エリー・アンはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「侵略……地球を、ですか? 地球から得られる資源程度ならば、銀河レベルの活動が可能になった時点で、あまり意味がないことですの。そういう意味では、特別ではないのです」
「じゃ、どういう意味でなら意味が……えっと、価値があるんだよ」
「生物の多様性は、貴方たちが思ってる以上に重要なのですわ。それとソフトウェア的要素ですわね、生きた情報」
「生きた、情報?」
「言葉とか文化、種の営みの形、生態系というものです。だから、目的の一つは、そうですわね。『地球文明の観察及び情報収集』。特に感情豊かな。それが、わたくしに課せられた主要なミッションですわ」
「それで、あんな奇行を繰り返してたのか。人間の感情を理解しようとして、反応を引き出すために?」
「まあ、それもありますが。単純に言語や文化の翻訳が不完全で、不慣れなのもありますわね。わたくしも手探りですの」
手探り。本当に何も慣れてないなかで、頑張ってる。
決まり切ったルーチンや計画の範囲内で、勉強して来た俺とは全然違う。学ぶために未知の世界に飛び込むなんて、俺に出来るだろうか?
「……ちょっとは似てると思ってた時もあったんだけどな」
「はい? どういうことでしょう?」
「なんでもねえよ。はあ。しかしね、ミッション……わからないな。俺たちなんて、きっとちっぽけな存在じゃないか。そんなに重要か?」
「この宇宙にちっぽけでない種や個体なんて、早々おりませんのよ」
くすくすと笑うエリー・アン。これが作られた振る舞いなのはわかっているが、俺はどうにも感情移入してしまった。
今さら、情が沸いていることを否定できるはずもない。
「ですが、もう一つ……個人的な理由も、なくはありませんの」
「個人的な理由?」
俺が聞き返すと、エリー・アンは照れたように視線を逸らした。その仕草は、どこにでもいる普通の女の子のように見えて、俺の心臓が不意に小さく跳ねた。
「それは、まだ、秘密ですわ」
そう言って、悪戯っぽく微笑む。
その笑顔は、いつもの飄々としたそれとは違い、どこかあどけなさを感じさせた。
「なんだよ、それ。気になるじゃないか」
「うふふ。いずれ、お話しできる時が来るかもしれませんわね。リツが、もっとわたくしのことを『理解』してくれるようになったら」
エリー・アンの言葉に、俺は何も言えなくなる。
エイリアンと人間。住む世界も、何もかもが違う。それでも、俺はもっと彼女のことを知りたいと思ってしまっている。
夕焼けが教室を濃いオレンジ色に染めていく。二人の間に、心地よい沈黙が流れた。
俺は、エリー・アンの隣にいるこの時間が、不思議と悪くないと思っている自分に気づいた。
ふと、彼女が俺の服の袖を、ほんの少しだけ、指先でつまんだ。
本当に、ごく僅かな力で。
「リツ」
「……なんだ?」
「地球の『友達』とは、どのような関係性を指すのでございましょうか」
「え?」
「拓郎やイチカ、そして貴方のような……」
エリー・アンの琥珀色の瞳が、じっと俺を見つめている。そこには、いつもの論理的な探求心とは違う、何か純粋な問いかけが込められているように感じた。
「それは……難しい質問だな。一緒にいて楽しいとか、困った時に助け合えるとか、かな」
「楽しい……助け合える……。相互協力の契約関係でしょうか?」
「わかってるだろ。メリットとか契約とか、そんなんじゃないんだ」
「家族、血縁でもないのに?」
「ああ、そうだ」
「助けた分だけ、助けてもらえる保証もないのに?」
「関係ないさ」
「ふふ、論理的な定義が難しそうですね。……本当に興味深い概念ですわね」
エリー・アンは、指先で俺の袖を弄びながら、何かを考えているようだった。
その姿は、どこか心細そうにも見えて、俺は無意識のうちに、彼女の頭にそっと手を伸ばそうとしていた。
――その時だった。
「おーい、まだ残ってたのか、お前ら」
教室のドアがガラリと開き、ひょっこりと顔を出したのは、担任の江西岳先生だった。
いつもの眠そうな目に、気怠げな雰囲気。Yシャツの襟元はだらしなく開いている。
「あ、江西先生……」
「ったく、こんな時間まで何やってんだか。青春ごっこもいいけど、戸締りくらいはちゃんとしろよー」
言いながら、江西先生は教室に入ってくる。その目は、明らかに俺とエリー・アンの間の微妙な雰囲気を察しているようだった。
「いえ、あの、ちょっと話し込んでいただけです」
「へえー、話し込みねえ。随分と熱心なことで」
江西先生は、ニヤニヤとした笑みを浮かべ、エリー・アンに視線を送る。
「天上院さんも、すっかり日本の学校に馴染んだみたいだな。佐倉がちゃんと世話してるおかげか?」
「ええ、リツには、いつも助けていただいておりますわ」
エリー・アンがそう答えると、江西先生は「ほう」と意味ありげな声を漏らした。
「若いってのは、いいもんだねえ。お互い、秘密の一つや二つ、抱えてるもんだろ?」
何気ない言葉が、明らかに俺たちの核心を突いていた。
冷や汗が背中を伝う。まさかこの先生、どこまで知って……?
「さ、暗くなる前にとっとと帰った帰った。おれはまだ仕事が残ってんだよ、大人は忙しいの」
そう言って、江西先生はひらひらと手を振り、職員室の方へ戻っていった。
残された俺たちは、顔を見合わせる。
「今の先生、何か知ってるような口ぶりに聞こえたな」
「さあ、どうでしょう。地球人の思考は、時として非常に読みにくいものですから。それより帰りましょう、リツ。夜は活動が推奨されません」
「あ、ああ……」
エリー・アンはどうでも良さそうに教室を出ていこうとする。慌てて、後を追う俺。
夕焼けの中、エリー・アンと過ごしていると、あの衝撃的な始まりを思い出す。彼女が電柱に齧りついていたあの場面を。
完璧の歯車が狂ったのは、アレが始まりだった。が、今の俺は……あの出会いがない方がよかったと言えるのだろうか? 俺は、完璧な日常に戻りたいんだろうか?