なるべく教室では目立たないように、そうすることで嫌われずに高校生活が送れると思っていた。目立って良いことなんて何もない。日本には「出る杭は打たれる」という伝統があり、なにか才能などを発揮するとそれは周りから見れば妬みの原因になってしまう。目立つとは、平穏に暮らしたい者にとっては非常に危険な行為なのだ。
たとえば家がお金持ちだったとする。「あいつは楽でいいよな。親の金で遊んで」などと裏では妬まれる。
たとえば先生と仲良くなるとする。「ゴマすりしてるんじゃねえ」とやっかまれる。
たとえば自己主張をしてみる。「あいつわがままじゃね。自分のことばっかり」と疎外される。
だから俺は目立つようなことはせず、ただひっそりと、ぼっちという殻にこもって不自由を我慢していたのだ。まるでひっそりと日陰に潜む虫のように。
でも、俺は実は目立ちたかったのかもしれない。
誰かにちやほやしてほしかった。すごいと言ってほしかった。だから、ネットで小説を書き始めたのかもしれない。『小説家になるぞ』の中なら、面白い小説さえ書けば目立ったっていい。もし目立てなければ、ネットの世界ならばいつでも逃げ出せる。いくら逃げても、心も痛まないし、俺自身は傷を負わない。
現実世界は違う。逃げ出すと、一生その十字架を背負って生きなければならない。高校生の頃にトラウマを負って、この先の長い人生を歩む自信は俺にはない。
いつも寝る前に布団の中でする妄想を、思い出す。
俺が教室に入ると、誰かが「すげー面白いんだよ」と俺の「異世界ハーレム戦記」を勧めていた。
「このKAZMAって作家の小説、読んだら止まらなくてさ。お前も読んでみろって」
そう熱弁する男は、もちろんKAZMAが俺とは知らない。知らないのに、俺の作品を絶賛してくれている。
俺は自分がKAZMAであるとは名乗れず、しかしちょっと嬉しく思っている。
クラスで「異世界ハーレム戦記」の評判は高まり、ついに書籍化され、いよいよ俺も隠し切れなくなって自分がきのりんだということを公表する。
高まる俺の評価。すなわち、橋和馬に対する評価。
「橋くん、すごい!」
「本出たら絶対買うからな!」
そんなクラスメイトの声に、俺は恥ずかしそうにはにかんで、嘯く。
「大したことじゃないよ、書籍化くらい」
……すべて妄想。笑っちゃうよ。へその上でピザ焼いちゃうくらい、笑っちゃう。
今日、俺がKAZMAという名前で小説を投稿していることを告白した。
でも、何も変わらなかった。賞賛どころか、誰も興味すら持ってくれなかった。きっと明日、学校に行っても俺はいつもと変わらず、ひとりぼっちで空気なのだ。毒にも薬にもならない、空気。
俺はすべてが否定されたわけでもなく、ただ何をしても俺は空気であって、このままネットで小説を書き続けていく意味を失ったような気がした。
まさに、無。
同じなろう作家の山本は、書籍化が決まってちやほやされている。
俺はどうだ? 何も変わらない。ただの空気。抱いた夢と妄想はすべて山本に持っていかれた。
家に帰り、俺は『小説家になろうぜ』のサイトを開け、「異世界ハーレム戦記」のPV数を確認してみた。
朝から必死に宣伝ツイートを繰り返したのに、思ったより増えていない。むしろブックマークが減っている。
このままでは明日の更新もできそうにないし、やる気がどんどん削がれていく。
『構想練り直しのため、明日の更新は延期させていただくのです! みんな、待っててなのです!』
Twitterにそう投稿し、俺はそのまま眠りについた。
また、逃げたのだ。俺は唯一の自由である小説の世界からも。
翌朝、俺はいつもに増して体のだるさを感じていた。学校に行きたくない、とそんな感情が体を動かさない。昨日の悪夢が、蘇る。
それでも俺はTwitterを開き、日課の挨拶爆撃を開始する。
フォロワーに向かって無差別に「○○さん、おはようです!」とか「○○さん、今日もお仕事がんばるのです!」とか、俺が作り上げたネット上での作家キャラを演じながら、真面目な顔をして必死でかわいいメッセージを送る。
最後に「今日は金曜日です! みなさまも週の最後、がんばっていきましょうです! ガンバ!」という生乾きで臭ってきそうなツイートを投下する。我ながら気持ち悪い。
しかしなろう作家にとって、横のつながりは重要なのである。互いに宣伝し合うことによってPV数を増やし、「なろう作家一同、みんなでがんばって書籍化目指しましょう!」という珍妙な連帯感を醸成していくのだ。
書籍化が決まった人に対してはもれなく「おめでとうです!」と称賛する。もちろん心の中では「クソが。俺の方が面白いのに」と悪態をついている。
これが顔の見えないネット。自由が溢れるネットの幸せな世界。
そんな朝のルーティンワークをこなしているうちに、母が心配して俺の部屋をノックする。俺は大丈夫と強がって、なんとか制服を着て、なんとか朝食をとり、なんとか登校する。気持ちと真逆のことをするのはとても疲れる。
いつもの教室。いつもの俺。
なろう作家KAZMAは、この教室ではなんの影響も与えていなかった。俺はいつも通り、朝のホームルームが始まるまで、自分の席でただじっと座っていた。
なんだかすべてを失ってしまったようだ。この教室での存在感だけではなく、それを支えていた俺の創作活動への情熱さえも。
朝のホームルームが始まるまで黙って席についていた俺を、吉岡が俺を汚いものでも見るような目で睨んできた。
それは俺があんなノートを書いていたことを知ったからなのか、それとも以前から俺のことをウジ虫を見るような目で見ていたのか、どっちか分からない。
相変わらず短いスカートの吉岡は、きっと自分に自信があるのだろう。そうでなければ、あんなに素肌を出していない。男子へのこざかしいアピールだ。俺には通用しない。
きっと吉岡はキスとかもしたことがあるのだろう。
吉岡から見たら俺の小説のキスシーンの描写など、ちゃんちゃらおかしいにちがいない。だって俺は女子と手をつないだこともないし、キスもしたことがない。それなのに、キスシーンを書いたりしているのだ。それ以上のことも、何度も書こうとしては躊躇している。書きたくても書けない。
「チッ」
吉岡は舌打ちをして、佐々木のところに行き、なにやら会話をしている。
この二人、いつも一緒にいる。もしかしたら二人は付き合っているのかも。もしかしたらこの二人はキスをしているのかも。もしかしたら、もっとそれ以上の関係かも。
また、吉岡と目が合う。
明らかに顔を顰めて、俺に対して敵意を向けてくる。逆にそうされて、俺はちょっと嬉しい。空気以上の存在として認めてもらえたような気がしたから。ここに俺がいるということに気づいてくれたようだから。
今度は吉岡が佐々木の耳元に何かささやき、佐々木もこちらを見る。俺の悪口でも言っているのだろうか。
無関心よりも嫌われたいって、意外にも俺は承認欲求の塊だったのだなと、そんな自分が微笑ましくなる。
すると佐々木が立ち上がって、少し眉をしかめて何事であろうか、俺のところへやってきた。
「ちょっといいか?」
驚きの反応をする間もなく、腰に手を当てた佐々木が俺の前に仁王立ちする。
「あのさ、橋。俺も文芸部だから創作活動の自由さってもんは理解してるつもりだ」
ゴン、と俺の机に佐々木の拳が叩きつけられる。
俺はその音で、クラスメイトたちの視線がこっちに集まったことに気が付いた。
「お前がどんな小説書こうと自由だけどさ、吉岡が気持ち悪がってんだよ。お前があいつのことどう思ってようが何も言わないけど、やりすぎじゃないか?」
佐々木が何を言っているのか分からない。
吉岡が気持ち悪がったとして、そんなの読まなければいいだけだ。俺は吉岡みたいなクソビッチに読まれるために小説を書いているわけではもちろんない。ネットで繋がってくれる読者様のために書いているのだ。俺としてもあんな女に読まれる方が迷惑だ。自由の侵害だ。
だが、今それを佐々木に伝えたところでどうにもならない。
俺が黙っていると、佐々木は続ける。
「あのミナってキャラ、吉岡をモデルにしてるんだろ? それで主人公とキスさせたり、そういう妄想は頭の中だけにしてもらえないか?」
は? こいつ何言ってんだ? ミナが吉岡をモデル?
「私の名前をキャラにつけて、妄想だけでも気持ち悪いわよ! キモイキモイ!」
吉岡美奈――。
俺は単純に知らなかったのだ。吉岡の下の名前が美奈ということを。
昨日、山本がしたり顔で言っていたのを思い出す。「登場人物に作者の知り合いの名前をつけて、反映させる」とかなんとか。
主人公のカズマは俺、そしてヒロインのミナは吉岡。
俺はそんな風に考えて、書いたつもりは毛頭なく、それは吉岡の勘違いと不運な一致なわけであったが、吉岡と佐々木たちは、そうは考えていなかった。
「私、昨日あのノートでヒロインがミナってことに引っかかってたのよ。山本君が身近な人をモデルにするって言ってたからさ。まさかとは思って、昨日家帰って嫌々読んじゃったの、そいつの書いてる小説。そしたら、ミナって子が主人公にキスされたり、もう気持ち悪いの! あーやだやだ!」
吉岡は両手で顔を覆い、横に振った。
俺の「異世界ハーレム戦記」を読んだのか。それはそれで、俺はなんだか気持ちのいいものだった。PV数が増えたから。
「だから、そういう気持ち悪いことはやめないか? 同じクラスで、お互いやりにくくなるだろう?」
佐々木の声は冷静だったが、顔には嫌なものを見るような不快さが滲んでいる。俺を説得するというよりかは、強制させているようだ。
周りからも、「マジキモイ」とか「橋が美奈とのこと妄想して小説書いてるの?」とか「ここまでいきゃストーカーだな」とか、心ない声が聞こえる。
「もうやめろよな、こんなこと」
佐々木はなんの反応も示さない俺に疲れ果てたのか、それを最後に自分の席に戻っていった。吉岡も俺を一瞥し、ついていく。
完全に誤解だ。
俺は知らず知らずに吉岡美奈の名前をヒロインに付けていた。もちろん、意図したものではない。
しかしそのことで、このクラスメイトたちに俺の小説に興味を持ってもらえたのかと、なんだか嬉しくなっていた。それに吉岡は実際に読んだらしい。昨日増えたPV数のうちのひとつは確実に吉岡のものだ。
吉岡が、俺の自由の中に入ってきた。俺の、中に。ウジ虫のような俺に、綺麗な蝶がひらひらと。
俺の中で、何かが狂い始めた。