「急がなくても、少しずつ片づけてくれればいいよ」
「ああ、まあ……うん」
「それじゃコレ、スペアキー」
差し出された銀色の鍵を、そのまま勢いで受け取ってしまった。
(いや、いくらなんでも不用心すぎないか?)
俺のことをあっさり家に上げるわ、自由に出入りできる権利を渡すわ、いくらバイトを引き受けたからといっても、こうも簡単に信用されると、世間ズレしてるのではと心配になる。
「ええと、次はいつ来ればいいでしょうか……」
「いつでも……って、言葉づかいが、もとに戻ってない?」
笑われて赤面する。だって、やっぱり仕事となれば、そこら辺は線引きしたほうがいい。そうでなければ、まるで遊びにくる約束みたいに聞こえてしまう。
「もう昼だよ。とりあえず仕事は一旦休憩にして、メシにしないか」
「え、もう昼?」
スマホの時計を確認すると、たしかに時刻は正午を過ぎていた。しかし普段から、三食きちんと食べる習慣がないせいで、空腹感は全く無いのだが。
「俺、腹減ってないから、このまま片づけ続けてもいい?」
「なに、昼飯抜くの? まさかダイエット?」
冗談だろうか。俺はこれでも、標準体重よりずっと軽いんだが。
「その細さをキープしたいなら、少しでも食べたほうがいいよ」
「それって、逆じゃないの?」
「これ以上、細くなるなって意味だよ……ほらパスタ作ってあげるから、おいで」
なぜか手を取られ、リビングへと連れ戻されてしまう。そして強引にソファーに座らされると、頭をひとなでされた。
(……何なんだ、一体)
キッチンへ向かう津和の後ろ姿が、人間の皮をかぶった異星人に見えてきた。思考回路が全く読めない……何が楽しくて、同じ年頃の野郎の世話なんて焼くのか。
(そういや、ここに住めばいいようなこと言ってたな……)
もしかしたら、このマンションの賃料が思いのほか高くて、誰かとルームシェアしたいのかもしれない。そこに俺がちょうど良く現れたので、一緒に住んで家賃を折半すれば助かる……という設定は、ちょっと無理があるか。
(そもそも、こんな高そうなマンションの賃料なんて、半分だって俺には無理だって。払えるわけがないよ)
あれこれ考えていると、キッチンから呼ぶ声が聞こえた。
「できたから、皿出すの手伝ってくれる?」
「あ、うん……」
キッチンにやってくると、フライパンから湯気が立っている。中には具だくさんの、うまそうなパスタが出来上がっていた。
「すげーなあ」
「大げさ。材料を適当にきざんで、ゆでたパスタと混ぜるだけだから」
津和は、昨夜と似たような台詞をくり返した。しかし料理がまったくできない俺にとっては、謙遜しているとしか思えないのだが。
パスタの皿が並べられたテーブルに着くと、さっきまで食欲がなかったのに、現金にも腹が減ってきた。フォークを手に取って食べはじめると、向かいの津和がどこかホッとしたような表情で小さく微笑んだ。
「よかった、食べないって言われるかと思った」
「わざわざ作ってもらったのに、そんな失礼なこと言わないよ……これ、すっげーうまい」
「そっか、それはよかった」
津和は食べる手を止めると、フォークを皿に置いて静かに切り出した。
「朝、話した件だけど……真剣に考えてみない?」
「えっ、何の話だっけ?」
「ここに住むって話」
俺はもう少しで、パスタでむせそうになった。
「いや、俺……そこまではちょっと」
「一人で住むほうが、気楽だから?」
「まあ、それもあるけど……知り合って間もないのに、いきなり同居とか考えられなくって」
俺は至極真面目に、常識的なことを話しているつもりだった。だが津和は、俺を不思議そうに見つめている。
「もうかなり『知り合って』いると思うけど。一緒に食事して、昨日は部屋に泊まった。しかも同じベッドで寝た。それにシェアハウスだって、他人同士がいきなり同じ家に住むだろう?」
「それは……でも、このマンションって、シェアハウスってタイプじゃないだろ。家賃も高そうだし、俺には無理だって」
「家賃が高くて無理だって? ここは家賃なんかないよ。俺の持ち家だから」
俺は、今度こそ盛大にむせた。
「そ、そうなんだ……いやでも住むとなったら、家賃くらい払わなくちゃなんないだろ?」
「じゃあ、今住んでいるところと、同じ賃料払ってくれればいいよ」
「いや、そういう意味じゃ……」
すると津和は、ますます理解できない、という顔で腕組みをした。
「だって、ここで仕事をしてもらうなら、ここに住んだほうが効率よくないか? 部屋はあまってるわけだし、ここで寝起きするなら、通勤時間は全くかからない。俺が仕事に行っている間は、好きに過ごしてくれればいい。あとは体調のいいときに、片づけを進めてくれればいいよ」
ものすごく押してくるのは、なぜだろう……俺にとって都合がよすぎる。津和のメリットは、部屋が片付くことだけ……いや、それが一番難題なのか?
「いや、でもな……片づけ終わったら、どうすりゃいい? いくらこの段ボールが手つかずだとしても、いずれ片づけ終わっちゃうだろ? 仕事が終わったら、出ていかなくちゃならないだろうし……」
「いや、君こそ待って。仕事終わったら出ていくなんてルール、誰も作ってないだろう? 住んでいれば、掃除だって定期的に必要だ。冬物のコートにアイロンかけなくちゃならないんでしょ? 仕事なんて、いくらでもあるよ」
そんなこんなで押し切られるようにして、試しに三日間だけ滞在することになってしまった。
完全に相手のペースにのせられているが、これでも頑張って三日にしてもらったのだ。それというのも、津和は最初『少なくとも一週間』とか言ったからだ。いきなり見ず知らず――と呼ぶのは、すでに違うかもしれないが――の人間と一緒に住むなんて、ハードル高すぎないか? よく知らない者同士で、一週間も同居するなんてあり得ない。
「でも、曜日によって生活サイクルが違うから、一週間は一緒に住んでみないと不公平だろう」
「不公平?」
「メリットとデメリットが正しく判断されないまま、結論を出されることだよ。月曜日は俺に有利で君に不利、火曜日は、君に有利で俺に不利になるかもしれない」
昼食の後、ソファーで食後のデザートを食べながら、津和は不満気につぶやいた。意外にも甘党らしく、冷蔵庫の中はプリンやゼリーがたくさん入っている。隣に座った俺もひとつご相伴に預かった。
(そうは言われても。お試しで一週間は、さすがに長すぎるだろ……)