初めて会ったとき、梨々は認めざるを得なかった——橘真希は、間違いなく優秀な女性だった。
東雲琢磨の好みは、こういうタイプなのか?
彼が橘真希を見る目には、神崎梨々が見たことのない敬意と好意が宿っていた。
では、自分は彼の目にどう映っているのか——想像もつかない。
彼は梨々の前で、橘真希への特別な感情をまったく隠そうとしなかった。
彼は梨々を一体、どこに置いているのだろう。
梨々はそっと俯き、うっすらと露わになった白いうなじが、先ほどの言い合いのせいで、ほんのりと赤らんでいた。
その姿に、東雲琢磨の視線は思わず熱を帯びる。
今夜の彼女は、どこか印象的で、頭から離れない。
喉の奥がひくついた彼は、踵を返して車に向かった。
秘書・園田司が急いでドアを開け、彼が乗り込むと、何か小声で指示を受けた。
それから園田は梨々のもとへと近づいてきた。
「奥様、遅くなりました。東雲様とご一緒にお帰りになりませんか?」
「結構です。東雲さんの車なんて、私にはふさわしくないわ。」
停車している八桁の価格のクルマ——彼女は一度も乗ったことがない。
これからも、乗るつもりはなかった。
「奥様、そんなことは……東雲様の奥様である以上、あの車は奥様のものでもありますよ。」
園田は冷や汗をかいていた。普段穏やかな奥様が、今夜はまるで別人のようだった。
「でも、私はもうすぐ直美夫人じゃなくなるから。」
その言葉に、園田は絶句し、車内の東雲琢磨と、階段に立つ彼女を交互に見つめる。
「園田、出せ。」
窓を少し開けた東雲琢磨の顔は、影の中で凍りついていた。
園田が車に戻り、シートベルトを締めながら口を開いた。
「東雲様、奥様は橘さんの誕生日の件で怒っているのでは?あの誕生日サプライズは私が段取りしたものですし、私から説明に——」
「説明など要らん。あいつに考えさせろ。」
東雲琢磨がそう言い切った直後、窓の外から芹泽柚子の怒鳴り声が響いた。
「東雲やろう!あんたなんか、梨々には釣り合わない!梨々は絶対、一流のデザイナーになるんだから!」
通行人の視線が集まり始め、彼は眉をしかめて一言——
「行け。」
園田は急いでアクセルを踏み込んだ。
車内で、芹泽の罵声が耳に残る中、彼はふと尋ねた。
「奥様、大学で何を学んでいた?」
「インテリアデザインです。」
「彼女の動きを監視しろ。どのデザイン会社にも就職させるな。」
この件に労力を割きたくなかった。仕事に支障が出る。
彼はビジネスの場ではいつも迅速で冷徹だ。その手腕で何度も勝ち抜いてきた。
神崎梨々に対しても——同じで構わない。
―――
柚子の車に戻った神崎梨々は、ようやく安堵のため息をついた。
「なにビビってんの?」
運転席の柚子はどうも怒りが収まらない様子。
すでに事情を聞いた柚子はまだ激怒している。梨々が彼らの前で演奏し、さらにチップまでもらった?屈辱だ!
「本妻のあんたがなんであんな奴らに押されてんのよ!」
でも、梨々は自嘲気味に言う。
「私の立場でも、神崎家の立場でも、東雲琢磨を敵に回すのは得策じゃない。」
彼と泥沼になると、離婚はもっと厄介になる。二人の問題が、両家の争いになる。
「梨々、家には話したの?離婚のこと。」
赤信号で車を停め、柚子が聞いた。
梨々は首を振る。
「まだ……」
神崎家は東雲家に依存していた。父が知れば、真っ先に反対する。
母は優しいが、なんでも父に従う性格だ。そして毎日「良き妻になれ」と繰り返していた。
だから母の言いつけに従い琢磨を信じ、耐えてきた。2年も。
でも不倫が発覚した今、これまでの我慢が、滑稽で惨めに思えた。
誰も自分を理解してくれない。だから——両親が知る前に、離婚しなきゃいけない。
「じゃあ、こっそり話を進めよう。離婚届、準備してる?」
柚子はなおも怒り心頭だった。
「絶対に何もいらずにその家を出てくるなよ!家も車も貰えなくても、数千万の賠償は取りなさいよ!」
「……それは、まだ考えてなかった。」
梨々はぽつりと言った。
柚子はそれ以上責めず、家に帰って軽く夜食をとり、発散させようとしたが——
梨々はソファに座り、PCを抱えた。
「履歴書出して仕事探すの。すぐ働きたい。」
「手伝おうか?」
「大丈夫。自分で見つける。」
彼女には自信があった。実務経験はなくても、卒業制作で賞を取ったことがある。
案の定、多くの企業から面接の連絡が返ってきた。
一歩踏み出した手応えは確かだった。やる気が満ちてくる。
翌日、柚子と一緒にスーツを買い、面接の準備も万端。
忙しくしていると、時折、東雲琢磨の姿が脳裏をよぎる。
そして必ず、橘真希の姿も。
何もかも叶いそうなあの人と自分を比べるたび、胸に小さな針が刺さるようだった。
だからこそ、早く仕事を見つけ、自立しようと思った。
午前9時、一つ目の会社。
自己紹介を終えたあと、面接官が問う。
「神崎さん、大学卒業後の2年間、何をされていましたか?」
この質問は想定内だった。神崎梨々は少し恥じ入ったように答える。
「……結婚していました。」
「残念ですが……新卒採用には時期というものがあります。卒業してすぐに就職していれば歓迎でしたが……申し訳ありません。」
これはつまり、お断り。
だが梨々は納得できなかった。
「まだ職歴について何も聞かれていません。結婚していたから、それだけで不採用ですか?」