夏季講習は午後三時まで行われた。
晴也は一度伸びをしてからノートを鞄に入れ、時間を確認してから席を立つ。学校の閉門時間にはまだ余裕があった。夏休みであっても部活があるため、今日も夕暮れまで開いている。
「五条くん。この後、どうするの?」
隣に座っていた沙耶の問いに晴也は困ったような顔をする。
本当は図書室に寄って調べものをしたかった。もちろん調べるのは昨晩の化物とその化物が言っていた『レガリア』である。それとこの辺一帯のデートスポット。出来れば沙耶には見られたくなかった。
沙耶は晴也の表情から察して「先に帰るね」と一言残して教室を後にした。
そんな彼女の背中はどこか寂しそうで見過ごすことが出来なかった。
晴也は教室から勢いよく飛び出し沙耶を呼び止める。
「待って片桐さん! 僕も一緒に帰る!」
「え、いいの? 残って勉強するんじゃないの?」
「あ、うん。大丈夫。ホントはもう志望校の方は推薦で受かってるから」
「え、そうなの⁉」
晴也の衝撃発言に沙耶は目を丸くして思わず叫んでしまった。その声が廊下に響き渡り、教室に残っていた生徒が何事だと出てくる。
二人はしまったとばかりに互いに顔を見合ってから昇降口まで走った。そうでもしなければ他の生徒たちに真っ赤になった顔を見られてしまっていたから。二人は昇降口に着くと恥ずかしさと胸の高揚が相まってなぜだか笑ってしまった。
ひとしきり笑ってから晴也が口を開ける。
「片桐さん、足速いんだね」
「えへへへ、実は中学の時、結構有名だったんだよ」
「今も十分有名だと思うんだけど」
晴也は苦笑しながら頭を掻く。
「そんなことより五条くん、もう大学決まってるって本当?」
「うん。専門学校だけど。ここから電車で三十分くらいのところなんだ」
「へえ、ちなみに何の専門学校なの?」
「あ、えっと……笑わない?」
「もちろん! 五条くんの好きなものも目指したいものも絶対に笑わないよ!」
沙耶がやけに気合の入った声で言うものだからまたしても周りの生徒たちの視線を集めてしまう。
気恥ずかしくなった晴也は靴を取りに行こうと沙耶を促す。
「歩きながらで良いかな? 最近、と言うか昨日から夜が怖くて」
「夜が怖い?」
沙耶はいつもおどおどしている晴也とは別の何かに怯えているように見えて了承した。
校門をくぐり帰路につく。
外に出るとやはりと言うかけたたましい蝉の鳴き声と共に灼熱の陽光が町を照らしている。さらにはアスファルトの地面を熱が反射してより一層熱く感じてしまう。
一歩踏み出す度に汗がにじみ出てくる。
「ごめんね。僕のわがままで」
「わがままじゃないよ。だって外に出ないと家に帰れないじゃん」
晴也は沙耶の優しい笑顔に自然と感謝の言葉を述べていた。
「それより、何の専門学校に行くの?」
「小説の、作家とかを目指せる学校かな」
「すごっ! 五条くんは小説家になりたいの?」
「うん。小さい時から物語を考えるのが好きで。今も無料投稿サイトでいくつか書いてる。まあ、最後まで書き切れない半端者だけど」
「そんなことないよ! とっても凄いことだよ!」
沙耶は嬉しかった。自分の知らない晴也のことを知れてとても嬉しかった。だからこそ、沙耶も打ち明けようと思った。幼少期に見た悪夢とは別の隠し事を。
「次は私の番だね」
「え?」
晴也はきょとんとした表情を浮かべて沙耶の話に耳を傾ける。
次の瞬間、何かに睨まれたような背中を刺されたような視線を感じた。沙耶には気付かれないように辺りを見回すが誰も何もいない。いや、目に見えていないだけでいるのかもしれない。昨晩、晴也を襲った化物が。
幸せから一転して恐怖で心臓が張り裂けそうになる。
――もし昨日の化物がまだ僕を狙っているならまずい。
沙耶を危険に晒す訳にはいかない。そう思い、晴也は目を右往左往させながら頭に浮かんだ言葉を乱雑に繋げ、この場から離れることにした。
「急用を思い出したから、ごめん! また後で連絡するから!」
駆け出す晴也。
沙耶を守るためとは言え嘘をついてしまったことが辛い。それでも晴也は走った。大切な彼女を傷つけないために。生きて明日を迎えられるように。
☆☆☆☆☆☆
学ばない奴だな。
晴也は自分の無能っぷり呆れてしまった。無我夢中で走っていたとはいえ、またしても人気のない路地裏に逃げ込んでしまっていた。それも今度は近くに廃工場があり、いよいよもって誰も近寄らない場所に来てしまった。
昨晩と違って恐怖と緊張で足が硬直していない。だからまだ走ろうと思えば走れる。それでも走らないのはここで化物を倒すためだ。そして、あわよくばまた全身を包むベージュのパワードスーツを着た女性が助けに来るまでの時間稼ぎをする。
本当は嫌だけど。殺す気でやるしかない。
意を決した晴也は拳を強く固く握りしめる。
『ケッケッケ!』
来た。
どこからともなく聞こえてくる下品な笑い声。間違いなく昨晩の化物のものだ。
晴也は、自分はここだ、と言わんばかりに物陰から飛び出し身構える。その時の晴也の瞳には光が失われていた。
『そうだ、それだ! お前には闇を感じる!』
嬉々とした声が背後から聞こえてくる。さらに鼻孔をつんざくような悪臭が周辺に漂う。
晴也は振り返ると同時に右拳を振り抜く。渾身の一撃とまではいかないが、普通の人間なら左頬に直撃して気絶させられるくらいには力を込めた。
しかし、その拳は左手一つで簡単に止められてしまった。
まだ明るいお陰で化物の姿がはっきり見える。
全身が黒く、頭には蟻のような触覚が額から生えており、乱杭歯のような牙を生やしている。目は人間と同じく二つあるが、瞳はなく、白目のみだ。手足に生えた爪は鋭い刃物のようで、腰の辺りからは先端が鋭利に尖った尻尾が伸び不気味に蠢いている。
人間と似通ったシルエットをした人型の化物。
その化物に対抗するには人間の力では無力なのだと改めて思い知らされる。
――スイッチを入れた状態でも駄目なのか。
厨二病的な考えかもしれないが、本来の晴也の身体能力は、幼少期から中学校を卒業するまで通っていた道場が原因で普通の人間を凌駕していた。それを表に出さないためにスイッチを設けていた。
しかし、身体能力を解放した状態でも化物には通用しなかった。普通の人間相手なら十人までなら無傷で地に伏すことができる。つまり、目の前の化物の強さはたかだか十人如きの人間をあしらえて全く意味がないと言うことだ。
『なかなかいい拳だ。お前、本当に人間か?』
「クソッ!」
晴也は右拳を戻し、今度は懐に入り込むように踏み込んでから腰の入った左拳のリバーブローをお見舞いする。人間が受ければあばら骨が粉砕される一撃だ。それでも化物は少しよろけて咳き込む程度だった。
左拳がズキズキする。最初に受け止められた右拳も熱を持ってしまったのか、感覚が鈍くなっている。
『お前を食らえば奴を殺せるだけの力を手に入れられる。大人しく食われろ!』
「奴って私のこと?」
聞き覚えのある女性の声に晴也は振り返る。その目には闇ではなく、希望の光が宿る。
その光を受けた女性はやれやれと言わんばかりにゆっくりと歩み寄る。
全身を黒い繊維状のようなもので覆い、その上からベージュ色の装甲を纏った女性戦士。頭部には人間の顔を模したフルフェイスマスクのような甲冑で覆われており、額からは二本の角型アンテナがV字に伸びている。二つの丸いカメラアイは獲物を狩るため黄色い輝きを放つ。
これから女性戦士による狩りが始まる。