夜。俺はベッドの上でスマホをぼーっと眺めたまま、今日のことを考えていた。
蓮実先輩とミツキさんの間に流れていた、張り詰めた空気。
あの後は、俺がなんとか装丁案の話を続けることで、ようやく収まった。
蓮実先輩が、あんなにも喜んでくれていたことを、知らなかった。
「三郎くんは、いつも私の目を見て話してくれる。それが、実は、すごく嬉しかった」
あの時、触れた指先の温度。頬を染めた先輩の顔が忘れられない。
一方。ミツキさんは、俺が自分の悩みに付き合ってくれたと、感謝してくれていた。
「私の悩みにも付き合ってくれて……本当に感謝しているんです」
どちらの言葉も、俺の中で揺れて、ゆれて、蠢き続けて居る。今も生きている生々しい言葉として、そこにある。
俺は……気づかないうちに、彼女たちの「弱さ」に触れていた。
それは。何か、とても、いけないことのような気がしてならない。俺はあくまで彼女たちの秘密を垣間見てしまって、さらに初めて作った本を汚してしまった。それだけだ。
しかし自分に言い聞かせるたびに、妙に胸のうちが、痛くなる。その痛みの理由に気づかないよう顔を伏せようとした、その時だった。
「電話? こんな時間に……」
画面を見てびっくりした。ミツキさんからだ。
俺は一瞬ためらったが、すぐに通話ボタンをタップした。
「もしもし、ミツキさん?」
『三郎くん……ごめんなさい、こんな時間に』
彼女の声は、いつもより少しだけ震えているように聞こえた。
「どうしたんですか? 何かあったんですか?」
『……どうしても、今、話しておきたいことがあって。もし、迷惑じゃなかったら……少しだけ、付き合ってくれませんか?』
彼女の声には、焦燥と、ほんの少しの懇願が混じっていた。俺は、昼間の資料室での動揺する姿を思い出す。
「もちろん、いいですよ。どうしたんですか?」
『ありがとう……。実は……』
電話口から聞こえるミツキさんの声は、途切れ途切れで、今にも泣き出してしまいそうだった。
『蓮実先輩……本当は、私たちの合同誌を『作り手市』に出したがっていたんです』
その言葉に、俺は息をのんだ。作り手市、それは県内でも有数の、大規模な同人イベントだ。
たしか、参加申し込みはもう日がない。申し込むのだとしたら、あの日、2人の合同誌が完成間近になっていたのにも頷ける。
『でも……私が詩の制作をなかなか進められなくて、それに、一度は自分で『完璧じゃない』って、先輩に原稿を突き返してしまったから……申し込みはしてないって、言っていたんです』
ミツキさんの声が、さらに小さくなる。
『あの時、先輩は『仕方ないね』って言ってたけど……本当は今も、申し込みたいって思ってるんじゃないかなって。私には、そう見えました』
知らなかったとはいえ、想像すべきだったとも思い、胸が痛む。
俺が参加していたあの古本市。あの会場を運営している人たちは、作り手市にも関わっている。現地で直接、参加申し込みも受け付けていたはずだ。
『……三郎くんに言われた言葉が、ずっと頭から離れなくて。納得できるものを目指そう。完璧を目指したっていいんだ。悩み続けたっていいんだ……。だけどそれなら、先輩が納得するものを出す機会を、奪っていいのかとも思えて。『作り手市』に出しても、本当は大丈夫だったんじゃないかって……』
その言葉は、ひどく孤独で、痛々しかった。彼女を励ませたらと思って伝えた言葉が、まさか逆に苦しめていたなんて。
『でも……昼間のことがあって。私、先輩に、あの時は話せなかった。三郎くんが、蓮実先輩の装丁を手伝ってるのを見て……なんだか、言葉が出なくなってしまって』
ミツキさんの正直な告白に、俺の胸は締め付けられた。昼間の、あの牽制し合うような空気の裏には、こんな切ない思いが隠されていたのか。
「ミツキさん……」
俺は、無意識のうちに、スマホを握る手に力を込めていた。
「先輩に、俺が聞いてみます。もしそれで、先輩がイベントに出たいと言ったら、ミツキさんは詩の完成を目指せますか?」
電話越しでもわかるくらい、ミツキさんの息を呑む音が聞こえた。
『っ……! ……ええ、もちろん!』
「なら。聞いてみます」
通話を終えると、俺はすぐに蓮実先輩にメッセージを送った。
「明日、放課後、少しだけお話できませんか? 前に一緒に行った、あの古本屋で」
数分後、蓮実先輩から「ええ、構わないわ」と返信があった。俺は、翌日へと希望を繋ぎ、スマホを握りしめたまま、ベッドに沈むのだった。
===
翌日、放課後。俺は蓮実先輩との待ち合わせ場所である、あの古びた書店へと足を運んだ。古びた木の扉を開けると、独特の紙とインクの匂いが俺を包み込む。先輩はすでに店の奥、前に背伸びして本を取ろうとした本棚の近くで、文庫本を手にしていた。
「先輩」
俺が声をかけると、先輩は静かに顔を上げた。夕暮れの光が差し込む店内で、彼女の表情はどこか儚げに見えた。
「三郎くん。遅かったじゃない」
茶化すような言い方をした先輩だが、その顔は僅かに強張っている。
店を出た後。俺は、ミツキさんから聞いた話を、慎重に、しかし率直に蓮実先輩に伝えた。作り手市のこと、ミツキさんが詩の完成を遅らせてしまったこと、そして先輩がそのイベントへの参加を諦めたのではないかと気にしていること。
俺の言葉を聞き終えた先輩は、静かに目を閉じた。そして、ゆっくりと息を吐き出す。
「……そうね。本当は、参加したいと思ってるわ」
先輩の声は、静寂に吸い込まれるように、小さく、しかし確かな響きを持っていた。その言葉は、俺の胸に強く響いた。やっぱり、先輩は諦めていなかったのだ。
俺はすぐにミツキさんに電話をかけた。スピーカーモードにして、蓮実先輩にも聞こえるようにする。
「ミツキさん! 蓮実先輩、『作り手市』に参加したいって言ってます!」
電話口から、ミツキさんの小さな「えっ!?」という声が聞こえた。
『本当ですか……? 先輩、私なんかのために、諦めてくれてたのかと……』
ミツキさんの声は、震えていた。俺は蓮実先輩にスマホを渡し、二人の会話を見守る。
「ミツキ。馬鹿ね。あなたが諦めたから、私も諦めただけよ」
蓮実先輩の声は、いつもの凛とした響きに戻っていた。
『先輩……』
「でも、あなたがその気なら、私も全力で協力するわ。さあ、どこに悩んでいるのか、ちゃーんと教えてちょうだい。私にも協力できることがあるはずよ」
蓮実先輩の言葉を聞いたミツキさんは、電話口で小さく嗚咽を漏らした。そして、すぐに気持ちを奮い立たせるかのように、声のトーンがぐっと上がるのがわかった。
『はい! 先輩と、三郎くんの言葉を聞いて……私、書けそうな気がします! 完璧じゃなくても、私の心の中にあるものを、そのまま形にしてみます! 今から、徹夜で仕上げます!』
ミツキさんの声には、迷いや不安は一切ない。確かな決意が宿っていた。
「三郎くん、ミツキのこと、見ててあげてちょうだいね」
蓮実先輩は俺にスマホを返しながら、そっと微笑んだのだった。