周辺では「外地」の「地抜け」した元「息子さん」(「元」という表現はどうか。彼ら
の生物学的な父親が五家一本ということは揺るがない事実だ)たちが物陰から二人を物珍
しそうに眺めていた。御家属のなかで「お父さま」の次に重要な役割を担っている「お兄さま」こと小石川正義が、いったい四条竜之助ふぜいに何を話があるのか、と興味津々な
のだ。四条竜之助としても、こんなに公然と会談をすることに違和感を覚えたけれど、早
い話が「外地」の彼らもまた「お父さま」の「息子さん」。四条は複数の兄弟を証人にさ
せられ、「逃げるなよ」と圧をかけられたのに等しい。
「リュウノスケくん。三代目の話はナシにしようじゃないか」
そう言って小石川正義は周囲に隠れている「地抜け」した者たちの様子をうかがった。
なに、「三代目」なんていうフレーズは不穏当な代物ではない。「お父さま」が代替わり
するのは暗黙の了解であるらしいじゃないか、とこの時に及んでは四条は把握していた。
そもそも、代替わり説で「三代目」である友立(ともだつ)という人間は五家一本とは
全くの別人なのである。これにより、代替わり説は完全に否定された。五家一本が現実に
存在する以上、別の三代目が存在しているというのは建前のためだからだ。不老不死説が
建前ではなく代替わり説が建前なのだ!
「率直に言って、私の後継になってほしい」
これに、池の周囲で息をひそめている者たちはどよめいた。それはそうだ。「お父さま」
代替わり説の信者であるならば、実質的な御家属トップは「お兄さま」に他ならないから
だ。まるで、ゴルバチョフとブッシュの会談が行われているかのように、池周囲の物陰で
耳目の立つ音が続々と聞こえたといってもよい。
―― 壁に耳あり障子に目あり、池の周りにゃ……
しかし、「地」を囲う塀はベルリンの壁のようにはいかないだろう。「地」と「外地」
は決してお互いを公認することが出来ないのだから。自分の血が流れる子供を設けたいと
いう、人間の動物的性質として、「地」の者が「外地」の者を理解することは出来るかも
しれない。だが、それをしてしまえば、「では、それに逆らって教義を厳に守っている
我々はいったい何なのだ?」という疑問の前に立たされることになるだろう。
「私はもう六十一だ。次に『お父さま』がお目覚めになるときは八十一ということになる。
これはもう私ももうろくせざるを得ない。安心して世代交代をしたいじゃないか」
四条は当然の疑問を口にする。自分がいったい何故「お兄さま」の後釜なのか。自分は
一介のたかだか「お父さま」の血が四分の一流れるという、「息子さん」の「息子さん」
にすぎない。そもそも、代替わり説だとしても「お父さま」は直系の「息子さん」から選
ばれるべきであり、「息子さん」の「息子さん」もとい「お孫さん」とでもいおうか、の
四条竜之助に白羽の矢が当たったとしたら、とんだ腕の無い射手である。
「なぜ、僕なんですか?」
「外部から役員を招聘しない組織は腐る」
四条は肩をすくめた。そんなお題目があるか。この小石川正義という人間は、酸素を取
り入れて二酸化炭素を吐き出すように、耳に入ってきた適当な情報を取り入れて、その場
限りの嘘をはきだす、と四条はもう分かっていた。小石川正義が何か本でも書いたならば、
前の年にベストセラーになった池田大作や大川隆法の著作のように飛ぶように売れるので
はないか、と四条は思った。信者がおおぜいいるから、売れるのか。売れるから信者がお
おぜいいるのか。
―― 鶏が先か卵が先か。
「なんていうのは冗談だよ。だって、君は私に似ているから。君は『お父さま』にも似ているし、私にも似ている」
小石川正義は声を潜めた。池の物陰の地抜け者たちに聞こえないように。
「まるで、君は『お父さま』と私の間に出来た子供のようだ」
―― 何を言っている?
四条は後じさって尻餅をついた。池のほとりだから、地面は濡れている。服が濡れると
嫌だからすぐに立ち上がった。地面にはりついている苔の方だって、僕の尻に敷かれるの
は御免だろう、と四条は思った。
「バ、バカなことを言わないでください。そんな冒涜的な…… 」
「何が冒涜?男と男のあいだに子供が生まれるという話が?」
四条は、「娘さん」と「息子さん」が(寓意でも何でもなく)みんな同じ父親を持つこ
とについて考えた。そして、「娘さん」「息子さん」だけでは血脈が持続できないから、
外部から女性を連れてきて「お母さま」にし、用が済んだら放り出してしまうことについ
て。一時の血の気のバランスが不協和音となり、四条はこういう考えに至る。
―― あるいは、女性と男性のあいだに子供が設けられることこそが冒涜的なのではないか
……。
いや、いったい、何に対して冒涜なのだ、と四条はブンブン首を振る。
しかし、女性と男性、あるいはメスとオス。地球の表面にしがみついて、這いつくばっ
て蠢いているこの二種類の存在が生物に血を流し続けてきたというシステムは是なのだろ
うか。是も非もない、というのが四条の考えだ。それは、所詮、みんながその仕組みを今
まで崇拝してきたから。今までたまたまそういう仕組みを続けてきたから、にすぎなかっ
た。じゃあ、みんながやってきたから、あるいは、今までそうだったから、血を受け継ぐ
人間はおとなしく従いなさい、という言い訳が立つのか?四条には、そうとも思えない。
小石川正義は比喩で言ったのであろうが、男性と男性同士が子供を設けることが出来な
いのは、いくら身体的機能の性差のせいだからといって不合理なのではないか。それは
「子供を作れない」ということそのものが男同士で愛し合うことに付きまとう副産物のよ
うにも感じられる。
四条はハッとした。僕はいったい、何を考えているのか。小石川正義の「ドグラ・マグ
ラ」(この題名には「切支丹バテレンの呪術を指す長崎地方の方言」という意味があるら
しい。それこそ魔術である)に惑わされているだけなのだ。いや、僕はもう既に、どこか
の段階で正気を失ってしまっただけなのかもしれないとも四条は思った。だが、それだっ
たなら、正気ではない見方で狂った世界を眺めた感想を陳述するまでだ。
絶対に北を指さない方位磁石を持って樹海に入るようなものか。だとしたら、「これが
指しているのは北じゃないことは分かっているけれど、それでも北だと指しているのだか
ら、信じてみよう。間違っていたって構わないじゃないか」というやぶれかぶれの気分で
もある。
「とにかく。僕が言いたいことは、『お父さま』への愛はそういう愛ではなく、家族愛で
あるべきではないか、ということです」
小石川正義は頷いた。
「だろうね」
小石川正義は両手を開いて差し出した。
「まあ、いい。『お父さま』への愛の形がどういうものなのかについてはこの際、置いて
おこう。だが、これだけは言える。君は『お父さま』を愛する。いや、もう愛しているの
かな?」
四条の顔面からは汗が止まらない。この男は、小屋で四条がとった行動を見ていたのか
とすら思える。四条は何故、五家一本に対してああいう行動をとったのか、未だに自分の
中でも整理がつかないでいる。五家一本の何かが四条竜之助の中の寝る子を起こしたの
か?
―― ひとつ言えることは、これまでに四条竜之助には女性との交際経験がないということ
だ(そして、男性との交際も)。
小石川正義はフフフと笑った。
「そんなに怖がることはない。私と君はそう変わらないという希望的観測を述べたまでだ
よ」
そして、小石川は四条に顔をグイと寄せた。小石川の薄茶のスーツを着こなしている様
はさながら、小学校の校長先生のようだ。何か悪戯をした生徒を𠮟るかのような。
「ぼ、僕とあなたは、全然違います。違う。違いますよ。冗談じゃない。何を言っている
んですか」
四条は自分の頬を掌で探った。顔面をどこかに落としてきてやしないか、ということを
確認する意味で。
小石川は両手の掌を四条に見せる。「まあまあ」という感じだ。
「君には私にはないものがある。どうしたって、私には受け継がれることのないもの」
……。四条が思い当たることは一つしかなかった。五家一本の血である。「五家一本が
実は、一九五九年以前にも『お父さま』をやっていたのです」なんてことにならなければ、
小石川が「息子さん」である可能性は消せる。
「つまり。その血があるものが『お兄さま』をつとめれば、御家属は安泰だと?」
小石川は良い成績をとった教え子の頭をポンポンするように、四条の頭髪をなでた。
「今は、別に理解なんかできなくたっていいんだ。だが、御家属に馴染み、そして時間が
解決の手を差し伸べてくれたら、君に流れている血は、いつか、君をもっとも相応しい
『お兄さま』にしてくれるはずさ。なにより、君の体には『お父さま』の血が流れている
のだから」
【つづく】