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第5話_私の敵は、甘美なる毒の薔薇

「……マジかよ。よりにもよって『紫苑』に目をつけられたのか、嬢ちゃん。ありゃあ姫宮麗子とは質の違う、本物の『毒薔薇』だぜ……」


情報屋の男の焦った声が、遠い世界の出来事のように響く。

私の全神経は、ただ一点に集中していた。

けたたましい警告音を放つ胸元の銀のコンパス。その針が狂ったように指し示す先――裏路地の最も奥で、妖しい紫色のネオンを明滅させる巨大な神殿、『ブルーローズ宮殿』。


ギィィ……ン。


古びた鉄が軋むような、背筋を凍らせる音が響く。

重厚な宮殿の扉が、まるで「おいで」と手招きでもするように、ひとりでにゆっくりと開かれていく。闇の奥から、甘く、それでいて死の香りを帯びた濃厚な薔薇の香りがふわりと流れ出てきた。


ごくりと、喉が鳴る。

これはKさん、私の神様(おし)が託してくれた、騎士(ナイト)としての初任務。

もはや、逃げるという選択肢はどこにもなかった。


「……行きます」


情報屋の制止を振り切り、私は覚悟を決めて一歩を踏み出した。

私を待ち受ける、美しくも残酷な『BL』ジャンルの王。その毒がどれほどのものか、この身で確かめてやろうじゃないか。

神様にミューズだの騎士だの言われてすっかりその気になっている私は、たぶん、少しだけどうかしていた。



宮殿の中に足を踏み入れた瞬間、世界は音と光、そして香りに塗り替えられた。


「……うわぁ……」


そこは、私の貧相な想像力を遥かに凌駕する、耽美と退廃の王国が広がっていた。

外観からは想像もつかないほど高い天井には、巨大なステンドグラスが嵌め込まれている。描かれているのは、茨に絡めとられながらも互いを求める、麗しい青年たちの神話の一場面。ステンドグラスを透過した紫の光が、床の大理石に幻想的な模様を投げかけていた。


壁には目を合わせるのもためらわれるほど官能的な彫刻が並び、荘厳なパイプオルガンの音色が魂を直接揺さぶるように低く響き渡る。

空中に漂う甘い香りは薔薇だけではない。蠱惑的なムスクや心を蕩かす白檀の香りが複雑に混じり合い、正常な思考力を奪っていく。意識をしっかり保っていなければ、この場の空気に魂ごと喰われそうだ。


「なんという……解像度の高い『世界創造魔法(カスタマイズ)』……!」


姫宮麗子の神殿がアイドルのコンサート会場のような「陽」のキラキラ空間だとしたら、ここは美術館と教会と秘密の会員制サロンを混ぜ合わせた「陰」のゴージャス空間。訪れる者の精神を支配するという、明確な意図が込められている。


キィ……ン。


背後で扉がひとりでに閉まり、完全に退路が断たれた。

覚悟はしていたものの、さすがに心臓に悪い。

私がびくついていると、宮殿の奥から靴音一つ立てずに、すらりとした人影が歩み寄ってきた。


「――ようこそ、迷える子羊」


響いたのは、チェロの低音のように深く、ビロードのように滑らかな声。

その主が光の中に姿を現した瞬間、私は呼吸を忘れた。


Kさんが『静』の美しさを持つ光の王子様だとしたら、彼は『動』の魅力を持つ闇の皇帝だ。


艶やかな長い黒髪は一本の組紐でゆるくまとめられ、背中まで流れている。肌はKさんと同じく人間離れした白さだが、その目元には泣いた後のようにうっすらと赤いシャドウが差してあった。切れ長で挑発的な瞳の色は、高貴なアメジスト。身にまとうのは、上質な黒絹で仕立てられた着物のような豪奢なローブ。襟元や袖口には金糸で精緻な薔薇の刺繍が施され、歩くたびに微かな衣擦れの音を立てる。

アンニュイな色気と、見る者を試すような知的な光。その全てを覆い隠すのは、底知れないミステリアスなオーラ。

彼こそが、『BL』ジャンルに君臨する創造主――『紫苑』。


「……あなたが、紫苑、さん?」

「おや、僕を知っているのかい? 光栄だな」


紫苑さんは私の目の前で歩みを止めると、陶器のような細い指先で、胸元に輝くコンパスをつんと軽く突いた。


「『ガーディアン』の古い玩具……。まさか、あの引きこもり王子が新しい『小鳥ちゃん』を飼い始めたなんてね。驚いたよ」


「ことりちゃん!?」


なんですかその呼び方は! Kさんは私の主(あるじ)だけどペットじゃない!……いや、飼われているのか? ある意味……?

紫苑さんの言葉は丁寧なのに、どこか人を食ったような響きがある。私のことなどお見通しだと言わんばかりに。


「警戒しなくていい。君をいきなり喰ったりはしないさ。僕は美しいものを味わう時は、じっくりと時間をかける主義なんだ」


アメジストの瞳が、私を頭のてっぺんからつま先まで、品定めするようにねっとりと舐め上げる。

ひぃっ……!

視線だけでMPが削られる! この人、間違いなく危険な存在だ!


私が硬直していると、紫苑さんは「ふふっ」と妖しく微笑み、パチンと指を鳴らした。


途端、私の身体の周りに無数のきらめく『糸』が出現する。


「な、なにこれ!?」


細く、儚く、それでいて確かに存在する光の糸。赤、青、緑、白……様々な色の糸が、宮殿の中を飛び交う他の探訪者や壁の彫刻、果ては遠いセントラル・ハブの方角まで、複雑に絡み合いながら伸びていた。

これは……『BL』の神髄、『関係性の赤い糸』の可視化!?


「面白い。君からは、二本の特別な糸が伸びているね」


紫苑さんの視線を追って、自分から伸びる糸を見る。

一本は宮殿の中、紫苑さん自身へと伸びる、警戒を示すチリチリとした黒い糸。

もう一本は――。


Kさんの神殿がある方角へ向かって、驚くほど力強く、美しい黄金色の糸がまっすぐに伸びていた。


「Kさんとの……絆……」

「へぇ。まだ出会って間もないのに、随分と純粋で強い『信仰』の糸だ。普通の読者と作者なら、せいぜい淡い白の糸がいいところなのにね」


紫苑さんはその黄金の糸を、本物の弦をつま弾くかのように、指先でピンと弾いた。


ビィンッ!!


「――きゃっ!」


身体に直接衝撃が走る。心臓を鷲掴みにされたような、甘い痺れが駆け巡った。


「な、何するんですか!」

「ただの挨拶だよ。……ふむ。Kとの『契約』によって、君の魂は彼の『神聖領域』と深くリンクしているらしい。この糸を断ち切れば、あの男はさぞ傷つくだろうね」


その瞳に、一瞬、ゾッとするほど冷たい光が宿る。

この人は本気で、Kさんを傷つけようと思えばいつでもできる。

私は恐怖を振り払うように、紫苑さんをキッと睨みつけた。


「Kさんには、指一本触れさせません!」


勢い込んで宣言したものの、私にできることなど何もない。

それでも、これは私の意地だった。Kさんの騎士(ナイト)になると決めたのだから。


私の虚勢を、紫苑さんは心の底から面白くてたまらないといった風情で眺めている。

「いいね。その健気さ、その無垢な瞳……。穢して、絶望の色に染めてしまいたくなる」


こ、この人、やっぱりドSだーーーっ!!



【K's side】


漆黒の神殿、その最奥にあるプライベートルーム。

俺はデスクに置かれた水晶玉を、苦々しい思いで見つめていた。

水晶玉には、俺が詩織に渡したコンパスと連動し、彼女の現在地が示されている。光点は今、ネオページアで最も厄介な場所の一つ――『ブルーローズ宮殿』の奥深くで静かに輝いていた。


「……よりにもよって、紫苑のところとはな」


思わず舌打ちが漏れる。

姫宮麗子は、欲望に忠実で分かりやすい『嵐』だ。対して紫苑は違う。奴は静かで、深く、人を惑わす『沼』。一度捕らわれれば、精神の奥底までゆっくりと沈められていく。


デスクに積まれた本の山から、一冊の古いアルバムを抜き取った。

ページをめくると、そこに写っているのは、今よりずっと幼い頃の俺と、隣で屈託なく笑う黒髪の少年――昔の紫苑の姿だった。


俺たちはかつて同じ場所で育った。

『ガーディアン』の見習いとして、『原初のアーカイブ』を守るための教育を共に受けていたのだ。

けれど、奴は違った。才能に溢れ、誰よりも『物語』を愛していたが故に、一つの禁断の真実に辿り着いてしまった。


『K、この世界は偽りだらけだ』

『人は、美しい嘘よりも、残酷な真実を知るべきなんだ』


そう言って俺たちの前から姿を消した紫苑は、やがて創造主としてこのネオページアに現れた。彼の紡ぐ物語は常に『真実』という名の毒を孕み、登場人物たちの幸福な関係性を無慈悲に破壊していく。その美しくも残酷な作風は皮肉にも多くの探訪者を魅了し、奴は瞬く間にトップランカーへと上り詰めた。


「詩織……」


水晶玉の中で輝く、彼女の魂の光。

あいつは紫苑の毒に耐えられるだろうか。奴は彼女の純粋な信仰を利用し、俺が隠す『真実』を暴こうとするに違いない。


今すぐ駆けつけ、彼女をこの腕の中に連れ戻したい衝動に駆られる。けれど……駄目だ。

これは、彼女が乗り越えなければならない試練。

彼女が真に俺の『騎士』となるために。そして、俺自身が彼女の『祈り』に頼るだけでなく、彼女の隣に立つ資格を得るために。


俺はアルバムを閉じ、固く目を閉じた。

頼む、詩織。

あいつの言葉に、惑わされるな。



【Shiroi's side】


「君は、あの男に騙されている」


時が止まった。

紫苑さんから放たれた言葉は、静かな刃のように私の心を貫いた。


「……え?」

「聞こえなかったかい? 君が信じる光の王子様は、君に嘘をついている、と言ったんだよ」


騙されている? 私が? Kさんに?


「そんな……! Kさんは私に全部話してくれました! 自分がガーディアンであることも、世界の危機も、『灰色のアルカディア』がそのための楔だってことも!」


混乱する頭で必死に反論する。

しかし、紫苑さんは悠然と首を横に振った。


「ああ、そのあたりは概ね真実だろうね。彼は馬鹿正直なところがあるから。彼が君に話していないのは、たった一つ……致命的な『嘘』だ。彼が『ガーディアン』の力を失った、本当の理由だよ」


力を失った、本当の理由……?

ある事件がきっかけだと彼は言っていた。でも、その事件が何なのかは……聞いていない。


「そ、そんなの……あなたのでっち上げです! 私を動揺させるための罠に決まってます!」

「罠、か。それもいいだろう」


紫苑さんは心底楽しそうにアメジストの瞳を細める。

その視線が怖い。信じたくないのに、心のどこかで彼の言葉に真実味を感じてしまう自分がいる。


「……僕はね、詩織。真実を愛しているんだ。たとえそれがどれだけ残酷で、人を傷つけるとしても、偽りの幸福よりずっと美しいと信じている」


彼は一歩、私に近づく。甘い香りの濃度が増した。


「君のその純粋な瞳、気に入ったよ。だから、機会をあげよう。僕とゲームをしないかい?」

「ゲーム……?」

「そう。僕の最新の物語(ワールド)――『茨の王座』の中にある、たった一つの『真実の欠片』を見つけ出してごらん。もし君がそれを見つけ出せたら、褒美としてKの『嘘』に関する決定的なヒントを一つ、君に教えてあげる」

「……もし、失敗したら?」


恐る恐る尋ねると、紫苑さんは私の顎にそっと指を添え、顔を覗き込んできた。

ひゃっ……!? 顔が近い! 美しい顔がドアップに!


「失敗したら……その時は君のその美味しそうな『信仰』……Kへと伸びる黄金の糸から、ほんの少しだけエネルギーを味見させてもらうよ。ほんの少し、魂がとろけるくらいにね」


それは実質的な『魂の略奪』宣言だ。

失敗すればKさんとの絆が汚され、弱まってしまう。最悪の場合、彼の魔力が減り、物語が書けなくなるかもしれない。

ハイリスクすぎる!


「……どうするんだい、僕の可愛い小鳥ちゃん。このゲームに乗るも乗らないも君の自由だ。もちろん、ここで背を向けて逃げ帰っても構わない。その時は……そうだな、君とKが紡ぐか細い糸を、僕の気まぐれでぷっつりと断ち切ってしまおうかな」


断れば、敵対確定。受ければ、未知の危険なギャンブル。

どちらにせよ、私の選択肢はもう……。


どうしよう、どうしたらいいの!? Kさん……!


私が答えに窮し、唇を噛み締めた、その瞬間だった。


バァァァァァン!!!


宮殿の重厚な扉が、凄まじい勢いで弾け飛んだ。

何事かと振り返った私の目に飛び込んできたのは、漆黒のローブを翻し、夜空色の瞳に烈火の如き怒りを宿らせて立つ、私の神様の姿だった。


「――詩織ッ!!」


地を這うような低い声で、彼は私の名前を叫んだ。


「その男の誘いに、乗るなッ!!!」


Kさん!? どうしてここに!? まさか、心配して来てくれたの!?


怒りに燃えるKさんと、「おや、主人がお迎えに来たようだね」と面白そうに微笑む紫苑さん。二人の強大な創造主の間に挟まれて、私は完全にフリーズする。


「残念だな、もう少し君と遊びたかったのに」


紫苑さんは私の顎から指を離すと、囁いた。

「ゲームはまた今度にお預けだ。でも、覚えておくといい、詩織。君が信じる光は、時に何よりも深い影を落とすものだよ」


そう言い残し、彼はふっと霧のように姿を消した。


「……詩織!」


残された私に、Kさんが駆け寄ってくる。

彼は私の両肩を掴むと、怪我はないか、何をされたか、その瞳で必死に訴えかけてきた。彼の指先が小刻みに震えている。


ああ、この人は私を心配して、無茶をしてまでここまで来てくれたんだ。

その事実に胸が熱くなるのと同時に、紫苑さんが残した『嘘』という言葉の棘が、ちくりと心を刺した。


「Kさん……」


私の平穏なオタ活は、もう二度と戻らない。

神様(推し)を巡る危険で甘い秘密の任務は、新たな強敵、そして神様の隠された『秘密』という、とんでもない嵐の予感を孕んで第二幕の幕を開けようとしていた。


これから私、一体どうなっちゃうのよ!?!?

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