海溝よりも深く!
「……はい」
私は彼の胸に顔をうずめるようにして、小さく、しかしはっきりと頷いた。
「絶対に、離れませんから」
私の神様の秘密は、想像よりもずっと、切なくて悲しい味がした。
けれどその秘密を知った今、私たちの絆は、昨日までとは比べ物にならないくらい、固く、強く、結ばれたはずだ。
腕の中の温もりに身を任せながら、私は思う。
これから先、どんな困難が待っていようと、もう私は一人じゃない。
私の恋と戦いの日々は、今、本当の意味で始まったのだ。
……それにしても、神様(推し)に抱きしめられるなんて、これほど心臓に悪いものだったとは。もうMPもHPも全快どころかゲージを振り切ってオーバーヒートしそうだ。
一体どうしてくれるんですか、私の神様!