4-1:別れの準備
契約結婚から1年が経とうとしていた。ヴィヴィアンは静かにその期限を意識し始めていた。この結婚が最初から契約に過ぎないことを彼女は理解していたし、それを受け入れていた。アレクサンダーの冷たさを感じることもなくなり、むしろ彼が少しずつ優しさを見せてくれることに胸が温まる日々だったが、それでも期限が訪れることを避けることはできないと思っていた。
ある日の午後、ヴィヴィアンは自室の中で荷物を整理していた。結婚の期限が来れば、彼女は公爵家を去らなければならない。ウィンザー伯爵家の娘として過ごしてきた自分が、短期間とはいえ公爵夫人としてここに居られたことを誇りに思いながらも、心の奥にある寂しさを否定することはできなかった。
「これでいいの……。」
そう自分に言い聞かせるように呟きながら、衣装箱に整然と服を詰めていく。すると、その様子を見ていた侍女が不安げに声をかけた。
「奥様、一体何をなさっているのですか?」
ヴィヴィアンは微笑みを浮かべながら侍女に応じた。
「もうすぐこの家を去る準備をしているのよ。1年という契約が終われば、私はここを出て行くべきなの。」
その言葉を聞いた侍女は動揺した表情を浮かべた。
「そんなことをおっしゃらないでください。奥様がいらっしゃらなくなれば、公爵様もきっとお寂しいでしょう。」
「それは違うわ。公爵様にとって私はただの契約上の妻でしかないわ。」
ヴィヴィアンは冷静を装って言ったが、その声には微かに震えがあった。
夕方になり、ヴィヴィアンは屋敷の庭を歩いていた。咲き乱れる花々を見ながら、この場所とももうすぐお別れだと感じると、胸が締め付けられるようだった。彼女はこれまでに何度もこの庭を歩き、公爵夫人としての役割を自分に言い聞かせてきた。しかし今、彼女が感じるのは、自分の中に芽生えた新しい感情――それが何なのかはっきりとは言葉にできないが、ここを離れることが辛いと感じる理由がそこにあるように思えた。
そんな時、後ろから聞き慣れた低い声が聞こえた。
「ヴィヴィアン。」
振り返ると、アレクサンダーが立っていた。夕陽を背にして立つ彼の姿は、どこか普段よりも柔らかな雰囲気を感じさせた。
「公爵様……。」
ヴィヴィアンは驚きつつも、いつも通りの礼儀正しい態度で彼に応じた。
「こんな場所で一人何をしている?」
「庭を歩いていただけです。この庭は本当に美しい場所ですね。」
ヴィヴィアンがそう答えると、アレクサンダーは彼女の隣に立ち、庭の花々を見つめた。
「そうだな。この庭はいつも手入れが行き届いている。君がこの家に来てから、さらに美しくなったように思える。」
その言葉に、ヴィヴィアンは驚きを隠せなかった。彼がこんな風に褒めることは滅多にないからだ。
「ありがとうございます。ですが、それは庭師の方々の努力の賜物です。」
ヴィヴィアンが控えめに答えると、アレクサンダーは少しだけ微笑んだ。そして、彼女をじっと見つめながら言葉を続けた。
「ヴィヴィアン、君はこの家を去るつもりなのか?」
その質問に、ヴィヴィアンは一瞬息を呑んだ。彼がそんなことを直接聞いてくるとは思っていなかったからだ。
「契約が終われば、私はここにいる理由を失います。それが当然のことだと思っています。」
彼女の声は静かだったが、その中に宿る悲しみをアレクサンダーは感じ取った。彼は目を細め、少し間を置いてから低い声で言った。
「君がそう考えるのは仕方のないことだ。だが……私はまだ、その契約を終わらせたいとは思っていない。」
その言葉に、ヴィヴィアンの胸は大きく揺れた。彼の声にはいつもの冷たさがなく、むしろ真剣さと不器用な温かさが込められていた。
「どういう意味でしょうか、公爵様?」
ヴィヴィアンは自分の心の鼓動が速くなるのを感じながら問い返した。
「それを今すぐ説明するつもりはない。ただ、君がここを去ろうとするたびに……それを阻止したいと思う自分がいる。」
その言葉に、ヴィヴィアンはどう答えていいかわからなかった。ただ、彼の言葉が自分の心にどこか温かな灯火を灯したのを感じた。
「……公爵様、私にはまだ何もわかりません。ただ、あなたがそのように考えてくださることは、私にとって光栄なことです。」
ヴィヴィアンの答えに、アレクサンダーは微かに頷いた。そして二人はしばらく言葉を交わすことなく、夕陽に染まる庭を見つめていた。
その静けさの中で、二人の心には少しずつ確かなものが芽生え始めていた――それが愛と呼べるものだとは、まだ気づかぬままに。
4-2:セリーナの再来
ヴィヴィアンが公爵家を去る準備を進める中、その平穏な日常を破るように、セリーナ・モーガンが再び現れた。かつてのような高慢な態度を捨ててはいないものの、失脚してからの憔悴が見て取れる彼女は、今まで以上に執拗にアレクサンダーとの関係を迫ろうとしていた。
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その日、ヴィヴィアンが庭を歩いていると、遠くから聞き覚えのある声が聞こえた。彼女は振り返り、門の前に立つセリーナの姿を見つけた。高級なドレスを身にまとい、仰々しい態度で従者たちを引き連れている。彼女が現れただけで、周囲の使用人たちは顔を引きつらせていた。
「また来たのね……。」
ヴィヴィアンは心の中でそう呟いた。セリーナが公爵家を訪れる理由は明白だった。彼女はまだアレクサンダーを諦めておらず、公爵夫人であるヴィヴィアンを排除しようと再び動き出したのだろう。
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応接室では、アレクサンダーが冷たい視線でセリーナを見つめていた。彼は来訪の理由を尋ねることなく、ただ黙って彼女が何を言い出すのかを待っていた。セリーナはその沈黙に苛立ったのか、微笑みを浮かべながら口を開いた。
「公爵様、お久しぶりですわ。このところお忙しそうでしたけれど、少しお時間をいただけませんか?」
「手短に話せ。」
アレクサンダーの言葉は冷たく簡潔だった。それでもセリーナは怯むことなく、椅子に優雅に腰掛け、続けた。
「公爵夫人の座が、私でなくあの方に渡ったことは、もう仕方のないことだと思っています。でも……本当に公爵様が望む未来が、今のままであるのか、少し疑問に思いまして。」
彼女の言葉には明らかな皮肉が込められていた。しかし、アレクサンダーは感情を動かさず、ただその続きを促した。
「本題に入れ。」
「私は、公爵様が誰よりもふさわしい方と結ばれるべきだと思っています。それが誰かは……お分かりですよね?」
セリーナは自分の胸元に手を当て、期待するような目でアレクサンダーを見つめた。その行動はあまりにも露骨で、部屋に漂う空気は一層冷たくなった。
「ふさわしい相手が誰かなど、君が決めることではない。」
アレクサンダーの声は低く、重く響いた。その冷たい口調にセリーナは一瞬怯んだが、すぐに笑みを浮かべて反論した。
「では、どうしてあの方なのですか?あの方では、公爵家の名を高めることもできませんし、あなたを支えるには力不足ですわ!」
その言葉に、アレクサンダーの瞳が一瞬鋭く光った。彼はゆっくりと立ち上がり、セリーナに向かって言い放った。
「君には理解できないだろう。ヴィヴィアンは、この家に必要なものを持っている。それが君との違いだ。」
「必要なもの……?」
セリーナはその言葉を繰り返し、困惑した表情を浮かべた。
「そうだ。誠実さ、強さ、そして誰に対しても真摯に向き合う姿勢だ。君のように人を貶めて自分を高めようとする者には、一生手に入らないものだ。」
その言葉はまるで冷たい刃のように、セリーナの心を突き刺した。彼女の顔から笑みが消え、代わりに悔しさと憎しみが浮かび上がる。
「そんな……私は、公爵様を愛しているのに!」
彼女は叫ぶように言ったが、アレクサンダーは冷静な表情を崩さずに答えた。
「君のそれは愛ではない。ただの自己満足だ。」
その瞬間、セリーナの表情が歪んだ。彼女は椅子から立ち上がり、声を震わせながら言葉を絞り出した。
「……いずれ、後悔することになりますわ!」
そう言い放つと、セリーナは勢いよく応接室を出て行った。その背中にはかつての気高さはなく、敗北の色が濃く漂っていた。
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その様子を廊下からこっそり見ていたヴィヴィアンは、複雑な感情を抱えていた。セリーナの言葉には、ヴィヴィアンが抱える不安を正面から突きつけられるような鋭さがあった。
「私が……公爵様にとって本当にふさわしいのだろうか。」
彼女はそう呟きながら、その場を後にした。
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セリーナが去った後、アレクサンダーは一人応接室に残り、窓の外を見つめていた。彼の心には、ヴィヴィアンへの強い想いが芽生えていた。だが、それをどう伝えればいいのか、彼自身にもまだ答えが見つかっていなかった。
「ヴィヴィアン……君は本当にこの家を去るつもりなのか。」
静かに呟くその声には、これまでの冷徹さとは違う、温かみを感じさせるものがあった。そして、彼は彼女を引き留めるべきだと決意を固めていくのだった。
4-3:セリーナの最後の攻勢
ヴィヴィアンは執事の報告を受け、胸の中に不安を抱えながら応接室の前で立ち止まっていた。扉の向こうからセリーナの声が漏れ聞こえる。その声には挑発的な響きが含まれており、彼女が再び何かを企んでいることが容易に想像できた。ヴィヴィアンはしばらく躊躇したものの、足を引き返すことなく静かにその場を離れた。
「これは、公爵様の問題……私が関与するべきではないわ。」
そう自分に言い聞かせながら、自室に戻ろうとしたが、足が重く感じられた。胸の奥で渦巻く不安と、知らず知らずのうちに募りつつあるアレクサンダーへの想い――その二つが、彼女の心を掻き乱していた。
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一方、応接室の中では、アレクサンダーがセリーナと向かい合っていた。セリーナは豪奢なドレスを身にまとい、以前のような自信に満ちた態度で彼を見つめていた。
「こうして再びお目にかかれて光栄ですわ、公爵様。」
「セリーナ、何の用だ。」
アレクサンダーは冷徹な視線を向け、感情を一切見せない声で答えた。しかし、彼のその態度にも動じることなく、セリーナは微笑みを浮かべたまま続けた。
「ただ、かつての友人としてお話ししたいと思いまして。ですが、まずはお聞きしたいことがありますの。」
「手短に言え。」
彼の短い言葉に、セリーナの微笑みがほんの一瞬だけ歪んだ。だがすぐに取り繕い、声を低めて問いかけた。
「公爵様、本当にあの方と契約結婚の期限が終われば別れるおつもりなのですか?」
その質問に、アレクサンダーの表情が微かに変わった。
「それが君に何の関係がある?」
「もちろん関係がありますわ!」
セリーナの声が一瞬高くなり、応接室の空気が一気に張り詰めた。
「公爵様は本来、私と結婚するべきお方でした。それをあの人が横取りしたのですわ!」
彼女の言葉に、アレクサンダーの瞳が冷たく光った。
「君が自分の行いを忘れたとは言わせない。君が広めた噂、仕組んだ罠、それらすべてが私の信頼を裏切った。それ以上の話はない。」
セリーナはその言葉に顔を赤くしたが、怯むことなく反論した。
「それでも私は、公爵様の隣に立つのがふさわしいと信じています!ヴィヴィアン様は、公爵夫人として何の力も持たないではありませんか。」
その瞬間、アレクサンダーは深く息を吐き、セリーナをじっと見据えた。
「力があるかどうかは重要ではない。ヴィヴィアンが持つものは、君には決して手に入らないものだ。」
セリーナはその言葉に目を見開いた。
「……それは何ですの?」
アレクサンダーの声は低く、そしてどこか温かみを帯びていた。
「彼女は誰よりも誠実で、自分の務めを果たそうとする。そして、どんなに侮辱されようとも、決して怯まずに立ち続ける強さを持っている。それが、公爵夫人にふさわしい条件だ。」
その言葉に、セリーナの顔はみるみる青ざめていった。
「それでは、私は……。」
彼女が何かを言いかけたが、アレクサンダーは冷たく切り捨てた。
「君の居場所はもうない。私がこうして会うのも、今回が最後だ。」
セリーナは絶望的な表情で立ち上がり、震える声で叫んだ。
「公爵様、考え直してください!私は――!」
「帰れ、セリーナ。これ以上無様な姿を見せるな。」
アレクサンダーの冷たく断固たる声が響き、セリーナは言葉を失った。彼女は涙を堪えるように唇を噛みしめると、踵を返して応接室を出ていった。
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セリーナが去った後、アレクサンダーはしばらく静かに考え込んでいた。彼は視線を窓の外に向け、ヴィヴィアンのことを思い浮かべていた。
「なぜ、あの時もっと早く気づけなかったのだろう……。」
彼の胸には、これまで感じたことのない感情が広がっていた。それは、契約のためだけではなく、ヴィヴィアンを守りたいという強い想いだった。そして、その想いを彼女に伝えるべき時が迫っていることを感じていた。
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ヴィヴィアンは自室で静かに過ごしていたが、セリーナが訪れたことが気になって仕方なかった。応接室の扉越しに聞こえた言葉の断片――それが彼女の胸を締め付けていた。
「公爵様にとって、私は……。」
ヴィヴィアンはこれまで自分がただの契約上の存在だと思っていたが、最近のアレクサンダーの態度や言葉が、それを覆そうとしているように感じていた。
「私が離れることで、公爵様は少しでも困るのだろうか。」
その疑問に対する答えはまだわからなかったが、彼女の心の中には確実に芽生えつつある想いがあった。それが何かを理解するには、もう少しだけ時間が必要だった。
4-4:契約を越えて
セリーナが屋敷を去った翌日、ヴィヴィアンはこれまで以上に自分の胸中が乱れているのを感じていた。セリーナが公爵様にどのような言葉をぶつけたのか、アレクサンダーがそれにどう答えたのかは知る由もない。しかし、彼女の心には一つの恐れがあった。それは――自分がアレクサンダーにとって邪魔な存在なのではないかということだ。
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ヴィヴィアンはその日も荷造りを進めていた。契約結婚が間もなく終わる今、自分が去ることが公爵家のためであると信じようとしていた。しかし、彼女の胸には切り離せないほどの寂しさと名状しがたい感情があった。
「私がこの家を離れることで、公爵様が楽になるのなら、それが一番よ……。」
そう自分に言い聞かせながら、彼女は静かに涙を拭った。
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その夜、アレクサンダーは長い執務を終えると、深い息をついて立ち上がった。屋敷内は静まり返り、窓の外には満月が輝いている。彼は意を決したようにヴィヴィアンの部屋へと向かった。
扉の前で一瞬だけ立ち止まった彼は、軽くノックをした。
「公爵様……?」
ヴィヴィアンは驚きの声を上げた。アレクサンダーが自分の部屋を訪れることなど、これまで一度もなかったからだ。
「入ってもいいか?」
「もちろんです。どうぞ……。」
ヴィヴィアンが答えると、アレクサンダーは静かに扉を開けて部屋に入った。彼の表情はいつもと同じように冷静だったが、その瞳には何か強い決意が宿っているように見えた。
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アレクサンダーは部屋の中央に立ち、しばらく何も言わずにヴィヴィアンを見つめた。その視線に耐えきれなくなり、ヴィヴィアンが先に口を開いた。
「公爵様、どうなさいましたか?こんな時間に……。」
彼は深い息をついてから、静かに口を開いた。
「ヴィヴィアン、君はまだこの家を去るつもりか?」
その問いに、ヴィヴィアンは一瞬言葉を失った。しかし、すぐに微笑みを浮かべて答えた。
「はい。それが契約でしたから。私はここに留まる理由がありません。」
その言葉を聞いたアレクサンダーの表情がわずかに曇った。
「君は本当にそう思っているのか?」
彼の問いかけに、ヴィヴィアンは動揺しながらもうなずいた。
「もちろんです。公爵様もそれを望んでいらっしゃるでしょう?」
その言葉に、アレクサンダーは短く息を吐き、静かに首を振った。
「違う。私はそんなことを望んでいない。」
その一言に、ヴィヴィアンの瞳が大きく見開かれた。
「……え?」
アレクサンダーは彼女の反応を見つめながら、続けた。
「確かにこの結婚は契約から始まった。お互いの家の利益を考えた結果に過ぎなかった。だが、今はもうその契約に縛られるつもりはない。」
「どういう意味でしょうか……?」
ヴィヴィアンの声が震える中、アレクサンダーは一歩彼女に近づき、その目をじっと見据えた。
「君がこの家を去ることは、私には耐えられない。君がここにいることで、私は初めて自分が一人ではないと感じられた。君の強さ、優しさ、そして君が私を信じてくれたことが、私を変えてくれた。」
ヴィヴィアンはその言葉に完全に動揺し、視線を彷徨わせた。
「……でも、私は公爵様にふさわしい存在ではありません。私がこの家を去れば、公爵様はもっとふさわしい方と……。」
彼女がそう言いかけた瞬間、アレクサンダーが彼女の肩に手を置いた。その手は温かく、力強かった。
「それは君が決めることではない。私にとってふさわしいのは君だけだ。だから、お願いだ。ここにいてくれ。」
その言葉に、ヴィヴィアンは胸の奥が熱くなるのを感じた。彼が自分を必要としてくれている――それを初めて知った瞬間だった。
「公爵様……。」
ヴィヴィアンの瞳から涙が溢れ出した。彼女は感情を抑えることができず、ただアレクサンダーを見つめ続けた。
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その夜、二人は長い時間をかけて互いの想いを語り合った。契約結婚という形から始まった二人の関係が、ようやく本当の絆へと変わり始めたのだ。
翌朝、ヴィヴィアンは荷物を解き、屋敷に残ることを決めた。アレクサンダーの側で、自分にできることを精一杯果たそうと心に決めていた。そして、アレクサンダーもまた、彼女を守り抜くことを誓っていた。
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エピローグ
それから数か月後、公爵家の庭には美しい花々が咲き乱れていた。その中で、アレクサンダーとヴィヴィアンは並んで歩いていた。二人の間には、かつて感じた冷たい距離はもうなかった。
「公爵様、これからもよろしくお願いいたします。」
「いや、ヴィヴィアン。これからはお前が私を導いてくれ。」
二人は静かに微笑み合い、手を取り合った。契約から始まった愛が、ようやく真実のものとなった瞬間だった。