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第15話 エピローグ 気になるあの娘はエリー・アン

 あの日、天上院エリー・アンが忽然と姿を消してから、半月が過ぎた。

 がらんとした隣の席が、朝の光を無機質に反射する。誰もその席の主の名前を口にしない、最初から存在しなかったかのような日常。

 俺だけが覚えている、電柱を齧る美少女、珍妙極まりない食レポ、超人的な身体能力、そして夜空の大輪の下で流した、星屑のような涙。

 何もかもが、色鮮やかな夢だったのではないかと、何度も思った。


「いや、あんな夢見るなら病院行った方がいいだろ」


 普通に考えたら、悪夢でしかない。

 だが、時折締め付けてくる胸の痛みと、ぽっかりと穴が空いたような感覚が、あれは紛れもない現実だったと俺に告げていた。


 俺が死ぬほど望んでいた、完璧な日常は戻ってきた。

 寸分の狂いもないスケジュール、予定調和、計画通りの日々。自分がするべきことを、きちんと順番に為していく。達成した内容に、チェックを付けるたびに得ていた充実感。

 でも、それはかつて俺が求めた輝きを失っていた。決定的に何かが足りなくなっていた。


「クソ……とうとうアイツを夢に見ちまった」


 やっぱり、病院に行った方が良いのかもしれなかった。

 その朝も、俺は重い足取りで教室の扉を開けた。きっと、いつものように拓郎がいて、イチカがいて、江西先生が眠そうな顔で入ってくる。

 そんな、変わり映えのしない、予測可能な、しかしどこか物足りない光景。


「――おはようございます、佐倉リツ」


 澄んだ鈴が、軽やかに転がるような声。

 俺は、自分の耳を疑った。そして、錆びついたブリキ人形のようにぎこちなく、声のした方へ顔を向けた。

 そこにいたのは。

 あの日と何一つ変わらない姿で、涼しげな微笑みを浮かべて座っている、天上院エリー・アンの姿があった。

 朝の柔らかな陽光を浴びて、絹糸のようにきらめく、上品なアッシュベージュのロングヘア。人形のように整いすぎた顔立ち。そして、俺の心を何度も掻き乱した、オレンジがかった妖しい光を湛える琥珀瞳アンバーアイ


「な……に……して……っ」


 かろうじて出た音、言葉にならない。


「少々……いえ、わたくしの時間感覚ではウィンクする間でしたが、地球尺度ではややご無沙汰してしまいましたわね。再調整、及び追加ミッションのプロトコル更新に、想定外の時間がかかってしまいまして」


 週末の出来事でも話すかのような、エリー・アンの軽やかな口調。

 俺の脳裏に、忘却していたクラスメイトたちの反応が駆け巡る。イチカは? 拓郎は? この異常事態に、一体どんな反応を示す!?


「あれ、律、どうしたのよ? 朝から幽霊でも見たみたいな顔しちゃって。……あ、エリーちゃん、おはよー! 今日も早いじゃない! 律と来たの?」

「いえ、今日は別々でしたわ♪」


 カバンを置いたイチカが、屈託のない笑顔でエリー・アンに挨拶をする。。


「はああっ!? 天上院っ!!?」


 見れば、ちょうど教室に入ってきた拓郎も「おー、エリーちゃん、今日も早いな!」と手を振っている。江西先生に至っては、ちらりとこちらを一瞥しただけで、興味なさそうに黒板に今日の連絡事項を書き殴っていた。


 ――全員、まるで、エリー・アンがずっとこのクラスにいたかのような反応だった。


「あら、リツ。わたくし、帰ってこないとは一言も申し上げておりませんわよ? 『長くはこの星にいられない』とは申し上げましたが、それは『連続稼働時間』に関する客観的伝達です。定期的なメンテナンスさえ行えば、ミッション継続は可能ですし」


 エリー・アンは、いたずらっぽく片目をつむる。


「むしろ今回の件で、地球文化、特に『感情』に関する研究の重要性が上層部にも認められ、わたくし、正式に『長期滞在研究員』に任命されましたの。これからはもっと本格的に、深~く緻密に、地球人の生態と文化を調査できますわ。うふふ、実に楽しみですわね」


 喜びを隠せない、といった風情でうっとりと微笑むエリー・アン。

 これから始まる新たな混乱を予感させる、どこか小悪魔的なオーラを放っていた。


「あと、リツ。以前、わたくしが示唆した『個人的な理由』、それも今回の早期再訪におけるの大きなモチベーション・ファクターとなっておりますのよ。――わたくし、もっともっと知りたいことがあるのですから」


 俺は、ようやく硬直から解き放たれたように、深く息を吸い込んだ。

 驚愕と、信じられないほどの安堵と、そして、半月間も燻り続けた、言いようのない感情が一気に噴き出した。


「ふ、ふざけんなーーーーーっ!!」


 俺の魂から絶叫が、朝の静けさの残る教室に響き渡った。


「お前なぁ! 人が、どれだけ……っ! どれだけ心配したと思ってんだ! 勝手に消えて! 俺たちの記憶までめちゃくちゃにしやがって! なんだよ『個人的な理由』って! 俺の! 俺のあの感傷と、寝不足と、増量した胃薬の補填を、今すぐ出せェェェ!!!」


 俺の怒りのボルテージは最高潮に達し、肩で息をする。

 そんな俺を、エリー・アンは興味深そうに、そして嬉しそうに見つめていた。その琥珀瞳アンバーアイは、らんらんと輝いている。


「おお、リツ、その感情の昂り、全身の細胞から放出されたかと思うほどの高濃度アドレナリン。瞳孔の劇的収縮。やはり、実に興味深い。この星の観察と、特に佐倉リツという個体の生態分析は、まだまだやめられそうにありませんわね!」

「人のリアクションを面白がるなっ! 俺は珍しい昆虫かなにかか!?」

「ご安心ください、リツ。貴方のストレス反応を計測する許可も正式に取得しましたのよ、今後のデータ収集が楽しみですわ!」

「なんで許可とってんだよ!? 誰の許可だよ」

「わたくしたちの上層部及び、地球におけるいくつかの関連機関からですわね」

「なんでそんなもんに国際的な機関が絡んでくんだよ!? ていうか、まず本人の俺に許可を取れよっ、天上院っ!」

「ふふふ……あまり大声で騒ぐと、江西先生に本気で怒られてしまいますわよ、リツ」


 いつものように煙に巻かれ、俺はがっくりと肩を落とす。

 周りからは、くすくすというクラスメイトたちの忍び笑い。江西先生からは「ヒートアップは休み時間にしとけ、若人たち。あと佐倉、お前の声は職員室まで響くから、俺が怒られるんだよ。勘弁してくれ」という、何とも言い難い注意とも懇願ともつかない言葉。

 ああ、頭が割れるように痛い。そして、胃の奥がきりきりと鋭く痛む。間違いなく、一気に胃酸が増量し、逆流してきている。


「はあ。まあ、いっか。何はともあれ……とりあえず」


 俺はイチカとは違う。こういう時は、ちゃんと言葉にしないと伝わらないことも知っている。もう、ごまかさない。


「……おかえり、エリー・アン」


 なんとか絞り出すように俺は、彼女の名を呼んだ。

 すると、エリー・アンは、これまで俺が見た中で、間違いなく一番美しく、柔らかく、まるで硬い蕾が一気に花開くような、眩しい笑顔を見せた。


「はい、ただいま戻りましたわ、リツ。これからも、よろしくお願いいたしますね、わたくしの愛すべき『研究対象ヴァリアブル』、そして……かけがえのない『お友達ディアフレンド』」


 俺、佐倉律の完璧だったはずの日常は、こうして再び、エイリアンお嬢様によってハチャメチャに、そして予測不可能に掻き乱されることになった。

 まあ、いいか。よし、まずは胃薬を買い足しに行こう。完璧な日常とは、計画的な備えからだ。

 たとえその完璧な計画が、ものの数秒で木っ端微塵に崩壊する運命だとしても。


 ――気になるどころじゃ済まされない、この娘はエリー・アン。

 俺の平和な日常と、胃の粘膜を容赦なくぶち壊し続ける、常識破りの破天荒。

 どこを探しても完璧じゃない、冒涜的なまでに個性あふれる……大事な、エイリアンの友達だ。

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