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第3話:離婚のスケジュール、予約済みです

柚子は芹沢家が経営するいくつかの高級フレンチレストランを管理していて、毎日のように業界で名の知れたピアニストを招いて演奏させていた。

梨々は幼い頃からピアノを習っていて、すでにプロ並みの腕前。プロの演奏家と肩を並べられるほどの実力を持っている。

柚子が気を紛らわせるために仕事を振ってくれたことは、梨々にもすぐに伝わった。――何もせず考え込むより、何かしていた方がまし。だから、梨々は頷いた。「うん、やってみる。」

柚子も忙しい人で、家に一緒にいてあげることはできない。

「じゃあ、ひと眠りして、午後になったら表参道の店 に直接向かって。私は仕事で迎えに行けない」

「大丈夫、自分で行くよ。柚子は柚子の仕事をして」

梨々と柚子は幼稚園からの親友。大学は別々だったけれど、関係が冷めるどころか、神崎家の没落以降はむしろ深まったほどだった。

気のおけない相手に、変に遠慮する必要なんてない。

柚子を見送ったあと、神崎梨々は東雲琢磨の秘書・園田司に電話をかけた。

「奥さま……予約ってそれは冗談ですよね?」

園田はしばらく黙り込んでからやっと返事した。

「旦那様にご用があれば、夜ご帰宅されたときに直接お話しされればいいのでは?」

「離婚の日程を調整したいんです」と、神崎梨々ははっきり告げた。

その言葉を口にした瞬間、鼻の奥がツンとして、視界がうるんだ。

けれど、顔を上げて、涙は絶対にこぼさなかった。

園田が息を呑んだのが聞こえた。

「……ですが、東雲様はこのところ非常にお忙しく、今週の予定はすでに埋まっております」

「では、来週でお願いします。」

梨々は握り締めた手に力をこめ、震える声を押し殺して答えた。

「会社に出て確認してから、改めてご連絡します」

園田は自分の判断では動けず、電話を切るなりすぐに東雲琢磨へ連絡した。

妻が帰ってくるのを待っていたところに、まさかの「離婚の予約」。

東雲琢磨は怒りのあまり、冷笑をもらした。

「まったく、いい度胸してるな」

不機嫌な空気を察した園田が「では、少し引き延ばしておきましょうか?」と問うと――

「いや、必要ない」東雲は皮肉げに唇を吊り上げた。

「来週の水曜、午前九時。区役所前でいい」

時間を延ばしたら、あたかも自分が離婚を嫌がっているみたいではないか。どうせ三日もすれば、梨々の方から戻ってくる。

すぐさま園田は梨々へ返信した。

「来週水曜、午前九時。区役所前でお会いしましょう」

梨々は疲れていたのに、どうしても眠れなかった。

胸の奥が締めつけられるように苦しくて、布団に潜っても、心臓の鼓動が耳に響いて仕方なかった。

ついには堪えきれず、熱い涙が頬をつたい、枕と髪を濡らしていった。

園田からの返信を見た瞬間、かすかに残っていた希望の火が完全に消えた気がした。

何を待っていたんだろう。東雲琢磨が「やっぱり離婚はしない」と言ってくれるのを? あんなひどい言葉を謝ってくれるのを?

でも――彼はそういう人じゃない。

そして自分も、「夫が浮気しても我慢する妻」にはなれない。

二年という時間は、決して長くない。けれど、梨々にとってはそのすべてが琢磨だけで満ちていた。

全力でこの結婚に尽くしてきた。彼に嫁ぐ前の自分が、どんな風に生きていたかすら思い出せないほどに。


――

夕方。梨々は簡単にメイクをして、表参道 のレストランへ向かった。

少し渋滞していたが、なんとかディナータイムのピークに間に合った。

すでに柚子が入り口で出迎えてくれた。タクシーから下りた梨々を見て、「あっ、そっか、今もう車ないんだっけ。」

「うん、大丈夫。」梨々はそう言って彼女のあとをついて店に入った。

すでに準備してあったドレスを渡され、控室で着替える。

「ちゃんと寝た? 顔色、よくないよ」

「平気」と、笑って答えるが、その顔はやはり蒼白い。

長いスカートのドレスに身を包み、ピアノの前に座る。譜面はすでに用意されていた。

深く息を吸って、真っ白な指を鍵盤へ置くと、店内に穏やかな旋律が広がっていった。

その音に気づいた誰かが、二階のVIPルームの窓辺で視線を下に向ける。

スーツ姿の外国人が隣に座っており、男はそっと耳打ちするように話しかけた。

演奏が終わって五分後、店員が梨々の元にやってきた。

「神崎様、二階のVIP席にいらっしゃるお客様からリクエストがありました。という曲をお願いしたいそうです」

柚子は、梨々の実力を信頼している。この二階部屋のピアノは普段なら使わせないが、報告を聞いてすぐにOKを出した。

梨々はスカートの裾を持ち上げながら二階へ向かう。案内されたドアが開いた瞬間――

そこにいたのは、東雲琢磨と……橘真希だった。


深紅のテーブルクロスがかけられた四角いテーブルの上には、グラスに注がれたワインが光を屈折させて揺れており、その光が三人の身体を淡く照らしていた。

東雲琢磨の深く澄んだ瞳と視線が合った瞬間、梨々は思わずその場で足を止めてしまった。

男は漆黒のオーダースーツを身にまとい、短く整えられた髪に、端整な眉目立ち。

まくりしたシャツの袖口からは、パテック・フィリップの腕時計がちらりと覗いている。

立ち居振る舞いの一つひとつから、成功者の余裕と洗練がにじみ出ていた。

彼の隣には、白いスーツに身を包んだ橘真希が座っていた。

艶やかな黒髪は大きめのウェーブがかけられ、背中にふんわりと流れている。

しっかりした雰囲気をまといながらも、東雲琢磨の隣にいることでどこか「女らしい柔らかさ」が際立っていた。

彼らの向かいには、40〜50代ほどの外国人男性が一人。

どうやら、ロマンチックなデートではなく、クライアントとのビジネスミーティングのようだった。

――にもかかわらず、その光景を目にしただけで、梨々の胸はひどくざわついた。

彼らを見つめながら、同じように自分にも視線が向けられていることを感じた。



東雲琢磨の切れ長の瞳が、すっと細められる。

ワインレッドのセットアップドレスに身を包んだ彼女は、ゆるやかに波打つ海藻のような長髪をなびかせ、足を進めていた。

小さな顔立ちは、清らかさと艶やかさを同時に併せ持ち、その対照的な魅力はまったくぶつかることなく調和していた。

美人だとは知っていた――だが、ここまでとは思わなかった。

この二年間、彼は彼女を一度も正式な場に連れて行ったことがなかった。記憶にあるのは、家でリラックスした格好の姿ばかり。

今の梨々は、その印象をすぐに覆すほど鮮烈だった。

どうせ――園田秘書から彼のスケジュールを聞き出し、わざとこの場に現れたのだろう。

東雲琢磨の唇に、冷ややかな笑みが浮かぶ。

女の浅はかな計略など、見透かすのはたやすい。


「東雲社長、そちらの女性をご存知ですか?」

向かいに座る外国人男性が、彼の視線があまりにも長く留まっていることに気づき、英語で問いかけた。


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