心労はピークに達していた俺は、息も絶え絶えにクラスのテントに戻ろうとしてきたところに、イチカが駆け寄ってきた。その顔は、明らかに不機嫌だ。
「ちょっとリツ! なによ、さっきのアレ!」
「い、いや、俺にも何が何だか……」
「あんた、いつも必死にエリーちゃんのこと、フォローしてたじゃない! 授業中でもなんでも! カリフォルニアで特別なカリキュラム? バカ言わないでよ、あんなの普通の人間ができるわけないじゃない! あんた、絶対何か知ってるでしょ!」
「そ、それは……!」
どう説明しろというのだ、あいつは宇宙からやって来たスライム状のエイリアンです、とでも?
「イチカ、落ち着け。天上院は、その、運動神経が異常に発達してるだけなんだよ。たぶん」
「たぶんって何よ! あの網くぐりは何!? 骨、あるの!? 麻袋であんなに飛べる人間、いるわけないじゃない! 変でしょ!」
「それは……確かに」
うん、ごもっともです。イチカ、お前の感性はとても正しい。
「あー、でも。だからって、変とか異常とか、そういうこと言うの良くないんじゃないか?」
「……っ! なによ、あんたがそんなにエリーちゃんのこと庇うなんて。女の子にそんな態度取るなんて!」
「いや、こういうの女の子だからとか関係ないっていうか」
「言い訳は良い! やっぱり、何か特別な関係なんでしょ! そうやってコソコソして……せめて、正直に話してよ!」
イチカがヒートアップしていると、当のエリー・アンがひょっこり現れた。手には、なぜか万歩計のようなものを持っている。
「リツ。先ほどの競技ですが、なぜか思ったよりも反響が大きく、地球人の身体能力の限界値設定には、まだ再考の余地がありそうですわね。一応、映像サンプルを参考にしたのですが……」
「あんたねぇ!!」
火に油を注ぐとはこのことだ。イチカの怒りはマックスに達したように見えた。
「ちょっと、リツから離れなさいよ! なんであんたは、いつもリツのそばにいるのよ!」
「イチカ。それはリツがわたくしの協力者だからですわ」
「なら、協力者ってのは、なに! なんなの!」
「残念ですが、わたくし、その質問には答えられませんの」
「あー、もうっ! あたしのことバカにしてっ!」
イチカはわなわなと震えている。俺はなんとか落ち着かせようと間に割って入った。
「お、おい、ちょっと待て! イチカ、エリーも悪気があって言ってるわけじゃ…」
「うるさいっ、リツは黙ってて!」
イチカはついに溜まっていたものが爆発したかのように叫んだ。
「もう、あんたのことなんか、どうでもいいんだから! リツがどうなろうと、あたしには関係ないっ! そんなに言えないことだらけなら、あたしはっ!」
頬を真っ赤に染め、目にはうっすら涙すら浮かべている。あ、これ泣く寸前のやつだ。
――ピコン、と突然の効果音。
エリー・アンは、イチカの言葉を聞くと、スッとイチカに顔を近づけた。
「……は?」
いつもの涼やかな表情とは違う、真剣なエリー・アンの
「きゃっ!? な、何よ、近い!」
「論理的矛盾……。現在、貴女の発言内容と生体反応、脈拍、体温、瞳孔、脳内物質の分泌量増加を推測。イチカさんは嘘をついていますわ」
「はあっ!? ウソですって?」
「はい、イチカさん、先ほどのあなたの発言、『あんたのことなんか、別にどうでもいい』についてですが」
「な、なによ……!?」
イチカは狼狽し、後ずさろうとするが、エリー・アンはさらに一歩詰め寄る。その距離、ほぼゼロ。
「貴女の普段の生体反応との比較、現在の状態、そして発言内容。重大な矛盾が観測されます。エラー。具体的には、脈拍数の著しい上昇、体表面温度の上昇、特に顔面毛細血管の拡張による紅潮、発汗、視線の動揺、及び発声のトーンの乱れを確認」
イチカの怒りは、既に困惑に変わっている。
「これらのデータから、イチカさんは『佐倉リツ』に対して、強い関心、もしくは何らかの高揚した感情を抱いていることを示唆していますわ」
「ふぇっ!? な、な、な、何言って……!」
「強い親愛の情。これは情報伝達プロトコルにおけるバグであるか、高度な欺瞞工作であると判断できますわ。なぜ? なぜ、嘘を吐くのです?」
「う、う、う、うしょなんか、ついてないもんっ!」
イチカの顔が、さらにボンッ!と音を立てそうなほど真っ赤になる。
「いいえ、イチカさんは嘘をついていますわ。そして、確信いたしましたが、自覚がありますのね。なぜ? どうして、大切なのに『どうでもいい』なんておっしゃるのですか? 教えてくださいまし」
エリー・アンは、超絶真顔で、早口でまくし立てる。手には、いつの間にか小さなメモ帳とペンが握られていた。研究者モード全開だ。どこから出したんだよ、お前、今体操服だろうが!
「具体的には、詳細なヒアリング及び、各種測定のご協力に」
「それ以上は、やめろぉおお!!」
俺は、エリー・アンの口を手で塞いだ。ひんやりとして、ぷにぷにした、奇妙な感触がした。
「うがっ!? 何をしますの、リツ。データ収集中ですわ!」
「天上院っ! だ、黙れ! 人間にはな、その、建前と本音とか、言葉のあやとか、複雑な心理があるんだよ! お前の星の常識で全部分析しようとするな!」
「複雑……? ですが、これは明白な論理的破綻では?」
「いいから、空気を読め!」
「
「なんで突然、言葉が不自由になるんだよっ!」
イチカは、口をパクパクさせながら真っ赤な顔で、俺とエリー・アンを交互に見ている。
「あ……あ……あんたたち、そんなくっつき合って! やっぱり変よ、ヘン! リツのバカ! エリーちゃんのバカーッ!」
ついにイチカは限界を超えたのか、叫びを上げると、どこかへ走り去ってしまった。最後には泣いているか、怒っているのか、よくわからない顔になっていた。
「あ、イチカっ!」
「逃走しましたわね、データ収集失敗です。残念」
「言っとる場合かっ!」
思わず、追いかけようとする俺。その腕を、エリー・アンがそっと掴んだ。
「リツ、深追いは無用です。現段階では、イチカさんの情緒は著しく不安定。これ以上の刺激は、貴重なサンプルを破損させる可能性がありますわ」
「お前のせいだろうがぁーーーーーっ!!」
俺の絶叫は、体育祭の喧騒の中に虚しく響き渡った。
頼むから、もう俺の胃を休ませてくれ……。