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第二部

第1話 仕事の付き合い

(とうとう、当日になってしまった……)


 秋も深まってきた今日この頃。

 俺こと千野敬二郎せんのけいじろうは、蓋を閉じた弁当を専用バッグに入れると、大きく肩で深呼吸をした。おかずがちょっと豪華なのは、いつもより早めに起きたからだ。


「……ケイ、何してるの?」


 キッチンの入口には、津和が立っていた。弁当の袋をかかえて、ぼんやり考えごと、いや、悩んでいた姿を見られてしまった。


(……もう今しか、言うチャンスがないな)


 俺は気が重いまま、重たい口を開いた。


「えっと、今夜は帰りが遅くなる」

「どうして?」

「会社の飲み会があるから」

「……」


 津和の表情が、分かりやすく曇った。

 いや俺だって気が進まないんだよ。だからって、当日まで黙っていたことは、本当に悪かったと思ってる。


「じゃあ帰りは迎えにいくよ」

「いや、いいよ。そんなに遅くまでいるつもりはないから」

「時間は関係ない。ケイが途中で具合悪くなったらと思うと、俺が気が気じゃない……だから迎えに行かせて?」


 そう困ったように微笑まれると、とてもじゃないが嫌とは言えなかった。

 なぜなら津和の心配は、実は俺の心配でもある。


 夜の飲み会なんて、いったい何年ぶりだろう。

 大勢の人間とテーブルをかこんで飲み食いしながら大声でしゃべったり、笑いあったりする行為が、少なくとも二時間は続くやつだ。そのあとは二次会のカラオケが定番だろうか。


(考えただけで、頭が痛くなりそうだ……)


 だが今回ばかりは参加を断れなかった。なぜなら俺が参加しているプロジェクトの決起会であり、しかも俺の歓迎会もかねていたからだ。


 俺はフリーのプログラマーだが、大学時代の友人からの紹介で、新規のクライアントのプロジェクトチームに参加させてもらえることになった。

 普段は在宅の仕事しか引き受けないけど、今回ばかりはチャレンジもかねて、週三回の通勤を承諾した。


(今日だってしっかり薬も持ったことだし、きっとなんとかなるよな……)


 俺はひどい偏頭痛持ちで、人混みが大のニガテだ。特に混雑した通勤電車は地獄だ。

 今は医者から処方された薬でなんとかなっているけど、以前は市販薬しか使ってなかったから、薬を飲んでも効かないときことがしょっちゅうあった。

 痛さがひどいと吐き気までして、夜も眠れなくなる。それに一度倒れると、数時間は起きあがれないほどひどいときもあるんだ。

 そんな状態でまともに会社勤めできるわけがない。ちなみに前の会社は、それが原因で辞めた。今振り返っても、苦い経験だ……。


「ケイ、薬は両方持った?」


 津和は、俺が出社する日は必ずといっていいほど、処方薬と市販薬の両方を持ったかと聞く。


(どっちの薬が効くのか、そのときの頭痛のタイプによるとか不思議だよな)


 頭痛にも種類があって、医者の処方薬が効くタイプと効かないタイプがある。

 そして処方薬が効かない場合は、市販薬が効くケースが多い。でもたまにどっちを飲んでも効かないこともある。頭痛の扱いはとても難しくて、自分の経験値からあたりをつけて飲むしかない。


(今日は少し、痛くなりそうだな)


 頭痛の予兆を感じた日は無理をせず、気をつけてセーブモードで一日を過ごすことにしてる。ラッキーなら痛みが出ないまま、無事その日を終えることができた。

 今日の体調を考えると、仕事が終わったらすぐ帰宅したほうがいいんだけど……今さら飲み会を断わるわけにはいかない。


「じゃあ、俺は先に出るね」


 津和はいつも、俺より先に家を出る。いつものように玄関まで見送りについていくと、靴をはいた津和が玄関で振り返って、俺を心配そうな表情で見つめた。


「なにかあったら、すぐ連絡して」

「心配しなくても大丈夫だって。薬もあるんだし。ほら、遅れるから早く行けよ」


 一緒に暮らす恋人には、ついそっけない態度を取ってしまう。

 照れかくしもあるけど、心配かけたくないんだ。


「いってらっしゃいのキスはしてくれないの」

「ばっ……しねーよ! 早く行けよ、もう……」

「わかった、俺からする」

「えっ」


 頭の後ろに手をあてて引きよせられると、朝にしては濃厚なキスをガッツリされた。


「――も、いいだろっ……はやく行け」

「うん。帰りは迎えにいくからね」


 迎えに行くと言われたが、飲み会参加は反対されなかった。

 でも津和は、心配している……そして、俺の世話をこれでもかというほど焼くのだ。

 はたして俺は、このまま彼の優しさに甘えてていいのだろうか――最近そんなことを考える時間が増えた。




「千野さん、ちょっといいですか」


 社内で声をかけてきたのは、同じプロジェクトのプログラマーである太田さんだ。

 俺が雇われているITベンチャー会社の正社員で、新卒入社からまだ一年も経ってないのに、今回のプロジェクトの進行役をまかされているすごい人だ。


「この機能なんですけど、今担当いただいてる部分と似てるので、おまかせしてもいいでしょうか」

「あ、はい。もちろんです」


 一緒に仕事して二週間経つが、太田さんと話すときは、いまだに緊張してしまう。

 長いこと在宅ワークばかりで引きこもっていたから、人づきあいが苦手なコミュ障という自覚はあった。でも太田さんの淡々とした口調や態度は、特に苦手だ。


(もともと人と話すのは得意なほうじゃないからな……それにきっと向こうも、からみづらいって思ってんだろうな)


 今のところ仕事に支障はないが、なにかあったときに気軽に相談できそうなタイプではない。


(まあ考えても、しかたないよな)


 今は与えられた仕事を、きちんとこなすだけだ。誰がニガテだとか言ってる場合じゃない。


「千野さん、今夜の飲み会ですけど」


 今度は隣の席の金森さんから声がかかった。

 金森さんは、太田さんと同期だそうで、同じプロジェクトで同じくプログラマーだ。俺と一緒に分担する部分が多いから、しょっちゅう助けてもらってる。


「よかったら七時ごろに、他の何人かと一緒に会社出ませんか。場所がわかりにくくて迷いやすいみたいだから、どうせなら皆で一緒に迷おうって」


 迷うことが前提なのか、つい笑ってしまった。金森さんはフレンドリーで気さくだから、コミュ障の俺でも話しやすい。


「はい是非。俺も方向に自信ないんで助かります」

「今のところ全員方向音痴なんですよねー……あ、そうだ。相川さーん」


 ちょうど近くを、営業部主任の相川さんが通りかかった。急いでいる様子だったのに、金森さんの気さくな呼びかけにも嫌な顔ひとつせず、立ち止まってくれる人格者だ。


「どうした、なんかトラブルでもあった?」

「やだなあ、違いますよー。ま、トラブルになるのを防ぐって意味ではあるんですけど……今夜チームの連中と集まって、会社を出る予定なんです。よければ相川さんも一緒に来ません? 俺たちだけだと、どうも道が不安なんで」

「いいよ。千野さんも一緒ですか?」

「はい」


 ふと相川さんの視線が動いた。その先を追うと、タブレットに視線を落とした太田さんの姿があった。

 どうやら太田さん的には、飲み会の話などとっくに終わっているようだ。俺は業務で聞きたいことがあったので、金森さんたちに失礼して、太田さんのもとへ行く。


「すいません、太田さん。この部分なんですが」

「ああ、ちょうどそこの説明をしようと思ってて……」


 太田さんは説明をはじめようとして、近くにいた相川さんの姿を見つけると露骨に顔をしかめた。

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