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第10話 エリー・アンの黄昏

 最丈会長との(一方的な)ディベートバトル以来、藍生川さんは時折エリー・アンの元を訪れては、熱心に何やら話し込んでいる。

大抵の場合、常人には理解不能な高度な議論が交わされているようで、俺はそっと距離を置くようにしていた。関わると胃が痛む。間違いなく。


 俺の胃は、依然として定期的に悲鳴を上げ続けていた。

 エリー・アンの地球文化への過剰な適応(あるいは誤解)は、とどまることを知らない。

 それでも、だ。

 あれだけハチャメチャな日常に振り回されていながら、俺は、どこかその騒がしさに慣れ始めてしまっている自分に気づいていた。


「リツ、先日サイジョウ・ヤスホ個体より指摘された『迷惑行為』についてですが、あれは日本国における『暗黙の領域』に抵触した結果であり、わたくしの情報収集活動に悪意は存在しなかったと明確に申し上げますわ」

「うん、まあ、お前に悪気がないのは知ってるよ。でも、木の枝をへし折って蜜を吸ったり、池の水を大量に採取して理科室で分析始めたりするのは、さすがに普通じゃないからな? この間も、アレだ。状況を理解した時の先生の顔、見たか?」

「ええ、非常に興味深い表情筋の動きを観測できましたわ。あの苦悶に満ちた感情表出は、サンプルとして貴重です」

「そういうとこだぞ、天上院」


 俺たちのやり取りも、すっかりこんな感じだ。ツッコミが追いつかない。

 朝、律儀に俺を待ち伏せして(本人は偶然を装っているつもりらしい)一緒に登校するエリー・アン。

 昼休み、奇妙な食レポを展開しながらも、イチカや拓郎とコミュニケーションを取ろうとする姿。放課後、突拍子もない質問で俺を困らせながら、街のいろんな場所で過ごす生活。

 そのどれもが、もはや俺の日常の一部と化していた。


「……俺の日常とは、一体なんだったのか。こんなの全然完璧じゃないのに」


 自室で一人、溜息をつく。かつて俺が至上としていた、寸分の狂いもないスケジュールは、遠い過去のようだ。

 ただ、そのせいで勉強が滞っているのかと言えば、必ずしもそうではなく。

 エリー・アンの苦手な科目や物事を説明しようとしたり、逆に得意な分野について尋ねたり。藍生川さんや会長とも気軽に話せるようになって、自分よりレベルの高い人からも学びを得たり。

 かえって、今までにはない形での勉強の仕方が出来ている気もした。


「まあ、成績に反映される気はあまりしないけどな……」


 そんなある日の放課後。

 珍しく、エリー・アンが特に騒ぎも起こさず、教室の窓からぼんやりと夕焼け空を眺めていた。

 その姿は、どこか儚げで、いつもの超然とした雰囲気とは違って見えた。

 茜色の色彩が、彼女のベージュの髪と、白い肌を淡く染めている。


「……天上院?」


 声をかけると、エリー・アンはゆっくりとこちらを振り返った。琥珀瞳アンバーアイが、夕日を映してキラキラと輝いている。


「あら、リツ。まだ残っていらっしゃいましたの」

「ああ、生徒会の仕事がちょっと長引いてな。お前こそ、今日はやけに静かじゃないか。何かあったのか?」


 俺の言葉に、エリー・アンは小さく首を振った。


「いえ、特には。ただ……あの赤い光。地球では『夕焼け』と呼称される現象ですわね。わたくしの故郷では、大気の組成が異なるため、あのようなグラデーションは見られませんの」

「……お前の故郷」


 普段、彼女の口からその単語が出ることはほとんどない。触れてはいけない話題なのかもしれないと、俺も意識的に避けていた。


「ええ。わたくしの故郷……ここでは『X-Factor-Zeroエックスファクターゼロ』とでも呼称しておきましょうか。機密事項なので、正式名称はお教えできませんが」

「なんだか物騒なコードネームだな……惑星ゼロくらいにしとけ」


 エリー・アンは、「ふふ」と小さく笑った。いつもよりずっと自然で、人間らしい表情に見えた。


「わたくしたちの種族は、感情表現というものが非常に希薄ですの。進化の過程で失われたか、あるいはそう造られなかったか」

「造る?」

「ふふ、コミュニケーションは、論理的な情報交換によって行われます。喜び、悲しみ、怒り……そういった地球人が持つ豊かな感情、原始的なものも含めて。わたくしたちにとっては非常に興味深い研究対象であり、同時に……理解が難しいものでもありますの」

「……だから、イチカとか会長の機微が理解できなかったのか」

「ええ。特にイチカさんの感情の起伏と発言の矛盾は、なにもメリットがなくて……あまりに非合理的で。いまだに解析エラーを引き起こしますわ。ですが、イチカさんの作る卵焼きは、非常に複雑な刺激が……ええ、きっと美味なのでしょう」


 真顔で言うエリー・アンに、俺は思わず苦笑する。


「お前、結局イチカの料理が好きなだけじゃないのか?」

「それも重要なファクターですわ。食文化は、その星の文明レベルや特徴を測る重要な指標ですから。……そして、地球は未開ながらも、実に多様で、非合理的で、魅力的な食文化を有していますわね」


 そう言うと、エリー・アンは再び窓の外に視線を移した。

 彼女の横顔を見ていると、いつもと違う、何か柔らかい雰囲気を感じる。


「なぜ、地球に来たんだ? やっぱり、調査とか、そういう目的なのか? それとも侵略、とか」


 聞くべきではないかもしれない。でも、今なら、彼女の心に触れられるような気がした。

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