夏休み初日は悪夢にうなされて起こされた。
昨晩のことが頭から離れない。そのせいでベッドから転げ落ちる始末だ。
それだけじゃない。
もう一つ懐かしい匂いがした。暖かいお日様の香りで泣き虫だった幼き日の自分をいつも落ち着かせてくれた同い年のお姉さん。
「
五条家はどこにでもあるマンションの一室に住んでいるが、そこに住んでいるのは晴也とその母親――
「コラッ晴也! アンタなんて格好してるの! 早く顔を洗って着替えてらっしゃい!」
「ご、ごめん、母さん!」
晴也は半袖のパジャマにトランクス一丁となんとも抜けきった格好に慌てて洗面所に駆けて行った。
「ごめんね、空ちゃん。アイツ、初めて朝帰りしてそのまま寝ちゃってたの。なんでもね。昨日好きなコからデートに誘われたらしいのよ。あの様子だと上手くいったんじゃないかと私は睨んでるわ。空ちゃんはどう思う?」
「そうですね。夏期講習を忘れるくらい幸せな一時だったと思いますよ」
空は優しく微笑みながら言う。
美月はそんな仕草を見てつい頬を赤らめてしまう。空が女の子というにはあまりにも美形で、微笑むと男子顔負けの美男子に変身してしまうからだ。
そこへ朝の支度を終えた晴也が急いでリビングに入ってくる。
「ごめん。遅くなって」
晴也は言って席に座るや焼きたてのトーストを頬張る。さらに添えてあったコーンスープを一気飲みして口いっぱい入ったトーストを流し込む。
美月は行儀というものが一切なっていない息子の食べっぷりに呆れて何も言えなかった。訳もなく、眉間にシワを寄せ詰め寄ろうとする。しかし、そこに空がいることで怒りが自然と治まった。
目の保養と言うのだろう。本当にいい顔をしているな、と美月は凛々しい空の横顔に見惚れていた。
「晴也、そろそろ時間」
「あ、うん。ごめん」
晴也は空に促されるまま席を立ちリュックを背負う。
「いってきます!」
「いってきます」
二人はせっせと靴を履いてマンションを後にした。
☆☆☆☆☆☆
「なんで天道さんと一緒に登校してるの?」
通学路でばったり会ってしまった人物に晴也は慌てふためく。
昨日の夕方晴也の彼女になった
間違いなく誤解している。陰キャを自認している晴也でも容易に分かってしまう構図だ。
学校一の人気者である沙耶と才色兼備にして一部の界隈では『天童』と呼ばれている空が睨み合う。正確には空はただ沙耶のことを「かわいいコだなあ」と思いながら見ているだけなのだが、それが無表情で行われているため、沙耶からすれば睨まれているように見えてしまう。
晴也はまるで二人の目から見えない稲妻が迸りぶつかっているように見えるが、その沈黙を破らなければならないのは自身なため、無理矢理間に割って入る。
「ごめん。片桐さん。実は僕と天道さんは幼馴染なんだ」
「え、でも……学校で話してるところ見たことないし……」
沙耶は俯きながら言う。
まただ。晴也はまた大切な人を泣かせてしまうと思った。だからか慌てて弁解の言葉を述べようとするが言葉が浮かんでこない。告白を受けた時もそうだが、どうして自分はこうも大事な時に何も言えないのか。晴也は情けない自分を殴ってやりたいと思った。まさにその時だった。
沙耶がついに泣いてしまったのか肩が震え始める。そして、怒ったのか勢いよく顔を上げたかと思えば、その表情は太陽のように明るい笑顔を浮かべていた。
「なーんてね! ごめん、五条くん。実は知ってたんだ。二人が幼馴染だって。時々、一緒に登校してるのも何度か見たことあるし」
「え、ええ、じゃあ、怒って……ない、ですか?」
「怒る訳ないじゃん。そりゃあちょっとは妬けちゃうけど、天道さんと五条くんの関係は好きとか愛とかとは別物でしょ? だったらそれは大切にしなくちゃいけない繋がりだよ」
最後にニコッと笑顔を浮かべてから沙耶は晴也の右腕にしがみついた。
「か、片桐、さん……そ、その……あ、当たって……」
晴也は右腕から伝わってくる柔らかい感触に顔を真っ赤にして目を回す。
沙耶はそんな晴也の反応が可愛かったのか、悪戯っ子のような笑顔を浮かべてさらに強く抱きしめる。
空は二人の微笑ましい姿を見て何を思ったのかスマートフォンを取り出し一枚だけ写真を撮った。
晴也もそうだが沙耶もまさか空が写真を撮るなんて思っておらず、驚いて目を見開いていた。学校でもそうだが、空はいつも冷静であまり感情を表に出さない。そのせいか無愛想な人だと思われることもしばしばあった。それでもいじめが起きず、嫌われ者にならなかったのは彼女の本質が人と関わるのが極端に苦手な優しい人物だと皆が知っているからだ。
クール系ギャル。それが空である。
そんな彼女が二人の仲睦まじいベストショットを納めたのだ。驚かずにはいられない。
「あとで送る。それじゃ、先に行くね」
空は言って颯爽と通学路とは別の道を進んでいった。
沙耶は道を間違えていると思い声を掛けようと思ったが、すぐにやめた。決して意地悪をしたかった訳ではない。空の本来の通学方法を知っているからである。
成績優秀者にのみ許されたバイク通学。
直後、どこからかけたたましくも軽快な排気音が聴こえた。
「ホント、かっこいいよね、天道さんて」
「うん。幼馴染として鼻が高いよ」
沙耶は「五条くんもかっこいいよ」と心の中で呟いた。面と向かって言えなかったのは言うまでもなく恥ずかしかったからだ。今まで恥ずかしくて言えなかったことなんてなかった。
だから思う。
晴也は本当に運命の人なんだと。
だからこそ言わなければならない。今まで誰にも教えたことのない幼少期に体験した悪夢のことを。
同時に晴也も昨晩の地獄のような体験を言うべきかどうか思い悩むのだった。