あたたかくて心地良い眠りから目覚めると、すぐ隣に広い背中があった。
(……そうだ、昨日は津和んちに泊まったんだった)
昨夜、遅くに津和のマンションに連れてこられ、食事を作ってもらい、なんだかんだとくつろいでいるうちに深夜を回ってしまった。『帰りは車で送るから』と冷蔵庫から取り出しかけたビールの缶をもどそうとした津和に、『終電で帰るから』と言って飲むようすすめたのは他でもない俺だ。
『捻挫したばかりだから、歩いて帰らないほうがいい』
そろそろお暇しようと帰り支度をはじめた俺に対して、津和は急に思い直したらしく、そう言って引きとめられた。説得を試みたが、津和は断固として譲ろうとはしなかった。とにかくダメだの一点張りで、実家の頑固ジジイの上をいく頑固さだった。
たしかに足は、昨日より腫れてきていた。おそらくバイトで掃除しながら、二十六階分の階段をおりたせいだろう。
(でも明日の土曜はバイト休みだし、適当に休めばすぐ良くなると思ったし、あまり気にしてなかったわ……)
だが予定は大幅に狂って、なぜか津和のマンションに泊まることになってしまった。ベッドはひとつしかないが、ダブルなのでスペースはじゅうぶんある。学生時代に男同士で雑魚寝した感覚で、ベッドを半分使わせてもらった。
(あー、久しぶりによく寝た……えらく寝心地いいな、このベッド)
津和はまだ熟睡している。そうっとベッドの反対側から降りて、トイレと洗面所を借りる。ありがたいことに脱衣所には、俺用のタオルと歯ブラシが用意されていた。
(普通にいい奴だよな、アイツ)
昨夜話してみて分かったが、津和は一見クールで近寄りがたいイケメンのわりには、気取ったところは一切なく、気さくでおせっかい焼きの普通にいい奴だった。きっと男女問わずにモテるだろう。
(そういえば、ずっとニューヨークに赴任してて、つい半年前に帰国したばかりって言ってたな。英語も不自由ないだろうから、きっと外国人の友達もいっぱいいるんだろうなあ)
留学もホームステイの経験もない俺からすると、海外に交友関係を持つ津和がちょっぴりうらやましい。仕事の選択肢が日本国内に限定されない点もメリットだと思う。
顔を洗って歯を磨いてから再び寝室に戻ると、津和はまだグッスリと眠っていた。近づいて寝顔をのぞきこむと、長いまつ毛に少し開いた唇がやけにエロかった。
(女だったら、簡単に惚れてるなぁ)
そんな考えにニヤニヤしてると、かたく閉じられていた瞼がパチリと開いた。
「あ、起きた」
「さっきから、だよ」
サッと伸びた腕を避ける暇もなく、俺はあっという間にベッドに転がされた。
「ズリい、狸寝入りか」
「いつ気づくかと思ってたら、全然気づかないのな……まだ早いから、もう少し寝よう?」
背中に感じるスプリングが、やわらかくて気持ちいい。このままもうひと眠りしたい誘惑にかられるも、覆いかぶさる津和を見上げて首を横に振る。
「もう完全に目が覚めちゃってるから無理だよ。腹も減ったし」
すると津和は、ガックリした様子で俺の腹に頭を押しつけた。
「土曜日の朝なのに……しかたない。早いけど朝メシにするか」
「重いからどけよ。いいって、眠いなら寝てたら? 俺、適当にコンビニでなにか買って、家帰ってから食うよ」
すると津和は寝ぼけてるのか、俺の腹に腕を巻きつけてグッと羽交いじめにしてきた。
「君だけずるいだろ、それ……俺も腹減った」
「なんだそれ、意味分かんない。とにかく一旦うちへ帰らないと」
昨夜のうちに、すっかり砕けた口調になるほど打ち解けてしまったが、それでも遠慮という言葉を知ってる。しかし津和は、ますます腕の拘束を強めた。
「帰らないで。一緒に朝メシくらい食べてよ」
「わかった、わかったからどけ。重いだろ」
ようやく腕を解かれると、上からうっそりとした表情で見下ろされる。まるで押し倒されたような体勢に、なんだかおかしな気分になりそうだ。
「いっそ、ここに住めば?」
「はあ?」
顔がゆっくりと近づいたと思ったら、耳元でそっと囁かれる。
「部屋、隣にひとつ空いてるよ。住みこみで働けば、家に帰る心配もないだろう?」
「いきなり何言ってんだ。寝ぼけてんのか?」
「さあね」
ドサッと隣に転がった津和は、気だるげに笑っている。冗談で言っているのだろうが、もしかしたら人恋しいのかもしれない。
半年経っても片付かない部屋は、この寝室も例外ではなかった。段ボールまみれの雑然とした部屋で寝ている男は、なんでも持ってそうなのに、なにかが足りてない顔をしていた。
朝ご飯を食べながら、さっそくバイトの説明をしてもらった。せっかくなので食事を終えたあと、廊下を塞ぐ段ボールを数個ほど実際に開けてみたら、やはり冬物のコートが入っていた。
「しかもウールじゃないか……」
俺は開いた段ボールを前に、あきれかえって額おさえた。偏頭痛とは別の理由で、頭が痛くなりそうだ。
「こんなに皺になってるし」
「クリーニングに出せば、真っ直ぐになるだろう?」
津和は俺の手元をのぞくと、こともなげにそう言った。俺は手ざわりの良い、いかにも仕立ての良さそうなコートを広げて大きくため息をつくしかなかった。
「全部クリーニングに出すつもりか? かなり金かかるぞ。なんとかアイロンと霧吹きで、皺を伸ばせないかな……」
「アイロンならあるよ」
どこに、と聞く前に、津和の表情を読んで理解した。間違いなくこの段ボールの海原の、どこかにあるという意味だ。すぐに見つかるわけがない。
(俺のアパートに、アイロンあったっけ?)
会社員をしてたころの通勤スタイルは、内勤ということもあって、特にスーツを強要されなかった。だからいい年して、ネクタイなんて冠婚葬祭のときしか使ったことがない。アイロンをかけるような服なんてめったに着ないから、アパートの押し入れを漁っても、きっと見つからないだろう。
「わかった、とりあえず服はクローゼットにかけておこう。後でアイロンが見つかったタイミングで、皺を伸ばすことにするよ」
「ああ、それでいいよ」
(これは先が思いやられる……相当気合を入れて片づけないと)
腕組みして段ボールの山をにらみつけていると、隣で津和が小さく笑った。
「やっぱり、君にお願いして正解だった。俺ひとりじゃ、とても片付きそうにないからね」
「……」
ひとりじゃ片付きそうにない、というよりも、鼻から片づける気はなかったとしか思えない。でなきゃ引っ越し三日目みたいな家を、半年もキープできるわけがない。