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第2話:離婚したいので、秘書にアポを取った

「……あの冷たい父親と、卑屈な母親の家なんて、もう帰らなくていいわ」

梨々は心の中でそうつぶやいた。あの家に縛られる日々は、もう十分すぎるほど味わった。

東雲琢磨は険しい表情のまま、無言で二階に上がってきた。だが彼女を引き留めようとはせず、ただ冷ややかな視線で梨々が荷物をまとめる様子を見ていた。

深夜4時。外は真っ暗だが、室内は照明のせいで昼のように明るい。

梨々は真っ白な顔で部屋から出てきて、スーツケースのファスナーを「ジッ」と引き締めた。その瞬間、すれ違いざまに東雲琢磨が吐き捨てるように言った。

「神崎梨々、俺はお前に戻ってこいなんて頼む気はない。そう思っておけ」

梨々の胸がまた一つ軋んだ。

その声色には苛立ちと怒り、そして露骨な嫌悪感が滲んでいた。

「俺は最近忙しい。離婚したいなら、まず秘書にスケジュールを取らせろ。

夫婦の情ってもんが気になるなら言っておくが――まだ正式に予定が決まる前にお前が後悔するなら、今夜のことは水に流してやってもいい。」

言って、琢磨は背後を振り返った。

梨々のスーツケースはパンパンに詰められ、ベッドサイドの写真立ても、ぬいぐるみも、きれいに消えていた。

彼の胸には、使える部下に突然辞表を叩きつけられたような、釈然としない不快感が湧き上がる。

彼女の望むものは、すべて与えてきたつもりだった。

結婚して2年間、金の使い方に口を出したことはない。家のことも、すべて任せていた。

――神崎梨々、お前は一体、何が不満なんだ?


だが確信もある。

どうせ神崎家は離婚なんて許さない。彼女が帰れば、親に怒鳴られ、追い返される。

「自立して生きていく」? そんなの、口先だけだ。

甘やかされて育ったお嬢様に、朝9時から夕方5時の労働なんて耐えられるはずがない。

……と思っていたのに、彼女がスーツケースを引いて決然と玄関へ向かう背中を見たとたん、胸に冷たい風が吹き抜けた。彼女が玄関で車の鍵を手にした瞬間、2階の手すりから見ていた琢磨が低く言った。

「その車、俺が買ってやったやつだ」

たしかに、値段はたった200万円そこそこ。

だが、運転を始めたばかりの梨々が「高級車に傷がつくなら大変」と選んだ安めのものだった。

最終的にカードを切ったのは彼だった。――真希には数百万円のジュエリーをプレゼントしておいて、私にはその程度の車さえ渋るの?


秋の冷たい風が窓の外で木の葉を巻き上げていた。

梨々はその言葉に心底冷え切ったように、手のひらの中で鍵を握りしめ、深く息を吐いてからそれを玄関に放り投げた。そして、スーツケースを引いて、一度も振り返らずに家を出て行った。

夜風が黒髪を乱し、その細い体が闇に溶けていく――

琢磨はその姿を、ドアが「バタン」と閉まるまで見送った。やがて彼は部屋に戻り、寝室の窓から街灯の下にぽつんと立つその小さな人影を見つめた。

この家は郊外にあり、都心までは車で1時間以上かかる。

電車もバスもない。車がなければ、どうせ戻ってくる。そう思っていたのに――彼女は歩いて、風に逆らって、どんどん遠ざかっていく。

そして、ついに視界から完全に消えた。

琢磨は皮肉な笑みを浮かべた。

「……つくづく、くだらない意地張り女だな」


──

梨々は住宅街を抜けてから、ようやく親友・芹沢柚子せりざわゆずに電話をかけた。

柚子が車で迎えに来たときには、彼女はすでに1時間近く寒風にさらされていた。

長いまつげには霜がつき、指は真っ赤に腫れ、ひび割れていた。柚子はすぐに車を降り、梨々を助手席に押し込み、スーツケースをトランクに投げ入れて自分も運転席へ。

「電話で離婚って言ってたけど、どういうことよ……」

疑問が山ほどあったけど、梨々の表情があまりに虚ろで、何も言い出せなかった。

車の中は暖房で温かく、まつげの霜もすぐに溶けて水滴になった。

その温かさに触れたとたん、梨々の張りつめていた心が崩れ、涙がとめどなく流れ出した。

大粒の涙が真っ赤な手の甲に落ちて、火傷するように熱い。

「……ねぇ、もしかしてあの真希の誕生日会が原因?」

あの豪華なパーティーはSNSで話題になっていた。柚子ももちろん知っている。

「違う。もう、離婚するって決めたの」

梨々は力なく答えたが、その声には揺るがぬ決意があった。

柚子は眉をしかめ、小さく問いかける。

「でも……ちゃんと話した? 誤解かもしれないじゃん」

「誤解かどうか、これを見たら分かる」

梨々はスマホを取り出し、あの映像を再生して彼女に手渡した。

浮気のことを問い詰める前に、琢磨の態度がすでにすべてを物語っていた。

柚子は画面を見て、急いで車を路肩に寄せた。

「……はあ!? マジで!? あの男、浮気しておいて開き直ってんの!?

真夜中に妻を一人で追い出すなんて、どの口が言ってんだ! 貴様が出て行けよ!」

梨々はスマホを引き取ると、ぽつりと呟いた。

「……私はこのこと、彼の前で一度も責めなかった」

「なんで!? 悪いのはあっちなのに!」

「騒ぎ立てたって、惨めになるのは私の方だから」

浮気を暴いたところで、何も変わらない。

東雲家と対等に戦えるわけでもない。神崎家はすでに東雲家の庇護に頼っている。両親もきっと、自分にと言うだけだ。

柚子は言葉を飲み込んだまま、車を再び走らせた。

芹沢家は、娘である彼女に、大学卒業後、都心に一人暮らし用の高級マンションを買ってあげた。

夜明けが近づく頃、ようやくマンションに到着した。

荷物を整理した後、梨々はソファに腰を下ろし、ぼんやりと前を見つめた。

そんな彼女を見て、柚子が問いかける。

「……これから、どうするつもり?」

「まずは、琢磨の秘書に連絡して、離婚の手続きの予定を取ってもらう」

少し間を置いて、ぽつりと続けた。

「それと……仕事を探す。自分で稼いで、自分で生きていく」

月に100万円の生活費――普通なら自由に遊んで暮らせるほどの額。

けれど梨々は、琢磨の日常を完璧に整えるため、衣食住すべてに最高のものを用意し、

週に一度は東雲家の実家に顔を出して贈り物を届けていた。手元に残ったのは、たったの10万円。

「……じゃあさ、仕事見つかるまで、うちでバイトしてよ!」

柚子は笑顔で言ったが、これは冗談ではない。

「ちょうど予約してたピアニストが急遽辞退になったのよ!」


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