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第5話:俺の気を取り戻すための小細工にすぎない


初めて会ったとき、梨々は認めざるを得なかった——橘真希は、間違いなく優秀な女性だった。

東雲琢磨の好みは、こういうタイプなのか?

彼が橘真希を見る目には、神崎梨々が見たことのない敬意と好意が宿っていた。

では、自分は彼の目にどう映っているのか——想像もつかない。

彼は梨々の前で、橘真希への特別な感情をまったく隠そうとしなかった。

彼は梨々を一体、どこに置いているのだろう。


梨々はそっと俯き、うっすらと露わになった白いうなじが、先ほどの言い合いのせいで、ほんのりと赤らんでいた。

その姿に、東雲琢磨の視線は思わず熱を帯びる。

今夜の彼女は、どこか印象的で、頭から離れない。

喉の奥がひくついた彼は、踵を返して車に向かった。

秘書・園田司が急いでドアを開け、彼が乗り込むと、何か小声で指示を受けた。

それから園田は梨々のもとへと近づいてきた。

「奥様、遅くなりました。東雲様とご一緒にお帰りになりませんか?」

「結構です。東雲さんの車なんて、私にはふさわしくないわ。」

停車している八桁の価格のクルマ——彼女は一度も乗ったことがない。

これからも、乗るつもりはなかった。


「奥様、そんなことは……東雲様の奥様である以上、あの車は奥様のものでもありますよ。」

園田は冷や汗をかいていた。普段穏やかな奥様が、今夜はまるで別人のようだった。

「でも、私はもうすぐ直美夫人じゃなくなるから。」

その言葉に、園田は絶句し、車内の東雲琢磨と、階段に立つ彼女を交互に見つめる。

「園田、出せ。」

窓を少し開けた東雲琢磨の顔は、影の中で凍りついていた。

園田が車に戻り、シートベルトを締めながら口を開いた。

「東雲様、奥様は橘さんの誕生日の件で怒っているのでは?あの誕生日サプライズは私が段取りしたものですし、私から説明に——」

「説明など要らん。あいつに考えさせろ。」

東雲琢磨がそう言い切った直後、窓の外から芹泽柚子の怒鳴り声が響いた。

「東雲やろう!あんたなんか、梨々には釣り合わない!梨々は絶対、一流のデザイナーになるんだから!」

通行人の視線が集まり始め、彼は眉をしかめて一言——

「行け。」

園田は急いでアクセルを踏み込んだ。

車内で、芹泽の罵声が耳に残る中、彼はふと尋ねた。

「奥様、大学で何を学んでいた?」

「インテリアデザインです。」

「彼女の動きを監視しろ。どのデザイン会社にも就職させるな。」

この件に労力を割きたくなかった。仕事に支障が出る。

彼はビジネスの場ではいつも迅速で冷徹だ。その手腕で何度も勝ち抜いてきた。

神崎梨々に対しても——同じで構わない。


―――

柚子の車に戻った神崎梨々は、ようやく安堵のため息をついた。

「なにビビってんの?」

運転席の柚子はどうも怒りが収まらない様子。

すでに事情を聞いた柚子はまだ激怒している。梨々が彼らの前で演奏し、さらにチップまでもらった?屈辱だ!

「本妻のあんたがなんであんな奴らに押されてんのよ!」

でも、梨々は自嘲気味に言う。

「私の立場でも、神崎家の立場でも、東雲琢磨を敵に回すのは得策じゃない。」

彼と泥沼になると、離婚はもっと厄介になる。二人の問題が、両家の争いになる。

「梨々、家には話したの?離婚のこと。」

赤信号で車を停め、柚子が聞いた。

梨々は首を振る。

「まだ……」

神崎家は東雲家に依存していた。父が知れば、真っ先に反対する。

母は優しいが、なんでも父に従う性格だ。そして毎日「良き妻になれ」と繰り返していた。

だから母の言いつけに従い琢磨を信じ、耐えてきた。2年も。

でも不倫が発覚した今、これまでの我慢が、滑稽で惨めに思えた。

誰も自分を理解してくれない。だから——両親が知る前に、離婚しなきゃいけない。

「じゃあ、こっそり話を進めよう。離婚届、準備してる?」

柚子はなおも怒り心頭だった。

「絶対に何もいらずにその家を出てくるなよ!家も車も貰えなくても、数千万の賠償は取りなさいよ!」

「……それは、まだ考えてなかった。」

梨々はぽつりと言った。

柚子はそれ以上責めず、家に帰って軽く夜食をとり、発散させようとしたが——

梨々はソファに座り、PCを抱えた。

「履歴書出して仕事探すの。すぐ働きたい。」

「手伝おうか?」

「大丈夫。自分で見つける。」

彼女には自信があった。実務経験はなくても、卒業制作で賞を取ったことがある。

案の定、多くの企業から面接の連絡が返ってきた。

一歩踏み出した手応えは確かだった。やる気が満ちてくる。


翌日、柚子と一緒にスーツを買い、面接の準備も万端。

忙しくしていると、時折、東雲琢磨の姿が脳裏をよぎる。

そして必ず、橘真希の姿も。

何もかも叶いそうなあの人と自分を比べるたび、胸に小さな針が刺さるようだった。

だからこそ、早く仕事を見つけ、自立しようと思った。


午前9時、一つ目の会社。

自己紹介を終えたあと、面接官が問う。

「神崎さん、大学卒業後の2年間、何をされていましたか?」

この質問は想定内だった。神崎梨々は少し恥じ入ったように答える。

「……結婚していました。」

「残念ですが……新卒採用には時期というものがあります。卒業してすぐに就職していれば歓迎でしたが……申し訳ありません。」

これはつまり、お断り。

だが梨々は納得できなかった。

「まだ職歴について何も聞かれていません。結婚していたから、それだけで不採用ですか?」


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