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■ はじめてのさつじん ■

 翌日。一九九九年四月十四日。

 午前四時過ぎ、隣の布団で城崎翼が眠っているのを確認し、四条竜之助は外へ出て散歩

をした。十二日に寝すぎてしまい睡眠のバランスが崩れたのだ。それ故の早起きである。

 城崎はもはや惰眠をもむさぼろう。

 独自の信仰コミュニティなら極端な早寝早起きがあるところもきっとあるのだろうが、

御家属の「地」でそれはないらしい。

 土手まで歩いて出て見ると、東の空。東塀のちょっと上あたりに、明けの三日月が見え

た。左側が膨らんでいる、とても体の細い三日月だ。一般的なイメージでいう三日月とは

左右対称の明けの三日月。伊達政宗の兜は三日月を表しているというけれど、明けの三日

月を表していたとしても不思議ではない。左右が反転しているだけでどちらも地面に転が

してしまえば似たような形だ。

 こういったこともメモ帳に書いた。

 キーワードだけ最初にメモ帳に書いておき、後で夜の空いた一人の時間に小説仕立ての

文章に仕上げる。一人称ではなく、「四条竜之助は…… 」と書くのは、第三者的に記憶を

鑑賞すれば失った記憶の具合にもよいかと考えたのが半分と、体験したことを他人事のよ

うに思いたい気持ちが半分といったところか。

 メモ帳の後ろの方のページをめくってみると、上空から見た時の「地」の地図が描かれ

てあった。城崎翼が描き加えたのだろう。

自分の城崎翼への赤裸々な感想が城崎に読まれたわけだからどうしようと気恥ずかしく

はなったけれど、構いやしない。どうしようもない。

 ここは「地」。

 日本の一般社会ではないのだ。

 ふと、四条竜之助は自分が着ている白シャツの胸ポケットを見た。ずーっと着続けてい

るが、洗濯は億劫なので、今年に発売された消臭スプレーなるものを噴射してあったので

臭いはしない。

 消臭スプレーは物流所を通じて、城崎翼が調達したものだ。

 こんな僻地で最先端のものが手に入るとは…… と四条は舌を巻いた。

「あれ?」

 白シャツの胸ポケットにシャープペンシルとボールペン二本を入れてあったのだが、シ

ャープペンシルが無くなっている。

 メモ帳に記すのには、ボールペンで充分だが、お気に入りのドラえもんのシャーペンだ。

集会所に落としたのかしらんと思って、四条竜之助は一人で集会所に向かった。

 彼岸の窯からはまだ煙が上がらない。

 昨日の行事のあと、集会所の広間で男連中によるちょっとした懇親会があった。

 集会所の広間で落としたのだろうと見当をつけ、四条は気安く玄関から入り廊下を通っ

て広間に向かった。

すると、広間にやはりシャープペンシルが落ちていて、拾って胸ポケットに仕舞った。

 ところが、廊下の方から「きゃあ」という悲鳴が聞こえた。若い女性の悲鳴だ。 ―― うっかりしていた。

 城崎翼に説明されていたのだった。

「あくまで、この『地』で子作りをする男性は『お父さま』ただ一人。だから、御家属の

男は決して女性に手を出してはならない。一つ屋根の下に男女が居合わせるのも禁忌。

 『お父さま』の『踊り』で『舞っ』た『息子さん』『娘さん』は、『息子さん』同士

『娘さん』同士でそれぞれ家庭を持ち、二十年後、やはり『踊り』で『舞っ』た赤ちゃん

の『息子さん』『娘さん』を家庭に迎え入れるんです。僕とダーリンのところも来年には

男の子の赤ちゃんを迎え入れるんだあ。

 建物の中に『息子さん』と『娘さん』が居合わせてはいけない。だから建物に入るとき

は、『娘さん。ごめんください。息子さんから用があります』とか『息子さん。ごめんく

ださい。娘さんから用があります』とか言わなきゃならないの。掟を破ったら男女ともに

罰を受けなくてはならない」

 四条はすっかり失念していた。

 前日の飲み食いの後片付けをしていた「娘さん」と鉢合わせ。しかも、広間の縁側の外

から物音がする。

 ハタチくらいの男がこちらを見ていたのだ。

女の方は後でどうとでもなる。まず、目撃者に話をつけなければ、と四条は何故だか麻

痺した思考回路でそう思い、すぐに男のあとを追い、高い生け垣で囲まれている庭の隅に

男を追い込んだ。

 どこかで見覚えがある。

 ……。

 そうか。

 男は「息子さん」でも「お兄さま」でもなく、「地」の至る所に肖像画で描かれている

「お父さま」の顔をしていた。

 ソックリ。よく出来た肖像画もあったものだ。

「お父さま」に似た男は酩酊をしているように見えた。目の焦点が合っていない。

 いや。むしろ、この男こそが「お父さま」なのか?

 四条は男を追ったつもりだったが、「お父さま」の方は千鳥足で、勝手に庭の隅にフラ

フラやって来て座り込んだとも思える。

男性寮から集会所までの道のりでは、「地」の住人の誰とも出くわさなかったのだ。四条は、「お父さま」がこんな時間に出歩いていることには疑問を持ったものの、いくらか

冷静さを取り戻し「さっき見たことはどうか内密に」と言うつもりだった。

 だが、「お父さま」は「見いちゃった。見いちゃった」と大声を出してケラケラと笑っ

た。「先生に言っちゃおう。ジャスにも言ってやろう」とも言った。まるで完全に子供の

ようだ。

 四条は、黙ってくれと「お父さま」の口を手でふさいだ。だが、「お父さま」はそれで

も手足をバタつかせた。だから、自然と口を押さえる手にも力が入る。気づくと、「お父

さま」は息をしていなかった。手首で脈もとったがそれも無い。

 そのとき、「お兄さま」こと小石川正義がその場にやって来たのだ。集会所で鉢合わせ

た「娘さん」が呼んだのだろう。「地」の揉め事は自警団が管理する。そして、その自警

団を配下に置くのは他ならぬ小石川正義だ。

自警団員を従えている小石川は、「拘束なんかするのはよっぽど手間がかかる。一度眠

らせた方が早い」と部下に指示した。

 その時、逃げようと必死だった四条竜之助は彼岸を見たが、窯から煙は上がっていなか

った。


【つづく】

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