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第3話 『社会不適合者』の俺

 翌朝。ひどかった頭痛はだいぶおさまっていた。

 のどが乾いたので冷蔵庫へ向かうと、テーブルの上に津和からのメモを見つけた。鍵はポストに入れておく旨と、必ず病院へ行くようにと書かれてある。予想を裏切らない律儀さと、おせっかいな内容に、ちょっぴり笑ってしまった。

(病院か……でも明日が納期の仕事があるからなー)

 俺は一応、フリーのプログラマーだ。一応、と前置きがあるのは、それで生計が立てられないから。月に二つ受注できればいいほうで、まったく依頼が入らない月もある。収入が不安定すぎるのが、目下最大の悩みだ。

 以前は会社勤めしていたが、ある時から頻繁に頭痛が起きるようになり、続けていくのが難しくなった。どうやら入社時から数年に渡って常習化した深夜残業と、度重なる休日出勤による長時間労働がたたったらしい。

 具合が悪いときに、何時間もモニターと向き合うのは難しく、作業能率も格段に落ちた。このままでは顧客クレームにつながるのは火を見るよりも明らかだった上、なにより同僚に白い目で見られるのがいたたまれず、悩んだ末に辞職した。

 ここ最近、SNSやメディアでは長時間労働に対する非難の声が大きくなりつつあるが、それがなんだというのだろう。

(そんなの、よくある話すぎんだろ)

 たしかに残業は多かったが、他の同僚たちはこなしていた。ブラックと呼べる待遇だったかもしれないが、それでも会社に何年も通い続けている社員は大勢いた。

 この世の中『あるべき』論なんて通用しない。多くの場合、多数決で正義が決まる。では大多数の枠から外れた人間は、どうやって生きていけばいいのだろう。

 サブロク協定の網目をかいくぐって、自ら残業時間を少なくつけたり、仕事を持ち帰ったりする従業員がはびこる中、きわだった能力もスキルも体力もない半端者が、まともに生きていけるほど世間は甘くない。

(たぶん、俺みたいな人間を『社会不適合者』って呼ぶんだろうな……なんせ与えられた仕事さえ、満足にこなせないんだから)

 俺は冷蔵庫から水のペットボトルを取り出すと、クーラーで冷えた床に座ってひざを抱えた。月四万円の1Kアパートは、二十半ばを過ぎた男の一人暮らしには十分で、収入が少ない身としては風呂とトイレが付いているだけでもありがたい。

(なにか食えるもの、冷蔵庫に入ってたかな? ま、無けりゃゼリー飲料でも飲んどくか)

 節約のためにも基本自炊だが、納期が迫っているときは別だ。特に頭痛がひどくて動けないときや、週五で入れているビル清掃のシフトとバッティングしたときは、とてもじゃないが飯なんて作ってる余裕はない。

(あ、そういや足……)

 ケガした足を確認すると、昨夜よりもやや腫れてた。痛みも増してきたので、やはり捻挫してるようだ。

(ま、冷やしておけばいっか)

 とりあえず洗面所の薬棚から、頭痛用に買っておいた冷却シートを引っぱりだすと、腫れた足首に貼りつけた。

(これでよし、と。さあ仕事仕事……)

 部屋にもどって、さっそくPCを立ち上げた。先週の体調不良のせいもあり、作業は予定よりだいぶ遅れている。不本意ながら、今夜は徹夜になりそうだ。

 でも、遅くとも明日の正午までに仕上げれば、夜のバイトまで仮眠を取れる……そう思ったとき、突然スマホから着信音が流れてきて、文字どおり飛び上がった。

(なんだ、非表示か)

 てっきりクライアントからだと思って、あせった。直前で修正案や追加項目を提案されたら、キャパオーバーで間違いなく詰んでいたところだ。

 おおかた最近頻繁にかかってくる間違い電話だろうと、着信をサイレントに切り替えてから、仕事に取りかかった。




 それからしばらくの間、室内にはキーを打つ音だけが響いていた。

 ようやく一区切りついたと思ったところで、タイミングよく玄関のインターフォンが鳴った。画面の時計を見ると午後九時近い。部屋はいつの間にか真っ暗になっていて、モニターから発せられる光だけが、暗がりの室内をどうにか照らしている。

 インターフォンが再度鳴らされた。

「はいはーい、ちょっと待ってくださーい……」

 荷物でも届いたのかと、面倒な気持ちで重い腰を上げる。ハンコを手に玄関に向かい、あまり疑問も持たずにドアのチェーンを外した。

「……えっ、なんで?」

 開いたドアの隙間をのぞくと、そこには不機嫌全開の津和が立っていた。俺はあんぐりと口を開けたまま、玄関先で少し息を切らせている男を見つめた。

「誰か確かめずにドアを開けるなんて、不用心だろう」

 開口一番に注意された。スーツの上着と鞄を小脇に抱え、ドアの隙間からこちらをにらんでいる。

「とにかく、中に入れて」

「あ、どうぞ……」

 あたふたとドアを大きく開くと、津和は待ちかまえていたかのように玄関に押し入ってきた。そして俺を一瞥したかと思ったら、次の瞬間ハッとした顔をした。

「……なんて格好してるんだ」

「は?」

 目を見開いて絶句する訪問者に、あらためて自分の姿を見下ろす。Tシャツにトランクス一枚なのは、起きぬけのまま仕事をしていたから。だらしがない格好かもしれないが一人で家にいるわけだし、訪ねてくる人間もほとんどいないので気にもとめなかった。

「不用心すぎる。そんな姿で玄関に出てはダメだ」

「はあ……」

 急な来客とはいえ、下着姿で対応したのはさすがに失礼だったかもしれない。このトランクスは、見ようによっては短パンに見えるから、いつも荷物の受け取りくらいは、このまま普通に出てしまうのだが。

(大体この人、なんでうちに来たんだ?)

 訪問理由は分からないが、まさか玄関先で追い返すわけにもいかない。

(用件聞いたら、さっさと帰ってもらおう)

 できれば早めに仕事を終わらせて、長めの仮眠を取りたい。しかたなく部屋に上がってもらい、キッチンにある二人掛けテーブル席のひとつをすすめる。

(なんか飲み物あったかな)

 冷蔵庫を開けると悲しいかな、水のボトルしかなかった。

「うち、水しかないんですけど」

「気にしなくていい。それより病院は?」

 津和はネクタイを指でゆるめながら、詰問口調で聞いてきた。俺は後ろめたさを覚えつつ、冷却シートを貼った足首を軽く持ち上げてみせた。

「とりあえず、冷やしておいたんですけど」

「つまり病院へ行かなかった、と言いたいのか」

 とがめるような口調に、俺は少しムッとして視線をそらした。

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