一九九九年四月十三日。
三日後の十六日の正午過ぎには空に浮かぶ月は新月になるはずだ。
あるのに、見えない。ちゃんと存在しているのに、光が当っていないせいで気づかれな
い人や事は、きっとたくさんあるのだろう。
四条竜之助は、かつて「月博士」を名乗っていたことがあったことを思い出した。
中学生時代に友人が、「なあ、リュウ。芥川龍之介は『アイ・ラブ・ユー』を何と訳し
たか知ってるか?」と聞いてきた。
「知らん」と答えると、「『月が綺麗ですね』だってさ。お前も月博士になって、そう
いう洒落たことが言えるようになれよ」とか何とか。
「アイ・ラブ・ユー」を「月が綺麗ですね」と訳したのは夏目漱石。しかも、夏目漱石
自体、そういう翻訳をしたとはどこにも記録が残っていないということを知ったのは後に
なってからだった。
しかし、中学時代に、芥川龍之介と漢字は違うものの同じ読み方の名前であることに元々縁
を感じていた四条竜之助は、友人に「ああ。月博士になるよ」と宣言したのだった。
といっても、地学部や天文部に入るわけでもなく、月の満ち欠けカレンダーを見て、
「今日は月齢○○の月だな」と思い、稀に空の月を確認する程度ではあったけれど…… 。
「地」に着て二日目の四月十二日は丸々一日眠りこけてしまった、という。四条竜之助
は、この「地」という環境に置かれたストレスによって大量の睡眠が必要になったのだ、
と納得した。
実を言えば、最初の夜、城崎翼に悪戯されないか心配だったのだが、その緊張状態より
も眠気が勝ってしまうと、あとはもうダルンダルンに緩んだ大縄跳びのように緊張は緩ん
でしまい、眠りこけてしまったというわけだ。
城崎翼に手を引かれて、男性寮の階段を降りる四条竜之助である。
運動をしているから心臓がドキドキするのに決まっているのだろうが、城崎翼に手を握
られているせいであると体が錯覚してしまったらどうしようと四条は心配をした。
男性寮と同じような一棟建ての建物がそっくりそのまま男性寮の並びに物流所として建っている。二人はその横を通って「川口」と「谷口」を繋ぐ「地」の大通りへ向かった。
「竜之助さん。この物流所。御家属は自給自足なんていういかにもなコミュニティっぽい
ことはやってないんだよ。イマドキ、流行らないでしょう。まあ、『お兄さま』に御家属
を流行らせるつもりがあるのだかどうだか。でも、信仰は流行り病じゃないからね。流行
には必ず終わりが来るけど、終わりなんてみせないのが信仰じゃない?」
四条竜之助は、いまいち城崎翼の話が飲み込めなかったので「さあ?」とだけ言ってお
いた。
「女性はこの『地』を守り…… 。って、もちろん、男手が自警団とか火消し隊をやって実
質守ってはいるんだけどね。火消し隊は此岸の集会所の南隣、と、彼岸の登り窯の隣に詰
所がある。で、自警団は、彼岸には火消し隊の隣。此岸には『舞踏館』に隣接していて、
『舞踏館』を守ってるんだ。『地』には南北の通りはこの大通りが一本。東西の通りは三
本あって、一番北の通りだけが西塀と東塀を繋いでる。あとの南の二本の通りは居合川に
遮られるから、東側にしか伸びていない。ちょうど大通りから東に伸びてる線が二本って
感じ。どう。イメージできた?」
正直な話、城崎翼の説明だけでは頭の中に明快な地図を描くことが出来ないでいた。
推理小説なんかでは、ちょうど本の冒頭に図解が載っていることがあるけれど、このメ
モ帳に自分の理解だけで「地」の地図を再現することは難しい。
「なに?いつもメモしてるけど」
「ええと。最近、ちょっと記憶が曖昧なところがあってね。医者に、経験したことを記録
しておいて見返すと、記憶の回復になると言われたんだ。夜には清書して小説仕立てにし
てる。その方が思い出しやすいと思うし。ほら。ルーズリーフだから、メモのままのとこ
ろと小説のところを入れ替えたり差し込んだり取り外したりできて便利でしょ?」
「ふうん」と城崎翼は興味が無さそうに言い、「『地』の地図は今度書き込んでおいて
あげるよ。ページを開けておいて。それとも、何?秘密の日記みたいに、人に覗かれるの
は嫌です?」
四条竜之助は鼻を鳴らした。
「構わないよ。別に、秘密のことを書いてあるわけじゃないから。まあ、その…… 。これ
はあくまで自分用に書いてあるものだからね。君のことが悪く書かれていても、それを読
んで気を悪くするのはお門違いってもんだ」
「ああ、そう。ま、別に鍵がかかってる日記帳でもないし、そんなに秘密のことは書かな
いか。遠慮なく見させてもらいます」
二人は、居合川の土手下を歩く。「川口」方向から「谷口」方向へと大通りを北に向か
っているのだ。
「今日は何を?」
一応、四条竜之助は城崎翼に聞いてみる。
今日は何を、も何も、まだ「地」に来てから実質二日目なのだが…… 。
「うん。まあ、お祭りというか、儀式というか…… 。邪教の怪しげな儀式をいっぱい想像
してみて。たぶん、その中のどれか一つとは一致すると思う」
城崎翼は顔の中央から花開くようにカアーッと笑ってみせた。
城崎が少し可愛らしく見えてくる。それは、男が女性を可愛いと思うのとは別の、動物
園の動物やペットなどに向ける可愛い、と同義の可愛いのはずだ。
物流所の西の端から、北へと五百メートルほど歩いただろうか。その十字路を左折する
と、奥に西塀があり、向かって左側に建物が二つ並んでいた。
「奥が診療所で、手前が集会所。今日は集会所に用がある」
集会所の庭からは、「えいやっ」とか「ふんっ」とか、「おおしっ」とか言った声が聞
こえてきた。
その場所で四条竜之助が目にしたのは、人間と同じ大きさの藁人形のようなものに火が
ついていて、その燃え盛る藁人形に、多くの男連中が抱きつく様だった。
藁人形は十数本、敷地に立っているだろうか。いたるところで、男たちがその燃える藁
人形に飛びついては、熱さに声を悶えさせたのち藁人形から離れ、集会所の庭の元々の地
面に掘られた落とし穴のようなところに飛び込んでゆき、他の者たちから土をかぶせられ
ることによって衣服に着いた火を消している。
土によって酸素が遮断されれば、火は燃え続けることが出来なくなる。
「まあ、安全のため、防火服のようなものを着てるんですがね。竜之助さんもやってみま
す?もちろん、防火服を着てですけど」
四条竜之助はポカンとした。阿呆のように口をダラーンと開けていたかもしれない。
「え、遠慮しとくよ。これには一体、何の意味があってやってることなの?」
四条の背後にヌンッと気配がした。振り返ってみると、いつもの校長先生然とした格好
で小石川正義が立っている。
「仏教の教えには、こういうものがある。仏教の教えを守らない者が、閻魔大王の裁きに
よって落とされる八大地獄の周りには、十六小地獄というものがある。その中の衆合地獄。
それを構成する一つが多苦悩処。そこは殺生や盗みに加えて、倒錯した性嗜好をおこなっ
た者が行く。男同士で愛し合った者は、愛した男が燃やされるのを見せられる。そして、
愛した男に抱きつくと、火が燃え移って死ぬ。それなのに生き返って、また燃えている男
を見て、抱きついて、火が燃え移って死ぬ。の繰り返しだ。この行事はその地獄を参考に
している」
正直、何を言っているのかよく理解できなかったが、要するに地獄を再現しているとい
うわけだ。
「ああ。だから、男がやってるんですね」と四条は得心した。
集会所の庭には、決死の行事を見守っているのは四十がらみ、あるいはもっと年配の女
連中ばかりだ。
四条竜之助は、「地」での最初の日に城崎翼から説明を受けた「地」の構成人口のこと
を思い出した。
単純計算では六十歳近い女性が百名いて、四十歳近い女性も百名いることになる。だが、
二十歳近い女性は一人も見当たらない。
せいぜい、二百人の約七十パーセント、百五十人くらいの女性しか見当たらない。つま
り、「お父さま」の相手役になる現役の女性の姿がない…… 。
「あの。男同士で愛し合うとそういう地獄に落とされるそうですが、女同士で愛し合った
場合のことは仏教には教えがあるんですか?」
「さあ?」
小石川正義はそう言って首をかしげた。
男性本位的である…… 。男色と女色という言葉もそうだけれど。まあ、ただでさえ日本
自体が女性の社会進出にようやく乗り気になったところなのだ。こんな未開拓のような閉
鎖社会では仕方なしだろう…… と四条は納得した。
【つづく】