昼下がりの都内、某外資系商社の二十五階にある会議室でミーティングを終えた津和と西見は、並んでエレベーターホールの前に立った。
「津和、昼メシ食った?」
西見は人好きする笑顔で、隣の同僚を振り返る。
「食ってないなら、たまには一緒にどうだ?」
「いや、結構だ」
スマホの画面に目を落としたまま、顔も上げようとしない同僚にすげなく断られても、西見はめげたりしない。これでも三回、いや五回に一回はランチに誘うことに成功してる。
この男は、赴任先のニューヨークから帰国して以来、同僚の誰とも打ち解けようとしなかった。しかしここ一ヶ月の間に、少しずつだが態度が軟化してきた気がする。
(もったいないよなあ)
彼はずば抜けた営業センスと交渉力で、社内でも一目置かれる上、ただ黙って立っているだけで絵になる、恵まれた容姿とオーラを持ち合わせている。当然、周囲から注目されないわけはない。
周囲の見解では、彼の変化は夏の終わりごろに飼いはじめた、仔猫のせいだという。それはある意味正しいが、ある意味正しくない。
なんとなく事情を察している西見は、賢明にも口を閉ざすことにした。そしてわずかな確率であろう『自分の思い違い』にすがりつき、深く考えることを放棄している。
「ところでこのあいだ、寿司屋を試してみたんだが」
「ええっ!?」
とつぜん津和に話をふられて、西見はうろたえた。
「ほら本社の役員が来日したときに、使った店だよ」
「ああ、あの高級寿司屋か」
「そう。うちの仔猫がよろこぶかと思って」
まさか彼から『仔猫』の話題を振ってくるとは。西見は落ち着きをなくしたときの癖で、首の後ろをしきりになでた。エレベーターが来るまで、もう少しかかりそうだ。
残念ながら、ランチタイムはとっくに過ぎたせいか、ホールには会話に巻きこむ人間が見当たらない。つまりこの場は、西見一人で切りぬけなければならないのだ。
「そっか、そりゃよかったなー! あの店は値段は高いが味はたしかだって、部長も言ってたしな、アハハ」
とりあえず笑って受け流す。それが西見のスタンスだ。だが津和は容赦なかった。
「あの店は失敗だった」
「へっ?」
「彼は寿司が嫌いらしい」
はっきり『彼』と呼んだ……はたしてオスの仔猫にも使うだろうかと、西見はグルグル頭を悩ませる。こうやって無駄に思考をめぐらせるのは、無意識のうちに防衛本能が働いて、たったひとつの答えに行き着かないようにするためなのかもしれない。
「そりゃ災難だったなぁ」
「ああ。嫌な思いをさせた」
津和は、スマホをポケットにしまいながら顔を上げると、西見に意味深な視線をよこした。
(なんだ、その『察しろ』的な目は。お前は仔猫について話してるんだよな!? 少なくとも俺はそのつもりだぞ!?)
このまま津和のペースにされてはいけない。この世の中には、知らなくていいことが山ほどある。これはきっと、そのうちの一つだ。
西見は必死に、実家の猫を思い浮かべた。茶トラの猫で、妹が可愛がってたっけ……そういやよくネズミのオモチャで遊んでいたなと、ふと思いついて口を開く。
「新しいオモチャでも、買ってやればいいんじゃないか……」
西見がポロッとこぼした言葉に、おたがいハッとした。これは明らかに失言だ。
「オモチャか」
「やめとけ、絶対買うな!」
「お前が提案したんだろう」
「いや違う! 違わないかもしれないけど、違う!」
「どっちなんだ。まあいい、オモチャでよろこばれても、俺はちっともうれしくない」
「そうだろ、オモチャ『を』よろこばれても、だろ? うちの猫も、いくら買い与えてもすぐ飽きるしな」
「でも一番細いやつなら」
「わー、やめろ! うちのチャトランまでけがすな!」
「誰がお前の猫の話をしている」
「とにかく絶対にダメだからな! まったく……」
そのとき、ちょうどタイミングよくエレベーターがきた。急いで乗りこもうとする西見の背中に、津和は「ああそういえば」と追いうちをかけた。
「彼がお前に会いたがってる。しかたないから、今週の金曜日うちに来い」
「へっ……」
西見は目を丸くして、肩越しにまじまじと津和の顔を見つめた。今この男の家に招待された? この、非社交的な男に?
「その代わり、今夜の定例会議は、お前ひとりで出席してくれ」
「なんでそうなる!?」
すると津和は、ポケットからスマホを取りだして軽く振った。
「今夜使えそうな資料は、先にまとめて送っておいた」
「マジか……」
津和の資料はなにより心強い。これは大きな借りを作ってしまった。
「分かったよ、今夜は俺ひとりで出席するわ」
「あと金曜日も空けとけよ」
「ハイハイ……」
もはや完全に津和のペースだ。西見は大きく肩で息をつきながら、エレベーターに乗りこむ。後ろから続いて乗ってきた津和は、一階のボタンを押しながら口を開いた。
「ところで金曜日の手土産は、酒と生魚は避けてくれ。彼が嫌がるだろうからな」
「!」
「うちの仔猫は、偏頭痛持ちで生モノが苦手なんだ」
振り返った津和は、してやったと言わんばかりの表情を浮かべていた。
(秘密の共犯者にされちまった……)
よく考えれば、最初の寿司屋の話題から失敗していたのだ。猫がカウンター越しに生魚を食べるわけがない。津和はわかっていて、わざと西見の悪あがきにのっていたのだ。
(いやでも、テイクアウトした寿司を猫に食べさせたのかもしれないじゃないか……いや無理があるか。だいたいなんで俺を巻きこむんだ……やっぱりコイツ変わった、前はこんな奴じゃなかったのに!)
あの非常階段での出会いに居合わせたのが、運のつきだったのだろう……西見はあきらめとともに目を閉じたのだった。
(おわり)