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第5話 夕食に誘われる

 翌日。当初の目標だった正午をだいぶ過ぎて仕事を仕上げた俺は、なんとか納期までに委託元に成果物を送ることができた。

(もう出かけなきゃバイト遅れちまう)

 けっきょく短い仮眠しか取れず、重い体を引きずってバイト先へ向かった。いつものようにロッカー室で着替えをすませると、夜九時前にはエレベーターで二十六階へあがり、持ち場の非常階段で作業をはじめた。

(あー、ねみい……)

 近ごろ眠りが浅くなった気がする。昔はほんの二時間も寝れば頭がスッキリしたものだが、今ではその倍寝ても眠気がおさまらず、体調が万全という日はほとんど無くなったように思う。

(人はこうやって、年取ってくのかな……って、俺まだギリ二十代だろ)

 高校生から見ればオヤジ、中学生から見ればジジイだろうか。でも実際、この歳になってもあいかわらず未熟で、子供のころに想像した大人のイメージからはずいぶん外れている。

 俺は神妙な気持ちで階段を一段ずつ、ゆっくりとおりていった。おととい階段から落ちたあと、ノルマが中途半端のまま上がってしまったため、その夜のバイト代は半分以下に減給されてしまった。

(まあ、クビにならなかっただけマシなんだろうな)

 掃除を終えると、地下一階のロッカー室へもどって着替えをすませた。クビにならなかったのは不幸中の幸いだ。あれでクビになったら、新しいバイト先を探さなくてはならない。

 そのとき頭によぎったのは、昨夜津和から提案されたバイト話だった。

(うまい話すぎるから、あまり期待しないでおこう。ちょっとだけ試してみて、やっぱ駄目になるかもしれないし)

 なにかを安易に期待することが、年を重ねるごとに難しくなってきた。うまい話なんてそうそうないし、期待したぶんだけ、うまくいかなかったときの失望感は大きい。津和はどういうつもりで、俺にこんなオファーをしたのだろう。たまたまタイミング良く、そういう人間を雇いたかっただけか。もしかしたら新手の詐欺かもしれないと、チラリと猜疑心が顔をのぞかせる。

(でも、悪人には思えないんだよな)

 むしろあんなに親切な人はいないかもしれない。うたがって悪かったかもと気持ちに切りかえたところで、管理室の警備員がロッカーにやってきた。

「千野くん、お客さん来てるよ。このあいだのお兄さん」

「えっ」

 管理人の後ろには、なんと津和が立っていた。まだまだ残暑が厳しい気候にもかかわらず、茶系のスーツにネクタイをきっちりしめていて、だがちっとも暑苦しそうに見えないから不思議だ。

「着替えは終わった?」

「はあ、まあ」

「じゃあ行こうか」

 どこへ、と俺が問うのも待たずに、津和はズカズカとロッカールームに入ってくると、俺の二の腕をガッチリつかんだ。

「ちょっと、あの、一体どこへ……?」

「病院。どうせ今日も行ってないだろ」

 俺はあっという間に車に押しこめられると、強制的に病院へと連行された。




 診断結果は予想どおり、軽い捻挫だった。

 湿布薬を渡されて帰宅する道すがら、ハンドルをにぎる津和は静かに口を開いた。

「夕食は食べた?」

「……いつも、バイト終わってから食べるんで」

「つまり食べてない、ということだな」

 ウインカーを出して車線変更した車に、俺はハッとして隣の津和を見た。

「あのっ、俺もう帰りますんで」

「どうせ明日は土曜日だし、うちにおいで。何か作ってあげるよ」

「いえ、そこまで甘えるわけには」

「遠慮しないで。プログラマーの仕事はバイト前に終わらせて、今はひと段落したところだろう?」

 そう言われてしまえば、仕事を理由に断れない。そして他の口実を考えるには、あまりにも疲れすぎて、おまけに腹も空いていた。

(まあ、どうせ明日は土曜日で、一度片付ける部屋を見せてもらう予定だったから、ちょうどいいか……)

 津和のマンションは、駅から少し離れた住宅地の外れにあった。

「おじゃまします……」

 立派な建物の外観をうらぎらない広々とした3LDKは、驚くほど段ボールが散乱していた。半年前に引っ越してきたとは、にわかに信じがたいレベルだ。

「えーと、いいところですね」

「ああ、駅から少し離れてはいるが、徒歩圏だから立地も悪くない」

 立地はさておき、これだけ荷物が片付いていない部屋で生活してて、不便さは感じないのだろうか。俺は特別きれい好きというわけではないが、さすがにここまで雑然としているとストレスを感じそうだ。

(まあ、ある意味、片づけがいがあるってことか)

 積み上げられた段ボールの山をながめながら、この中身はなんだろうと心配になる。まさか冬物のウールのコート類とか入れっぱなしじゃないといいが。この猛暑の中、放置していたとしたら大問題だ。

 心配する俺をよそに、津和はさっさとキッチンへ向かうと、冷蔵庫からテキパキと食材を取り出しはじめた。何を作るつもりなんだろう。チラリと見えた冷蔵庫の中は意外にも食材がいっぱいで、しかもきちんと片づいてる様子だ。部屋は汚いのに、不思議だ……。

 しかも津和は、包丁の扱いに慣れているようだ。サクサクと野菜を刻み、フライパンで何やら炒めはじめた。自炊はきちんとしているくせに、部屋は片づけられないとは……と、先刻と似たような感想を持つ。

 やがて空腹を刺激する、いい匂いがコンロから漂ってきた。いつの間にか野菜炒めと味噌汁ができていた。

(すげえ、手際がいいんだな)

 何度もくり返すが、その手際の良さを持ってしても部屋は片付かないものなのか。イケメンで料理ができてモテそうなのに、この部屋の状態はあまりにも悲惨だ。いや、むしろそのギャップもモテる理由になりそうだ。

「お皿取ってくれる? そこの棚の、二段目」

「これですか?」

「そ、ここに置いて。あと箸はそっちの引き出し」

 テキパキと指示を出され、俺は言われたとおりに食器を出し、テーブルに箸を並べ、味噌汁をよそった。そうして完璧な夕食の席が出来上がった。

「こんな料理を作れるなんて、すごいですね」

「大した料理じゃないよ。炒め物と味噌汁くらいで大げさだな……ところでタメ口でいいよ。たぶん年齢同じくらいだろう?」

 おそらくそうだろうが、相手は仮にも雇用主だ。そう告げると、味噌汁のお椀を手にした津和は、毒気が抜かれた様子でくったくなく笑った。

「そんなに、かたく考えななくてもいいよ」

「そうかな」

「そうそう、その調子」

 笑うとクールな印象が一変して、とたんに親しみやすい雰囲気へと変わった。

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