東雲琢磨は一瞬視線を向けただけで、すぐに目を逸らした。冷ややかな声音が空気を刺す。
「知らない女だ」
――目の前に現れたからといって、情けをかけると思うな。そんな考えは彼には一切なかった。
その言葉は、まるで氷のように梨々の頬を打った。
「……知らない」たった四文字が、梨々の胸の内をズタズタにする。
唇を噛み締め、理性を取り戻そうとする。ここまで来て、今さら引き返すわけにはいかない。
表参道にあるこの高級フレンチレストランで騒ぎを起こせば、客の視線を集めてしまう。彼女のような立場の者がそれをしてしまえば、レストランの品格に泥を塗ることになる。
――柚子にも迷惑をかけちゃうよ。我慢よ。
指先が白くなるほど強くスカートの裾を握りしめ、梨々は深呼吸をして、ピアノに向かった。
リクエストされたのは、誰もが知る名曲――「カノン」。
男が女を愛し、讃えるような旋律。
梨々は楽譜をじっと見つめ、ようやく指を鍵盤に乗せた。
誰がこの曲を選んだのかは分からない。だが、マクレガーという外国人がしきりにからかうように笑いながら言った。
「東雲社長、橘副社長のような才色兼備の女性が傍にいて、本当に幸運ですね!」
「彼女は優秀ですよ」
すると、琢磨は唇を緩め、惜しげもなく橘真希を褒め称えた。
真希は上品に微笑み、「最初はまだまだでしたが、東雲社長に育てていただいたおかげです」と、柔らかく答える。
ピアノの前奏は静かで、彼らの会話を完全には遮れなかった。
梨々は楽譜を見ずとも指が動く。だがその視線は、自然とテーブルの三人に向かってしまう。
東雲琢磨は橘真希の方へ体を傾け、椅子の背に腕を回していた。
真希は流暢な英語でマクレガー氏と談笑し、ときおり琢磨に振り返っては、何かを囁いていた。
梨々にはその英語の意味こそ分かっても、彼らが交わす専門的な言葉の奥までは理解できない。
だが、それでも分かる。二人の間には、言葉すら要らぬほどの
わずか五分ほどの演奏時間が、梨々にはまるで永遠のように思えた。
曲が終わり、指が止まる。余韻のようにピアノの音が残り、やがて会話の声が鮮明になった。
「お二人はまさに
マクレガー氏は、取引の条件に満足していなかったにも関わらず、二人を賞賛してやまなかった。
だが、外国人の語彙の選び間違いだと分かっている。いちいち訂正する必要もない。
橘真希は笑みを浮かべ、「お褒めいただき、光栄です」と答えた。
梨々は、そのやり取りから目を逸らす。
琢磨は、自分が恥さらしだとでも思っているのか。入ってきたときに一瞥しただけで、それ以降、一切目を合わせようとしなかった。
まるで――彼女が妻だと知られるのを恐れているかのように。
このレストランのピアノは柚子が特別に許可を取って借りたもので、普段は演奏者にも触らせない。
けれど、富裕層にとっては、音楽もまた一つの
本当なら、もう立ち去るべきだった。だが、なぜか足が動かない。
琢磨が煙草を吸っている姿を見つめて、梨々はぼんやり立ち尽くしていた。
そこへ、橘真希が席を立ち、彼女に近づいてくる。
一万円札が数枚、薄く重なった束を差し出しながら、笑顔で言った。
「いい演奏だったわ。私と彼氏からのチップだと思って」
――彼氏からのチップ…
その言葉が胸に突き刺さる。梨々は真希を見つめた。
その目は穏やかに見えて、奥には明らかな勝利の色が潜んでいた。
きっと彼女は、あの動画の送り主。すべては計算済みなのだ。
琢磨の冷たさには耐えられる。でも、橘真希の陰湿な挑発には、どうしても耐えられなかった。
何か言い返そうとした、そのとき――
「……まだ居るつもりか?」
琢磨の鋭い声が空気を裂いた。
彼の冷たい視線が梨々を射抜く。
――余計なことをせず、家に帰って反省していればいいものを。
その目がそう語っていた。
梨々は黙ってチップを受け取り、静かにその場を後にした。
戦っても勝ち目はない。橘真希には、東雲琢磨という後ろ盾があるのだから。
見苦しくなる前に引くのが、彼女なりの矜持だった。
その後も梨々はピアノの前に戻り、十時まで淡々と演奏を続けた。
演奏が終わると、柚子が車を取りに行き、梨々は着替えを済ませて店の前で待っていた。
秋の夜風が少し肌寒く、彼女は両手をポケットに入れ、コートを引き寄せる。
ふと、背後から東雲琢磨が現れ、隣に立って煙草を咥える。
「今後、こういう場所には来るな。何かあるなら家で話せ」
その声は冷静で、どこまでも他人行儀だった。
見上げれば、彼の顔は街灯の光に照らされ、まるで金色の縁取りをされているかのようだった。
整った顔立ち。煙草を咥える姿も絵になる。
――彼の存在そのものが、美しく、残酷。
心がまた、痛んだ。
「……誤解しないで。今日は柚子の手伝いで来ただけ」
彼から距離を取りながら、そう言った。
だが、琢磨は鼻で笑った。
「言い訳が上手いな。……次は泣く羽目になるぞ」
梨々はそっと目を逸らした。泣いているのを悟られたくなかった。
そのとき、マクレガー氏が出てきて琢磨に笑顔で握手を求める。
「東雲社長、良いお取引を!」
琢磨は彼女に向けていた冷笑を消し、柔らかな笑みを浮かべた。
「ええ、こちらこそ。滞在中はぜひ日本を満喫してください。橘に案内させますので」
マクレガー氏は冗談めかして返す。
「彼女は東雲社長のものだろう? 私は手出ししませんよ!」
ちょうどそのとき、橘真希が車で戻ってきた。
階段を上り、琢磨の隣に立つと、マクレガー氏ににっこりと笑いかける。
「お送りいたしますわ、マクレガー様」
「おお、それは光栄だ!」
琢磨は真希に身を寄せ、彼女の腰に手を添えて小声で告げた。
「気をつけてな」
真希はうなずき、マクレガー氏を伴って去っていった。
一度も、梨々の方を振り返ることなく。
まるで最初から存在すらしていないように――
あるいは、見て見ぬふりを貫いているのか。
その背中を見つめながら、神崎梨々はそっと唇を噛みしめた。