「明日納期の仕事があって、立てこんでて、それどころじゃなかったんです」
「明日納期の仕事?」
そこで俺は、簡単にフリーのプログラマーとして仕事を請け負っていることを説明した。しかし津和は憮然とした顔で腕を組む。
「あっそ。ところで、ああいうことはよくあるのか?」
「ああいうこと?」
俺は津和の向かいの椅子に座ると、飲みかけのペットボトルの口を開けながら聞きかえした。
「階段から落ちたこと」
「まさか。あんな失敗、そうそうありませんから。いつも気をつけていますんで」
「ふうん。気をつけていたのに、あんな風に落ちたわけだ」
津和は椅子の背もたれに片腕をかけると、気難しそうな横顔でそっぽを向いた。責めるような口調だが、病院の件といい、どうやら心配してくれてるらしい。
「えーと、いつもは薬さえ飲めば大丈夫なんですけど」
つとめて明るい口調で言ったら、津和の機嫌はさらに急降下した。
「じゃあなんで、昨日は薬を飲まなかった?」
「あれは、たまたま常備薬を切らしてて……」
津和は気に入らない、とばかりテーブルに頬杖をつくと、忌々しげに舌打ちした。イケメンが怒ると、妙な迫力がある。
(それに、とてつもなく気まずい)
なんとかこの場の空気を変えたくて、再び重たくなってきた頭を悩ませていると、向かいの津和が静かに口を開いた。
「もっと融通がきくバイトにしたら」
「融通がきく?」
「体調が悪い日は休めて、具合が悪くなれば仕事中でも手を止められる、という意味」
俺はあきれて天井をあおいだ。
(そんな都合がいい仕事あるわけねーだろ……)
コミュ障で接客に自信がないから、今のところ清掃員の仕事が一番性に合っている。人と接する機会はほぼなく、自分のペースで作業できる点もありがたい。
「うちでバイトしてみないか」
「え?」
思いがけない津和の申し出に、俺はワンテンポ遅れて反応した。津和のとこって、あの商社でバイトとか募集してんのか?
「いや、でも俺、今は、会社勤めは、ちょっと……」
「会社じゃなくて、俺のマンション。ちょうど掃除してくれる人を雇おうか考えていたところなんだ。半年前に引っ越してきたのに、まだ段ボールが散乱してる。君に片付けてもらえると助かると思ってね」
「あー、えっと……」
津和の思いがけない申し出に、俺は言葉を詰まらせた。『俺のマンション』という下りで、てっきり津和のマンション管理事務所あたりで清掃員のバイトを募集しているのかと思ったのに、まさか津和自身の部屋のことだとは。
「条件は悪くないよ。俺が日中仕事で出てるときに、好きなタイミングでうちに来て、荷物を片付けてくれればいいだけ」
たしかに条件は悪くない。悪くはないけど突然すぎる。それによく知りもしない人間を、プライベート空間である家にあげて、プライバシーの塊である荷物の片づけさせても気にならないものだろうか。少なくとも俺は気になる。
「仕事で出てるときって、留守のときですよね? 嫌じゃないんですか?」
「嫌って、なにが?」
「だって、ぜんぜん知らない赤の他人が、勝手に部屋を出入りするんですよ?」
「それは他の業者に頼んでも同じだろう。すでに顔見知りな分、君のほうがはるかにマシだと思うけど?」
津和はさも不思議そうに、俺の顔を見つめている。同じだとか、はるかにマシだとか、津和の感覚ではそうなのだろう。しかも提示された報酬は、今のバイトよりずっといい。
(こ、断る理由が思いつかない……!)
頭の中ですばやく状況を整理してみる。たしかに仕事時間を自分の裁量で決められるのは魅力的だ。体調と相談できるのはもちろん、本職であるプログラマーとしての仕事の納期に合わせて時間調整できるのもありがたい。
「なら試しに一回だけ、やってみてもいいですか」
もしかしたら相手の期待値と合わない可能性がある。清掃員のバイト経験があるとはいえ、掃除に関してはまったくの素人だ。そしてなにより居心地が悪い職場だったり、雇用主とそり合わなかったりしたら、どんなに報酬が良くてもお断りしたい。
(なんか神経細かそうだもんな、この人……)
津和の繊細で整った顔立ちから、勝手に失礼なイメージが浮かぶ。
「じゃあ、さっそく今週の土曜日はどう? 細かいことは、そのときに説明するよ」
津和はスマホをとり出すと、地図を送ってくれた。駅からの道順はそれほど複雑ではないので、特に迷わず行けそうな場所だ。
「それから明日は絶対に病院行くこと。治療費は後から請求して?」
「はあ……」
とりあえず生返事をするにとどめた。ただの捻挫だろうし、いちいち診察代を請求するつもりなんてないけど、ここで反論すればますます話が長引くだろう。仕事も詰まっていることだし、早いところお引き取り願いたい。
(病院なんて、行ってる暇ないよ)
津和は話がすんだとばかり席を立ったので、俺は内心ホッとすると、早く帰ってもらおうと玄関まで見送ることにする。よく磨かれた革靴を履いた津和は、扉を開ける直前にふり返った。
「夜遅くに邪魔したね」
「いえ、別に」
「別にって顔してないよ?」
スッと手を伸ばされ、反射的に体を引いてしまった。すると津和は代わりに、自分の目の下をトントンと叩いてみせる。
「隈、昨日より濃くなってる」
「えっ」
言葉に気を取られていたら、再び伸ばされた指先で目元をなぞられた。スルリと肌をすべる感触に、一瞬ギュッと目をつぶってしまう。
「じゃあ、また」
小さく笑われて、遅ればせながら後ろに飛びのいた。
(今の、なんだったんだ一体……)
閉じられた扉の前で、俺は触れられた目元をゴシゴシとこすった。